「現場」の傲慢
■ 昨日の江畑謙介さんに対する追悼文の続きである。
江畑さんの軍事評論には、「現場を知らない」という批判が向けられていたそうである。江畑さんの認識や分析
の正誤を批判するのならまだしも、「現場を知らない」という批判は、いかがなものであろうか。
こういう文章があることを紹介しておこう。
「軍官僚機構のなかから、広範な知識と洞察力を持つ最高の人材は、あらかた排除された。なぜなら欧州諸国の軍部では、『軍人生活四十年に近い知識、経験ある、プロ以外に口出す資格なし』という原則が確立されるにいたったからである、リデル・ハートが皮肉っているように、これは、世界史上、まったく新しい原則にちがいない。なにしろ、この資格要件からすると、アレキサンダー、ハンニバル、シーザーはじめ、クロムウェル、マルボーロおよびナポレオンにいたるまで、歴史上の偉大な指揮官は、ほとんど無資格者となり、アマチュアとして除外されなければならなかったからである」。
第一次世界大戦中、欧州戦線で数万人単位の戦死者が一晩で出るという状況が生じたのは、当時の欧州の軍人たちが、「機関銃」と「鉄条網」の登場で圧倒的に防御側に有利になった戦争の構造変化に対応できなかったからだとされる。その対応を妨げたのは、十九世紀以前の戦争の「常識」に依った「プロ意識」だったというのである。
紹介したのは、永井陽之助先生の『現代と戦略』の一節である。故に、永井先生は、「すでにトルストイが『戦争と平和』でえがいていたように、ある意味では日露戦争でもヨーロッパ大戦でも、プロぶった軍事専門家ほど、アマチュア以下の愚行と醜態をさらすことになった」と書いたのである。「現場を知らない」という批判を向ける人々はk、その依っている「現場経験」ですらも、極めて限られたものでしかないと自覚すべきなのかもしれない。
江畑さんは、確かに、軍事の現場には身を置かなかったかもしれないけれども、永井先生の言葉にある「広範な知識」と「洞察力」を鋭意、磨きながら、軍事評論・分析に臨んでいたのであろうと思う。そうした姿勢を批判することは、率直に無意味である、
人間は、「全知全能」の存在ではない。「知らない」ことは、恥ではないし、それを自覚していればこそ、他人に対して謙虚になる。江畑さんは、そうした人物であったように思う。
それにしても、前に触れたように、政治や軍事を含む社会事象の論評は、その認識や分析が正しかったか誤っていたかしか、評価の対象にならないはずである。だが、何故か、「どういう姿勢で論評するか」が、この国では矢鱈に重視されるらしい。
« 追悼 江畑謙介さん | Main | 郵政社長人事 »
「学者生活」カテゴリの記事
- 「バブル」の夢、「世界第二の経済大国」への追憶(2011.01.06)
- 対韓同盟という「迷い」(2011.01.03)
- 日本の「手の文明」(2010.10.27)
- 「資源のない国」の神話(2010.10.08)
- 真夏の「仕事」(2010.08.06)
The comments to this entry are closed.
Comments
ちょっと待ってください。
江畑さんを擁護するあまり、未経験者の中にナポレオンやシーザー、ハンニバルを入れるのはどうでしょうか。彼らは現場の知識も豊富だったはずで、「未経験者」ではないでしょう。
マルコ・ポーロが入っていますが、彼の「東方見聞録」が実際の体験談ではなく、商人から伝え聞いたものから創作したものである事は次第に明らかになりつつあり(つまり彼への当時の批判は完全に間違いだったわけではない)、これはいかがなものでしょうか。
>プロぶった軍事専門家ほど、
>アマチュア以下の愚行と醜態を
>さらすことになった」と書いたのである。
そうですね。今の新自由主義を唱える人たちがこれに当たるでしょう。「格差やむなし」などと「本土決戦論」に匹敵する愚論をぶちまけ、「アメリカについてゆけばよい」などと「もはや対米決戦以外に道はなし」に匹敵する暴論を並べ立て、日本の政治風土を灰燼にした事への反省もない。
なるほど、現場だけでは駄目でしょうが、それは現場の重要性を否定することではないはず。イラク戦争、アフガン戦争で失敗を繰り広げるアメリカはエール大学やハーバート大学の天才が山のようにいる。それこそが失敗の原因とも考えられるとはお考えになりませんか。
確かに江畑さんを擁護するのは分かりますし、同感ですが、擁護するあまりに行き過ぎるのはどうでしょうか。
Posted by: ペルゼウス | October 15, 2009 11:59 PM
雪斎さんのご意見と同旨のものとして、御参考まで。
戒能通孝著『法廷技術』 36-37頁
・・・技術的熟練の域に達した法曹は、しばしば最も弾力的な心情を発揮して、たとえば戦争のような場合においてすら、本職の軍人より何が現在必要か、見抜く力があつたとすら、ロイド・ジョージは語つていることがある(註)。・・・
