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November 18, 2009

政治と「階級社会」

■ 森繁久弥さんが主演した映画『小説吉田学校』に印象深いシーンがある。
 講和の実現に向けて本格的に走り出した吉田茂(森繁久弥)が、外務次官(神山繁)に条約案の作成を命ずる。
 だが、外務次官は、吉田が満足する案を出せず、吉田から何度も突き返される。
 そうした遣り取りの中で、外務次官は、親の死に目にも会えない激務を続ける。最後に案が出来上がり吉田から「ご苦労だった」と言葉を掛けられた次官は、脱力したように落涙するのである。
 吉田と外務次官の関係は、単に政治家と官僚の関係ではない。
 戦前には外務次官を務めた吉田にとっては、その次官は広い意味での昔日の部下であったであろうし、何よりも東京大学法学部の後輩であった。
 「政治家主導」とは、最近になって浮かび上がったような雰囲気があるけれども、吉田時代は、「政治家主導」でなかったといえるのか。
 戦後、特に「三角大福中」の頃までは、余程、「政治家主導」だったような印象があるのだが…。

 人間にとって、最もうんざりすることは何か。それは、「尊敬もしない連中」の下で働くことである。雪斎は、鳩山内閣の「国家戦略局」構想の行方には何の関心もない。行政組織制度を幾ら弄くったところで、官僚が熱心に仕事をする気にならなければ、行政は機能しない。そもそも、「能力がないのに権限だけは振り回すような人材」は、民間企業ならば、間違いなく昇進ルートから外されるはずである。行政刷新会議における「事業仕訳」作業が実質上、財務官僚の掌の上で踊った形になるのも当然であろう。財務官僚は、内心、「尊敬もしない連中」ならば、いかに自分の都合に従って踊らせるかを考えるであろうからである。

 こうして考えれば、結局は日米同盟の構図に依存しながら「反米」を唱える心性は、結局は官僚の仕事に依存することを恃みにしながら「脱官僚」を唱える心性とは、どことなく似通っていないであろうか。
 米国と文字通り対等な立場に立ちたければ、米国を黙らせるだけの「力」の裏付けが要る。政治家の主導を実現させたければ、官僚を心服させるだけの様々な「力」の裏付けが要るのである。
 こうした「力」を得ていくためには、どのようにすればよいのか。これが本来は議論されるべきことである。「庶民感覚に近い」云々は、政治家の資質としては二の次、三の次でしかない。

 フランスの場合は、戦後に国立行政学院「ENA」という枠組を作った。シャルル・ド・ゴールは、政治家も高級官僚も「昔は同じ釜の飯を食った仲」というシステムを作ったのである。結果として、ヴァレリー・ジスカール-デスタン、ジャック・シラクといった歴代大統領、さらにはエドゥアール・バラデュール、ミシェル・ロカール、ローラン・ファビウス、ドミニク・ドヴィルパン、フランソワ・フィヨンといった歴代首相に代表されるように、戦後のフランス政界・官界は、国立行政学院卒業生の権勢が突出し、「エナルシー」(ENAによる支配)という造語さえ登場したのである。イギリスの場合は、戦後の歴代の首相は、ウィンストン・チャーチル、ジェームズ・キャラハン、ジョン・メージャー、そして現任のゴードン・ブラウンを除けば、保守党たると労働党たるとを問わず総てオックスフォード出身である。もっとも、チャーチルは、士官学校卒業だし、キャラハンはオックスフォード入学資格を得ていたが資金面で断念したという逸話の持ち主だし、ブラウンはエディンバラ大学から博士号を得ている。こうした事例の例外は、メージャーであり、その登場時には「階級なき社会」の到来が喧伝されたけれども、その執政はサッチャーに比べれば地味なものあった。一国の「統治」は、然るべき「社会集団・階級」が担うものであるという理解が徹底されているかのような風景である。

 同じような風景を日本でも再現させるのか。小沢一郎民主党幹事長は、新人議員に「選挙区固め」を徹底するように命じているそうである。だが、小沢さんの通達は、「議席を守ること」以上の目的には何ら寄与しない。新人議員は、いかにして「官僚を心服させるか」という視点で考えれば、「選挙区固め」は、何の役にも立たないからである。新人議員に政治家としての仕事をさせないのは、そもそも、代議制の趣旨にも反する。

 暴論を吐くならば、政治家の二世、三世で東京大学や京都大学を卒業できなかった程度の知的能力の持ち主は、「政治の世界」に参入しようなどと考えてはいけないのではないか。ここでいう学歴は、「刻苦勉励」の証となるものの喩えである。昔日の英国ならば、恵まれた家庭に育った人材は、大概、十代から二十代のころに、「心身ともに厳しい環境」に放り込まれるものであるけれども、日本では、そうした人材には、何故か「生ぬるい環境」が用意されるのである。「政治家の二世、三世ならば、外国語は二ヶ国語ができて当たり前だし、東西両洋の古典を一通り読んでいて当たり前だし、加えて三日三晩の作業に耐えるだけの体力を持ってて当たり前である」。こうした議論が何故、出てこないのか。

 「ボンボン」が政治をやろうなどとは、考えてはいけない。現在の日本には、「ボンボン」はいても、「エリート」はいない。鳩山由紀夫は、「エリートを作らなかった戦後・日本」が生んだ指導者である。

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Comments

小泉→安倍→福田→麻生に対する批判としてはわかりますが、
都立小石川→東大工→スタンフォードと進んだ鳩山由紀夫氏に対する批判としては的が外れていないでしょうか。

Posted by: 小倉秀夫 | November 18, 2009 12:29 PM

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