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May 03, 2010

「敵」のイメージ

■ フランシスコ・デ・ゴヤが遺した傑作のひとつが、『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での虐殺』である。
 19世紀初頭、皇帝に即位したナポレオン・ボナパルトの軍隊がスペイン全土を支配下に置いたとき、その支配に抵抗したマドリード市民が蜂起したところ、ナポレオンの軍隊に鎮圧された。この事件を題材にした作品には、初めて観たときには、パブロ・ピカソの『ゲルニカ』よりも、おぞましい印象を受けた。
 18世紀以前のヨーロッパにおける戦争は、大体、王侯貴族が傭兵をも使って手掛ける戦争であった。だから、戦争するのは、あくまでも「ユニフォームを着た兵士」であり、それも、一定のルールに則った上での話になる。戦闘中命を落としても互いに「恨みっこなしで、別れましょうね」という具合になる。晴れて凱旋できれば、「富」と「栄誉」が待っているという具合になる。
 ところが、戦争を生業としているわけではない普通の市民が戦争にくわわわると、「敵」に対して、そうしたビジネス・ライクな見方ができなくなる。眼の前の「敵」は、自分の生命、財産に脅威を与える「現実の敵」として憎悪の対象になる。故に、「ユニフォームを着ない市民」が「ユニフォームを着た軍人」を相手に「仁義なき戦い」をやる風情になる。スペイン市民がナポレオン軍を相手にした散発的、神出鬼没の「小さな戦争」をスペイン語で「ゲリラ」という。今でいう「ゲリラ」の語源である。「ユニフォームを着た軍人」も、敗残兵を「捕虜」として扱うといった従来jのルールに則った処遇をする理由はないから、犯罪者として処断すという話になる。
 前のエントリーでは、カール・シュミットの『パルチザンの理論』に出てくる三つの「敵」の類型を元に議論した。ゴヤの最高傑作は、「敵」のイメージの転換を象徴する作品である。即ち、「在来型の敵」から「現実の敵」への転換である。202年前の今日の出来事である。

 ところが、特に二十世紀以降は、「絶対の敵」を認定しながら、革命を進めるというスタンスが露骨に表れるようになってくる。レーニンが権力を掌握して真っ先にやったのは、王族、貴族、地主、資本家といった旧勢力の一掃であった。また、1960年代後半の中国における「文化大革命」の前にも、中国共産党政府は、実は建国直後の1950年代前半にも、そのものずばりの「反革命分子鎮圧運動」(鎮反運動)というのを始めて、旧体制の残滓を一掃しようとしている。
因みに、ロシア史において、第二次世界大戦は、「大祖国戦争」と呼ばれる。ナポレオンの軍隊を追い出した1812年の「祖国戦争」の再来という趣旨である。ロシアの民衆からすれば、ナチス・ドイツの軍隊は、「絶対の敵」というよりも、「現実の敵」であった。スターリンも、革命体制を護るために戦えと呼びかけるのは嘘っぽかったので、「現実の敵」を相手にした「祖国戦争」の再来と位置づけたのである。スターリンは、共産主義の理想を真面目に信じたらしいレーニンとは違って、自分の「権力」の維持を第一に考えるタイプの指導者であった。
 ところで、こういうシュミット流の三つの「敵」の類型は、案外、二十一世紀の現在でも色々と応用できるかもしれない。このように考えて、前のエントリーを書いてみた。そうしたことを許すのが、「古典」の「古典」たる所以である。多分、この三つの「敵」を次のように一般化することは可能であろう。
 ① 「在来型の敵」 ― 一定の確立されたルールの下で対峙する「敵」、自分にとっても存在を必要とする「敵」
 ② 「現実の敵」  ― 自分の生命や財産に脅威を与える「敵」、妥協と共存の余地がある「敵」
 ③ 「絶対の敵」  ― 妥協の余地のない「敵」、存在それ自体を否定すべき「敵」
 だとすれば、政治が機能するのは、「在来型の敵」と「現実の敵」だということになる。相手の存在を抹殺する政治は、政治ではない。
 加えて、雪斎は幾度も書いているけれども、この点では米国は誠に厄介な国である。米国は、一旦、間違うと、「自由の敵」、「文明の敵」という「絶対の敵」を作って、それを処断するという体裁で、戦争に踏み込むことがあるのである。米国は、「自由の国」だが、1950年代には、誠に偏狭な「マッカーシズム」の嵐を経験している。その中では、「封じ込め政策」を立案したジョージ・ケナンですら、「共産主義者」として攻撃されている。テロリズム撲滅も、自国の民衆の安全に対する脅威を取り除くことに留まれば、「現実の敵」への対処に落ち着くけれども、「文明の敵」という言辞が入り込むと、途端に「絶対の敵」を相手にする話になる。米国では、こうした「文明の敵」というイデオロギッシュな言葉が意外に多用されやすい。ジョージ・W・ブッシュの「邪悪の枢軸」発言は、その一例である。日米同盟というのは、日本にとっては、そうした「厄介な国」を「敵」にしない枠組として機能している。綺麗事ではなく、そうした意義を、もう少し冷静に確認したほうがいい。もっとも、日本は、自由・民主主義・市場経済の価値観を米国と一致させているので、日米両国が互いに「絶対の敵」呼ばわりして衝突するのは、常識的には考えにくい。「改革・開放」を経たとjはいえ、共産主義体制下の中国とは、この点では決定的な開きがある。

 「政治の基本は、『敵』を減らすことにある」。
 田中角栄の名言である。
 「味方を増やすことだ」といわなかったのが、田中における政治感覚の卓越性を示している。
 「味方を増やすのは至難の業である。故に、せめて敵を減らして、中立的な層を増やしておく必要がある。中立的な層は、状況次第では味方になってくれよう」。これが、田中の言葉の意味である。
 だから、田中は、他人の悪口を決して言わなかったと伝えられるl。
 小沢一郎の弟子、即ち田中の孫弟子にあたる多くの政治家は、この意味が判っているか。
 わざわざ他の人々を「敵」に追いやるような発言しか、彼らから聞こえてこないのは、どうしたことか。現下の民主党の苦境は、自らの自堕落の故であって、日本国民の「移り気」や「無理解」の故ではない。「いつまでも、他人のせいにしてんじゃないよ」といいたくなる。

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