(註) 軍人達は多くの場合、過去のすぎ去つた戦争と、演習と名づけられる戦争ごつこしか知らない。おかげで第一次世界戦当時において、戦線が膠着し、要塞戦の一種に入つた後も、軍人達の幻想にのぼつたのは、歩兵の大部隊突撃にすぎなかつた。イギリス陸軍省は、この想定から、専ら榴散弾や軽兵器の注文に熱中し、榴弾の注文すら無視していたということだつた。このような事情の下で、最初に変化した情勢を汲みとつたのは、法曹であつて、決して軍人ではなかつた。法曹が軍人よりむしろ戦争についてすらより大きな見識をもち得たのは、彼が常に法廷において実戦を演じていたからである。法曹は法廷においては将軍であるとともに兵士であつた。彼は現在何をなし、何をなすべからざるか知つていなければならなかつた。ロイド・ジョージが認めたのはこの点であり、そして彼によつて指摘されるような特質を法曹がもつことは、どうしても忘れられてはならないことである(Lloyd George, War Memories, vol.2, 1933, p.549 et seq.)。
Posted by: カラフト | October 16, 2009 12:02 AM
常備軍が創設され、職業軍人が生まれ(傭兵ならば昔からいたが)、士官学校で組織的に指揮官が養成されるようになった近代と、古代中世を一緒に論じてもしょうがないと言う気はします。
それにナポレオンは士官学校出た職業軍人ですから、どうみてもプロ中のプロですね(革命期の混乱の中で浪人していたことはあるけど)。
Posted by: ROCKY 江藤 | October 16, 2009 04:44 PM
とりあえず現場を知らずに軍事を語った人といえば
マクナマラ氏を外すことはできないでしょうなあ。
あの人は良くも悪くも現場を知らなかったからこそできた改革と現場を知らなかったからこそできた失敗の両方を行った人物ですから。
Posted by: 七誌のごんべえ | October 16, 2009 10:51 PM
>ペルゼウス
あまり多くは言いたくないが二点だけ
・本人(ブログ主)が言った言葉ではなく引用だ。国語を勉強しなおせ
・マルコポーロじゃなくマルボーロ公爵だ。世界史Aを勉強しなおせ
Posted by: 通りすがり | October 20, 2009 09:41 PM
>ペルゼウスさん
雪斎さんが引用されている永井陽之助先生の文章は、「『軍人生活四十年に近い知識、経験ある、プロ以外に口出す資格なし』という一次大戦前の「原則」に従えば、若き日のナポレオンやシーザーがどれほど名将であっても(「四十年に近い知識、経験がある」という条件を満たさないが故に)軍事に口を出せないことになってしまう」という論旨であって、
>未経験者の中にナポレオンやシーザー、ハンニバ>ルを入れるのはどうでしょうか。彼らは現場の知>識も豊富だったはずで、「未経験者」ではないで>しょう
という批判は批判になっておりません。
また、「マルボーロ」とはスペイン継承戦争で活躍したマールバラ公ジョン・チャーチル(ウィンストン・チャーチルの先祖)を指すのであって、マルコ・ポーロのことではありません(そもそも、ここで例示されているのは「名将」なのに、何故旅行家の名が出てくるのでしょうか)。
雪斎さんを批判なさるのも結構ですが、もう少し文脈を読む力や歴史知識を身につけてから批判なさった方がよろしいと思われます。
Posted by: MiG28 | October 21, 2009 12:08 AM
お、これは失礼。たしかにマルボーロでしたな。
ですが、永井先生の文章は現場の過剰な重視、経験の重視への批判でしょう。四十年に近い知識や経験云々が問題じゃない。たしかに経験がすべてではないでしょう。
それに経験主義にたいする批判が、明らかに経験主義からきたとしか思えないアメリカ偏重への外交やグローバリズム絶対主義への批判に何故ならないのかと思えてならないのです。世界の多極化は進んでいますが、それはグローバリズムを唱える人たちの思惑と全く違う方向に行っている。
江畑さんへの一部世間からの批判はまったくおかしい(というより大勢いた軍事評論家の一人で特別政治的に問題発言をしたわけでもない)けど、だから現場経験を軽視してよいわけではないはず。今の惨状を見ると新自由主義も保守主義と同じ病を抱えている。イデオロギーで社会を見ているという点は同じで、永井さんの経験重視のあまり政治を誤るという言葉の引用はどうだろうかと思うのですが・・・。
あと私の世代は世界史は世界史で、「A・B」というもの自体ありません(笑)。
Posted by: ペルゼウス | October 23, 2009 09:52 AM