「堕落した評論」への自覚
■ 昨日、「事実上の『無政府状態』」と書いたものだから、妙なアクセス数上昇と相成った。
「あれは、無政府状態ではないであろう…」という反応がある。そのような反応は織り込み済みで、わざわざ、「無政府状態」と括弧に入れて書いたけれども、そのニュアンスは、伝わらなかったようである。憲法第70条の解釈に関しては、リーダーの方から有益なコメントがあったので、それを残しておいた。
もっとも、昨日のエントリーは、相当に「真面目さ」に欠ける「どうでもよい」書き方をしたから、色々な反応を呼んだのも当然であろう。表のメディアでは、絶対にやらない書き方をしている。
ただし、気付いたことがある。
「吾輩の評論も、つくづく堕落したな…」ということである。
ブログを始めたころ、「これは、武藤敬司ではなく、ザ・グレート・ムタだ」と表明しておいたが、古参のリーダーはともかく新手のリーダーは、このスタンスを知らない思うので、あらためて表明しておこう。だから、このブログで書いたことを基にして、「○○(雪斎の本名)が、こういうことを言っている」と反応されても困るのである。
とはいえ、自民党政権時代は、「ザ・グレート・ムタ」であっても、一定の「節度」を保っていたのだが、このところは、その「節度」もなくなっている。「イチフ・オザーリン」とか…。昔は、こういう個人をあげつらうようなモノの言い方は、まずしなかったと思う。
野党的な立場での政治評論は、気楽なものだが、「真面目さ」を込めてやるには、率直に阿呆らしい。鳩山「前」(まだ『前』を付けるのは早いが…)内閣発足時点以降、「武藤敬司」としては、「どうせ鳩山総理は、読んでないだろうし、読んでも受け容れないだろう…」という気持ちがあるから、熱が入らないし、「ザ・グレート・ムタ」としても、そういうレベル以上のモノは、書かなくなったのである。
「武藤敬司」」として、政治評論をやっていて最も楽しかったのは、小泉純一郎内閣期である。具体的に政策を考え、評価する「ひりひりした」緊張感の下の評論であった。あれを快感と呼ぶのは、マゾヒストの振る舞いであろう。小泉純一郎氏には、総理就任以前に、「貴君の書いたものは読んでいる」と一度、声をかけてもらったことがあったので、当時は、「総理に読んでもらっている」という感覚をヴィヴィッドに持つことができた。また、当時の山崎拓幹事長が、雪斎にとって誠に近い政治家だったので、そうした反応も知ることができた。雪斎と「政権」の距離が最も近かった時期である。「とにかく、変なことは書けなかった」のである。「ザ・グレート・ムタ」としてブログを書き始めたのは、当時の「武藤敬司」としての立場よりは少しだけ楽に書けると思ったからである。
政権に接点を持とうとしない政治評論は、おそらくは、「堕落の評論」である。そこには、何の責任感も緊張感もないからである。雪斎が、その「堕落の評論」を始めて八ヵ月が経った。少なくとも、それは、あと三年は続くのであろう。
「そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を救わなければならない。政治による救いなどは、上皮だけの愚にもつかない物である」。 ―坂口安吾『堕落論』
永井陽之助先生が推した坂口安吾の文章の一節の意味が、最近、ようやく判ってきたような気がする。「堕ちまいと踏みとどまるか」、それとも「堕ちるところまで堕ちるか」。以前の雪斎ならば、前者であった。今は、後者に傾いている。
とはいえ、雪斎は、「堕落した評論」を自覚しながらも、自民党の再建には尽力しなければならない。自民党機関紙『週刊自由民主』における「保守主義入門」と題された連載は、既に40回を数えた。政党機関紙という性格上、自民党関係者以外には誰も目にしない原稿であろう。一編だけ関係者外に公開して、「堕落」への自戒としよう。
□ 保守主義入門38 保守政治家の肖像Ⅰ シャルル・ド・ゴール(8)結
