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May 01, 2010

政治における「敵」の三つの類型

■ 前のエントリーで、民主党青森県連代表の「反革命分子」発言を批判した。
 雪斎が小泉純一郎時代の「構造改革」を支持していたことに対する皮肉の意味合いもあるのか、「それならば、政敵を抵抗勢力と呼んでいた小泉は、どうなのか」という反応がある。
 結論からいえば、「全然、同じではない。違うであろう…」というところである。
 政治という営みの本質は、「友」と「敵」の峻別にあることを指摘したのは、カール・シュミットだった。
 忘れていけないのは、シュミットは、その「敵」を三つに分類していたことである。。
 どのように分類したのか。
 ① 在来型の敵
 ② 現実の敵
 ③ 絶対の敵
 ①は、ゲームにおける「敵」のイメージである。サッカーのチームが、相手チームの監督を「敵将」お呼ぶイメージである。だから、「敵」に対する憎悪の感情は、ほとんどない。戦争が終われば、「敵」とも握手して別れる。

 ②は、自分の安全や利害に対して、リアルな脅威を与えてくる「敵」である。故に、「在来型の敵」とは違って、憎悪の感情がむきやすい。野球の試合で、ビーン・ボールが投げられた途端に、乱闘に発展することがあるのは、「在来型の敵」が「現実の敵」に変わったことを例であろう。逆にいえば、「現実の敵」」が、具体的な脅威を与えないようになれば、妥協し、共存してていくことは可能だということになる。
 ③は、自分が奉ずる「正義」の実現に際して、その実現を邪魔しようという「敵」である。「正義」は、妥協の難しいものである。妥協は、「正義」の純粋性を汚すものと意識されるからである。妥協のできない「絶対の敵」とは、排除するか根絶するかの何れかしかなる。それは、自分にリアルな脅威を与えているかは、あまり関係がない。フランス革命からクメール・ルージュに至るまで、幾度となく繰り返された阿鼻叫喚の風景は、この「絶対の敵」の根絶の風景である。
 民主主義下の政党政治における「政敵」とは、①のレベルの話である。政治家という職業で「生計」を維持するような類の政治家jならば、「議席を失ったら食えなくなる」ということで、議席を奪おうという政治家にリアルな脅威を覚えるかもしれないということで、②のレベルがあるかもしれない。けれども、それは、例外であろう。
 そういえば、小泉純一郎元総理は、「抵抗勢力も、何れは協力勢力になってくれよう」と繰り返し、語っていたはずである。彼にしてみれば、抵抗勢力も何れは妥協して協力できる勢力と見たのであって、初めから妥協の出来ない相手と位置づけていたわけではない。郵政選挙の際は、法案否決が事実上の「倒閣運動」を意味したからこそ、、「刺客」戦術で政敵の追い落としを図ったわけである。大体、彼が熱を入れたのは、郵政事業に関わる政策の断行であって、「革命」ではない。
 然るに、民主党青森県連代表が用いた「反革命分子」というのは、「人類の敵」、「民族の敵」、「階級の敵」と同じ意味合いで、③の「絶対の敵」を指す言葉である。もし、件の県連代表が、それを知っていて使ったのであれば、民主主義体制下の政党政治家としての資格を疑うに十分な振る舞いであろう。もし、知らないで使ったのであれば、「彼は、政治学教授を務めた割には、カール・シュミットも読んでないなかったのか」という話になる。彼は、民主党、さらにいえば小沢一郎幹事長を批判する人々とは、間違いなく妥協できないと感じているのであろう。いずれにせよ、議会政治の世界で、使われるべき言葉ではない。「言葉尻をとらえている…」などという弁護は甘い。彼は、政権与党の一員として具体的に「権力」を握っているのである。大学教授が語っている言葉とは違うのである。
 因みに、雪斎は、他人を「売国奴」だの「反日」だのと攻撃する自称、「真正保守」の輩にも、この数年来、噛みついてきた。彼らにも、自分の「憂国の情」を「正義」にして、他人を「民族の敵」と認定して攻撃している風情がある。その心理は、「反革命分子」を攻撃する革命家のものとは、大差がない。
 というわけで、もういちど、アナトール・フランスの言葉に触れてみよう。
 「人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全な者である。…されば人生の掟は寛容と仁慈でなければならない」。
 もっとも。自分や近親者を犯そうとしている「現実の敵」にまで「寛容と仁恕」を示そうとするのは、おそらくは、聖フランチェスコに類する「聖者」か、さもなくば「白痴」の振る舞いであろう。
 ただし、自分が問答無用の「正義」を体現していると信じた瞬間に、その「正義」の邪魔をすると映った人々は、「絶対の敵」となる。他人を「絶対の敵」として排撃した輩には、自ら断頭台に赴く末路があるだけである。

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Comments

正論かと存じます。
「正義」という言葉を大人になっても使う手合いには、反射的に嫌悪感を覚えますね。
右左関係なく嫌いなんです。
でも、自覚の無さでは左の勝ちでしょうか。
目糞鼻糞でしょうか。

Posted by: 虎視眈々 | May 01, 2010 at 11:02 PM

素晴らしい一文に感動しました。
これかも更新を楽しみにさせて頂きます。

http://swinglike.ojaru.jp/

Posted by: strike | May 02, 2010 at 12:38 AM

Bernard Crick, In Defense of Politicsの議論を思い出させる、鋭いご指摘ですね。

クリックが述べているように、一方で過度の理想主義に走らず、他方でニヒリズムや自己を絶対化する陥穽に落ちることもなく、現実の利害調整を淡々と行っていく作業としての「政治」の重要さは、なかなか理解されにくいものです。雪斎先生がそのような営みの重要性を世に説き続けて頂けることを期待しております。雑文失礼いたしました。

Posted by: 一酔人 | May 02, 2010 at 01:39 AM

いや、反革命分子も抵抗勢力も同じ事です。

反革命分子も「転向声明」を出せばOKになっただけで、違うと雪斎が抗弁されていても一般にはそうはいきません。小泉さんの手法に小沢さんは学んでいて、政権交代というワン・フレーズ・ポリティクスも使われている。小泉さんこそ小沢さんの今の道を築いたのであり、もうそれは永遠に元に戻る事はない。現にあの当時のニュースウィークは小泉さんが郵政民営化を訴えた途端「小泉=毛沢東」の大プロパガンダをやってます。そして「下放」「文化大革命」で今の惨憺たる日本がある。まあおかげでアメリカのジャパン・ウォッチャーなるものがどんなものか分かりましたが。

>自分が問答無用の「正義」を体現している
>と信じた瞬間に、その「正義」の邪魔をする
>と映った人々は、「絶対の敵」となる。

正直この流れはもはや不動でしょう。公務員、高齢者などつぎつぎに「悪の枢軸」が作り出され、それをバッシングすることが改革と考えられる、そういう世界が構造改革論社によって作り出されるのです。

Posted by: ペルゼウス | May 02, 2010 at 09:34 AM

革命といえば、僕らの世代は70年安保のまっただ中に学生時代を送った。その行き着く先は”反革命”の名のもとに同志を次々と粛正した挙げ句に浅間山荘事件などを起していくことになるのである。
革命なる言葉は”自己の内なる革命”くらいに止めるべきで、”反革命”などと言う言葉を聞くと”粛正”を連想してしまう。まさに今民主党が地方にたいしてやってることである。
選挙で民主党が通れば高速道路でもなんでも予算をつける、落ちたらそれなりの対応(報復)をする。という言葉通りのことをやってる。

Posted by: 笛吹働爺 | May 03, 2010 at 07:06 PM

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