« オザワの弁明 | Main | 農産品の「競争力」 »

November 09, 2011

TPPのお話

■ 雪斎は、かなり偏狭なコメ・ナショナリストである。
 普段は、故地である宮城のコメしか食わない。
 たまに、贈られた新潟、岩手のコメを食する。
 故に、「安いから」という理屈で外国産のコメを食うという感覚はない。
 もっとも、外食では、そういう我が儘は通らない。
 とはいえ、震災前、とある銀座の鰻の名店で、「福島のコメです」と聞かされ、安心した記憶がある。
 あの店のコメは、旨かった。

 ところで、 TPP絡みで色々な議論がるけれども、もっとも唖然としたのが下の記事である。
 □ 鳩山元首相「米の言いなりになるな」…首相に
 野田首相は27日夜、東京・六本木の日本料理店で鳩山元首相、蓮舫行政刷新相らと会食した。
 出席者によると、鳩山氏は環太平洋経済連携協定(TPP)への交渉参加について、「米国や財務省の言いなりにならないようにしなければいけない」と述べ、慎重な対応を求めた。首相は「理解している」と応じたという。
                                 (2011年10月28日09時27分
 
 鳩山の認識は、相変わらずである。「米国のいいなりはダメ」 という理屈で、普天間基地の処理を無茶苦茶にしたのだから、少しは反省してもらいたいものである。
 だが、「米国のいいなりはダメ」という理屈で動くならば、たとえば シャルル・ド・ゴールの事跡は、きちんと参照しておく必要がある。「米国の都合に振り回されてなるものか…」と悲憤慷慨する暇があるなら、どうすれば米国の都合にふり回されないだけの「力」を得られるかを必死になって考えなければならない。雪斎は、そういう議論であれば、幾らでも付き合ってやろうと思うのだが…。ド・ゴールが具体的に何をしたかは、下記のコラムでも書いてある。
 ● TPP論議にみる主体性の欠落
 雪斎は、自称、「ド・ゴール主義」の信奉者である。「力」の裏付けを持たない「対米追随」批判などは、まったく意味がない。最近のTPP絡みの議論でいえば、反対論の論調は、「左翼+ナショナリスト」連合の趣きになっている。こういう反対論に触れていると、ますます、彼らとは「距離」を距離を置きたくなる。
 とはいえ、野田佳彦がやろうとしている現下の推進論には、大いなる不安を感じる。自由貿易体制というのは、「戦場」であるから、そこで戦うには、色々な武具が要る。、「富」にかかわる政策には、色々な前提がある。野田佳彦は、そうした前提を全然、説明していない。だから、不安になる。
 日本では、こういう政策論争には、何時も「神学論争」の趣きが付きまとう。自分の「陣営」に引きこもって、身内だけでマスターべーションをやるか、他の「陣営」に属すると自分で勝手に判断した人々に「罵倒の言葉」をなげつけるか、そのどちらかである。相変わらずである。
 雪斎は、「自由貿易」論者である。だが、「コメ・ナショナリスト」である。外国産の「安いコメ」が入ってこようとも、「どこぞの馬の骨」か判らぬコメは、食いたくない。こういう感覚は、雪斎だけのものではないと思うのだが…。
何故、コメの「競争力」を価格の面だけで見ているのか。、

|

« オザワの弁明 | Main | 農産品の「競争力」 »

Comments

TPPに関する認識は、まさに同意であり、判断をステイするしかないような状況であります。
が、いかに一部に熱狂的な米ナショナリストがいようとも、別の一部に価格弾力的な購買行動の人がいれば、それは市場での米の売買価格に影響を与え、確実に下落させますので、米農家の収入が減って苦労する、あるいは廃業を決意するであろうという点は変わりないはずです。

Posted by: 通公認 | November 09, 2011 03:28 PM

自由貿易は、プラスサムであり、ゼロサムではないというのが、アダム・スミス以来の経済学が明らかにしてきたこと。
福沢諭吉的にいうと、貿易という交際は文明の恩典であり、人々の独立自尊につながるもの。
どうも、政治学者には、アダム・スミスが批判した重商主義者がいまだに多いようだ。
 学際的な研究はなかなか難しいとしても、もう少し隣接科学との共通理解を進めることが肝要だと感じる。
 コメ・ナショナリストが頑健なら、別に、日本における消費者の選択が豊富になるということのはず。
 みかんでも、さくらんぼでも、日本の農産品が駆逐されていないことは事実として明らか。「ナショナリスト」がかなり存在している証拠だと思う。

Posted by: 元リフレ派 | November 10, 2011 12:06 AM

とはいえ、自由貿易が寄って立つ競争市場の調整において、タイムスケールは一切規定されておらず、市場での調整(労働の移動を含む、一切の構造的変化)には一切コストが掛からないという前提で成立するという、モデルの特徴があるわけで。自由貿易のメリットだけを喧伝する人ってのも、中途半端に道具として経済学はかじったけど、その正しい使い方を知らない人。鉄砲を持ったら、とりあえず撃ってみたい子供と同レベルに思います。
経済学による自由貿易の理想があれば、同時に、そこでモデル外として捨て去られている、「現在のそこそこ好ましい状況を放棄することを強いられる、交渉で売られる側の人」への手当を、政治学と連携して学習し、それをポリティカルエコノミックスの一領域として理論化することこそ経済学界に求められていることじゃないかと思ったりします。
経済学だって、もともとは政治のための道具として始まったわけですし。

Posted by: 通公認 | November 13, 2011 09:35 PM

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference TPPのお話:

« オザワの弁明 | Main | 農産品の「競争力」 »