真夏の「仕事」
■ 現在、読売新聞朝刊文化面に毎週月曜日、「今に問う言葉」というコーナーが掲載されている。
近代以降の日本の知識人の言葉を取り上げて、それを解説するというものである。
これまでは、福沢諭吉(執筆・苅部直教授)、小林秀雄(同・新保祐司教授)、徳富蘇峰(同・杉原志啓氏)、福田恒存(同・竹内洋教授)、清沢洌(同・筒井清忠教授)という順序で解説が進められた。
今月は雪斎が依頼されたので、永井陽之助先生の言葉を取り上げた。
□ 読売新聞短期連載「今に問う言葉」 永井陽之助 1「月に人間が行けるのは、月と地球の間に人間が住んでいないからだ」。
―永井陽之助「二十世紀と共に生きて」『二十世紀の遺産』(永井陽之助編、文藝春秋、一九八五年)所収
菅直人が所信表明演説で学生時代に薫陶を受けた政治学者として言及した永井陽之助は、理工系研究者から「月に人間が行ける時代に、何故、下らぬ争いが絶えないのか」と問われた。「月と地球の間に人間は住まない」という永井の返答は、そのまま「他人を動かす営み」としての政治の難しさを示唆している。確かに、地上では、一人の地権者も説得できなければ、一メートルの道路も敷くことができない。しかも、多様な利害や思惑を持つ人間を相手にする以上、そうした説得の過程では、様々な手練手管が駆使されざるを得ないし、その結果も曖昧なものである。故に、政治の世界では、誰もが納得するような明快な「解」は存在しない。しかしながら、世の人々は、そうした明快な「解」を往々にして期待する。実は、そうした空虚な期待こそが、民主主義体制における「成熟」を阻害する。「現実主義者」と呼ばれた永井が凝視しようとしたのは、そうした政治に絡む「現実」であった。
『読売新聞』朝刊(2010年8月2日付)
なるほど、実に味わい深い言葉である。
別の喩えでいえば、ある山の頂に辿りつくのには、足場に注意を払って一歩一歩登っていかなければならないのだが、時折、「ヘリコプターで山頂まで行ってしまえ…」という類の議論が飛び出す。
鳩山由紀夫前総理は、その「「ヘリコプター」を「普天間」でやろうとして失敗した。菅総理は、前よりも足場が悪くなった山道を歩いていかなければならない。菅総理には、「どっぷりと」山歩きの辛さを味わっていただこう。
このショート・コラムは、あと二回、続く。
■ もうひとつ、宣伝である。
朝日新聞で出ていた雑誌「論座」がウェブ版で復活した。
詳しくは、下のリンク先を参照のこと。
● WEBRONZA
雪斎も、「政治・国際」担当で執筆陣に加わった。
面白いことができそうである。
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Comments
足場に注意(党内)を払い
一歩一歩(よろめきながら)登っていく
が、それは違う山の頂?
目につくは
・在日外国人も投票可能の代表選
・秘密裏に決定方向の朝鮮学校無償化
・「防衛白書」公表先送り
・「日韓基本条約」の形骸化意思
・普天間計画策定先送り
・金賢姫、死刑執行パフォーマンス
・お家芸の党内抗争
…などなど
安保・経済・財政、あらゆる面での国難の折、
そもそも登る道が間違っている。
やるべきことの順序が違う。
緊急の課題山積も自らの思想信条を優先している。
何のための下天の政治家。
替歌「夕日」の如し。
Posted by: 素浪人 | August 10, 2010 12:24 AM
「他人を動かす営み」をめぐって、理系の私は法学部の友人と意見を違え、しばしば喧嘩になります。
政治の本質は宗教のそれと同質のものであると私は理解しています。
どちらもありもしない「解」を求める。
加速する情報化社会は大量の「解の期待」と「解の不在」両方を有権者に与えます。
民主党の「マニフェストとその顛末」が単純でよい例でしょうか。
政治は人を納得させる手段です。
私が言いたいのは、政治はパワーの裏打ちのある営みであってもらいたいということです。
ヘリコプターを持ってないのに、登山装備がないのに、山頂は目指すべきではない。
観念的ですいませんでした。
Posted by: 通りすがりの学生 | August 11, 2010 12:37 AM
とても魅力的な記事でした。
また遊びにきます。
ありがとうございます。
Posted by: 履歴書の添え状 | August 17, 2010 05:17 PM