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July 15, 2009

政治に関する四題

■ 此度の選挙は、「麻生太郎 vs 鳩山由紀夫」の対立構図で行われる。
 しかし、本来ならば、此度の選挙は、「小泉純一郎 vs 民主党」の構図で行われるべき選挙ではなかったか。
 つまり、それは、小泉純一郎元総理が、「郵政」を含む「構造改革」路線への評価を問う選挙ではなかったのか。 
 そうならなかったのは、自民党が総裁任期を二期四年と区切ったからである。
 自民党政権である限りは、こういう政党の都合で総理の任期が区切られる事態が生じる、同じような事例が中曽根康弘元総理のときもあった。中曽根元総理も、異例の高支持率の中で勇退したのである。
 だから、小泉元総理の後の三代の宰相は、「なる必要もなかった」宰相だったということになる。
 麻生太郎総理に至っては、目立った失政と呼べるものがないにもかかわらず、あれほどの苦境におかれている。今のままでは、非難轟々の中で政権の座を去ることになりそうだが、少なくとも、政権発足直後の「経済危機」の大津波の中で、「経済立国・日本」を沈没させなかったということだけは、後世、功績として語られよう。

■ かくして、日本では「総理大臣」が次々と使い捨てにされる構造が残っている。中曽根・小泉のように順調に政権運営を続けても、最長五年で政権の座を降りなければならない事情が片方にあれば、他の多くの総理のように、世論の「空気」の変化で一年前後で政権から追われる事情が片方ににある。こうしたことは、日本が対外的な影響力を行使できない状況を自ら作り出すことでもあるのである。
 それにしても、「もったいない」という言葉が流行っている割には、「政治」をになう人材に対して「もったいない」という感覚が働かないのは、何故であろうか。この国の人々は、総理ができる人材は幾らでもいると思っているのであろうか。ならば、お笑い芸人出身の政治的キャリアが一年の知事が、総理・候補と考ええられても。おかしくあるまい。

■ ところで、日本の自称・真正保守の人々は、相変わらず「売国政治家」云々という言論を弄しているようである。幻冬舎新書の最新刊に、そういう類のものを見かけた。けれども、こういう政治不信を煽る言論を利用していたのが、彼らの嫌いな「左翼革命家」であるということは、理解されているであろうか。
 「われわれは、政治家ではない。われわれは、政治家を駆逐するために、われわれの革命を実行したのだ」。
 誰の言葉か。フィデル・カストロの言葉である。
 社会主義国家には、多様な利害を調整する「政治家」などは必要とされない。「党」の方針を黙って実行する「官僚」さえ存在すればいい。人民は「党」が指導する「国家」の方針に従えばよろしい。それがカストロの言葉の意味である。
 故に、政治家に対して気楽な批判を続ける「自称・真正保守」なるものは、結局、「左翼革命家」の夢の実現に手を貸しているのである。率直に虫唾の走る連中である。民主主義体制下における「保守主義者」ならば、政治家を辛抱強く盛り立てるという難儀な作業から逃げるなといいたくなる。

■ 最近、読んだ書を二冊、紹介する。夏休みには、ハンナ・アレントの著作を順次、読む予定である。
 ● 『アーレント政治思想集成(1・2)』(ジェローム・コーン編、みすず書房、2002年)
 ● 『精神の生活(1・2)』(岩波書店、1994年)

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