シャルル・ド・ゴールの隠居所と墓所は、パリから東に二百六十キロほど離れた小村、コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズにある。ド・ゴールの隠居所は、一階に二十四畳程の部屋が二、三あるだけの木造の建物である。応接間として使われていたと思しき部屋の奥には、ド・ゴールの生前には、彼自身と夫人しか入れなかった十二畳敷位の書斎がある。それは、フランス史はおろか、二十世紀国際政治史に名を残した政治指導者の隠居所としては、余りにも小さな空間である。
この隠居所の質素な佇まいが暗示するように、ド・ゴールは、私心を忘れて祖国であるフランスに奉仕する「公僕」としての姿勢を峻厳なまでに貫いた。「命もいらず名もいらず。官位も金も望まざる者は御し難きものなり。然れどもこの御し難き人にあらざれば艱難をともにし国家の大業は計るべからず」とは、『西郷南州遺訓』中の有名な一節であるけれども、ド・ゴールは、この一節を体現するかのようであった。^
実際、ド・ゴールは、引退後には、首相職や大統領職を歴任した立場から当然のように得られるはずの恩給を総て辞退し、陸軍准将としての年金だけで生計を維持した。また、ド・ゴールは、『第二次世界大戦回顧録』に代表される著作による印税収入を得ていたけれども、それもまた総て、染色体異常に因る心身障害を抱えて生まれ二十歳で夭折した次女を記念して自ら設立した障害児福祉財団に寄付していた。
加えて、ド・ゴールは、遺言の中で次のように語っていた。「私の葬儀は、コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズで執り行われることを望む。…国葬は要らない。…墓銘は、《シャルル・ド・ゴール 1890- 》とし、それ以外には何も記してはならない。…私は、栄進、位階、表彰、勲章の類はいかなるものであれ、国の内外を問わず拒否するものであることを宣言する」。
もっとも、ド・ゴールの遺志に反して、ジョルジュ・ポンピドゥー政権下のフランス政府は、ド・ゴールの葬儀を国葬として執り行った。後日、フランスは、表玄関としての国際空港、そしてパリ中心街の最も有名な広場にド・ゴールの名前を冠した。ド・ゴールは、「命もいらず名もいらず」の姿勢を貫こうとしたけれども、後代のフランスは、「不朽の名前を刻む」ことによって、ド・ゴールの祖国への貢献を遇したのである。
ド・ゴールは、一九六八年五月、「五月革命」と呼ばれた政治混乱の収拾の過程で、その政治上の危機に陥り、翌年四月、自ら国民投票に付託した上院・地方行政制度改革案の否決を機に、政権の座から退いた。ド・ゴールの十一年に及ぶ執政は、次第にフランス国民に欲求不満と倦怠の感情を生じさせた。ド・ゴールは、そうした感情に抗うことができなかったのである。
保守主義の精神は、過去から現在に至る「時間の蓄積」を重視する故に、それを体現する政治家に要請されるのは、そうした「時間の蓄積」の中で自らの政治上の権勢を位置付けようという謙虚な姿勢である。ド・ゴールが樹立した政治体制は、共和制の枠組の中に「君主」を登場させる趣を持つものであった。けれども、ド・ゴールは、その「君主」としての広範な権限を専ら「フランスの独立と栄光」のために行使し、それがフランス国民から受け容れられなくなった折に執政の幕を自ら下した。保守主義を標榜する政治家にとっては、政治上の権勢とは、歴史の流れの中で一時的に貸与された「借物」に過ぎず、自らの手前勝手な「正義」や「思惑」で使えるものではない。ド・ゴールの足跡が伝えるのは、そうした権勢への姿勢である。
『週刊自由民主』(2010年5月)
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Comments
「政治とは、職業でも技術でもなく、高い緊張を保つ生活である」
Posted by: KU | June 07, 2010 08:09 AM