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June 19, 2009

「できること」と「できないこと」

■ 雪斎にとって、「永田町」時代の教訓は、何か。
 それは、政治家にとっては、「出来ること」よりも「出来ないこと」のほうが、遥かに多いということである。
 政治家は、「権力」を持っているから何でも出来るというわけではない。むしろ、「権力」を持っているから出来ることは、かなり狭まめれる。オットーフォン・ビスマルクは、政治を「可能性の芸術」と呼んだけれども、それは、政治が『出来ないこと』ばかりの状況下で『出来ること』を敢えて見つけようというする営み」だという意味である。
 こうした現実は、中々、理解されないのではないか。 

 今、一つ解らないのは、最近、「国策捜査」という言葉が流行っていることである。要するに、時の権力者がl、「政敵」を追い落とすために、警察・検察を動員しているという趣旨の話である。しかし、内閣が恣意的に、警察・検察を動かすなどは、本当に出来るのであろうか。
 出来るというのであれば、何故、自民党一党優位の時代に、たびたび疑獄事件が起こって、自民党議員が失脚したのか。「竹下・金丸」支配と呼ばれた時代に、何故、金丸信氏は失脚したのか。竹下登は、自らの政権をゆるがせたリクルート事件の捜査を何故、立ち消えに出来なかったのか。もし、雪斎が「権力」を持っていて、恣意的に検察・警察を動かせるのであれば、何よりも「自分にとって都合の悪い話」をもみけそうとするであろう。しかし、現実には、ロッキード事件のように、当時、もっとも影響力を持っていたはずの政治家でさえ、「法の網」から逃げられなかったのである。
 つまり、そうしたことは、実際には、「出来ない」のである。唯一、やってしまった事例が、犬養健の「指揮権発動」であろう。しかし、直後に、犬養は辞職するのである。
 ロッキード事件の捜査に携わった堀田力氏によると、「検察が政治上、手心を加えることはない。公判が維持できると判断すれば立件する」のだそうである。「秋霜烈日」バッジに象徴される厳正さは、相手が与党政治家であれ野党政治家であれ、無関係に示されるということなのであろう。
 もうひとつ指摘しておこう。「国策捜査」云々と唱えている御仁というのは、日本が、スターリン体制下ののソヴィエト連邦みたいに、「日本の警察・検察=N KVD」」だと思っているのであろうか。だとすれば、随分と日本のデモクラシーを馬鹿にした話である。

 イランでは、現大統領サイドが「権力」を遣って反大統領派の封じ込めにかかっているそうである。だが、こういうことをやっていると、事態の収拾は難しいであろう。革命の志士が、革命前の体制と同じことをやって、どうするんのか。政治の世界では、「出来ること」が幾らでもあると思った瞬間に、「没落」が始まる。

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「国内政治」カテゴリの記事

Comments

いつも勉強させてもらっています。

今回の西松の問題については、元警察庁長官の漆間官房副長官による例の「自民党議員には波及しない」発言があり、実際の捜査の進展が今のところ発言の通りになっていることが、国策捜査論の氾濫に一役買ってしまっています。検察審査会により、自民党の政治家への不起訴は不当との判断がなされたことからも分かるように、捜査をしたことではなく、捜査がさらに進まないことに不可解さを感じている国民は多いと思います。

なお、金丸事件については、検察が時の権力から独立していることの証左としてはあまり有効なものではないと思います(当初あまりに捜査の腰が引けていたので、検察庁の看板にペンキ缶が投げつけられました)。むしろ、検察も世論を完全に無視しては、準司法機関としての威信を保てないことを示す一例でしょう。

Posted by: よし | June 20, 2009 at 10:45 PM

いつも思うのですが。

「与党」対「野党」、「国」対「地方」の対立構図が中心のお話が何処でも多いですが(実際その構図はありますが)、根本は、三権のうちの「議会」対「行政」の対立軸が根本的な構図なのではないでしょうか。

国の議院内閣制(特に官僚に寄りかかり同一と誤解している与党)が話をややこしくしていると思いますが、基本軸は「議会」対「行政」の、予算の決定権・執行権を巡る対決だと思います。

選挙はあくまで議会内の主導権争いですが、そこで問われている根本は、行政に対抗しうる体制を議会が作れるか(勝てるチームになる為のレギュラー争い)なのだと思います。

現在は国においても地方においても、議会は行政に完全に主導権を握られています。
そして、私たち有権者にとっては、議会こそが直接に構成員を選べる、本来自分たちに近いものであり、これの権限を強めるよう努めなければなりません(だから国政においては国会が国権の最高機関なのです)。

西松建設問題の件で言えば、民主党の誰かが「国策捜査」と言ったので、マスコミが乗って多用したのを先生も使っておられますが、小沢氏自身は「検察権力の不公正な行使」としか言っていません。従って政治家の主体的な関与を言ってはいないと思います。
行政と議会の間のパワーバランスとして問題のある権力行使だと言っているのではないでしょうか。

そういう意味で今回のようなことがまかり通れば、総理大臣=政権そのものもひとたまりもないのではないでしょうか。
そしてそれは、議会制民主主義の根幹を揺るがし、我々有権者の権利を実質的に制限するものだと思います。

与党は選挙対策上この事態に乗っちゃいましたが、本当は議会人として行政と闘わなければならなかったはずだと思います。

先生も議院内閣制&長期政権の政府にあってお仕事をされ、その辺り(政府と与党)が混同されていないでしょうか。

議会の権限を本来のものにし、適正なパワーバランスを取り戻そうとするならば、そのあたりをきちんと整理して話をしなければ、何を議論しているのか聞いていて解らなくなると思います。

Posted by: 地方都市住民Y.M. | July 06, 2009 at 05:27 PM

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