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January 05, 2009

「沈み行く船」に乗ってしまった人々

■ ウィリアム・クリントン政権時代に労働長官を務めたロバート・ライシュは、1990年代初め頃に、『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』という書を著した。
 書中、ライシュは、人間の働き方を次の三つに分類した、
 ① ルーティン・ワーク従事者
 ② 対人サーヴィス従事者
 ③ シンボリック・アナリスト

 ①は、決められたことを決められた通りに行う人々である。
 ②は、具体的な生身の人間を相手にサーヴィスを提供する人々でる。
 ③は、音声、画像、言語その他の抽象的なシンボルを操作して活動する人々である。
 たとえば自動車会社でいえば、①は、生産ラインでの組み立て担当、②は、販売・営業・顧客サーヴィス担当、③は、デザインや広告・宣伝担当という具合になるであろう。①の作業に必要な資質は、何よりも正確さということになるし、②には、接した人々に佳い印象を与えることであり。③には、独創性や説得性ということになる。
 ライシュは、書中、かなり先駆的な予見を示していた。
 それは、「グローバルな資本主義の世界では、①と②は、『沈み行く船』である」というものである。ライシュによれば、これからの世界では、③の領域の人々に、ますます多くの富が集中することになるということを意味する。だから、たとえメジャーな企業の正社員であっても、①と②の領域の仕事をする限りは、ほどほどの富しか手には入らないばかりか、下手をすれば身分が不安定な状態に置かれかねない。故に、③の領域の人々を養成することに真面目に注力しなければならない。大体、そうした趣旨であった。
 雪斎が著した最初の書は、福祉に関するものであったけれども、そこでの議論は、このライシュの議論の援用であった。「③の領域ならば、重度身体障害を抱えていても、富を充分に稼ぎ出せるのではないか」というのが、議論の趣旨であった。二十世紀以前の資本主義社会では、必要とされる人材は、主に①と②の領域の人々であった。身体障害を抱えていれば、そうした領域の活動には参加するのは難しい。だが、コンピューターが使える世界では、③の領域でなば、十分に活動できるのである。実際、雪斎の現在の活動は、学生を相手にした「対人サーヴィス」という側面があるけれども、ほとんどは、活字というシンボルを操作する「シンボリック・アナリスト」としての活動なのである。
 閑話休題、昨年末以来の事態を注視してみれば、現在、「派遣切り」の憂き目に遭っている人々の多くは、①の領域の人々だということになる。彼らは、ライシュの言葉にある「沈み行く船」に乗って(乗せられて)しまった人々ということになる。20年近く前に、予見されていた風景だったのである。
 雪斎は、「派遣切り」続出の風景を議論する際には、ウェットな感情を持ち込むぐらい有害なことはないと考えている。こうした人々への支援の輪が広がるのは結構だとはいえ、間が他の人間に「善意」を示していられるのは、その人々に「余裕」があるうちである。たとえ、ヴォランティアと呼ばれる人々の意図が崇高であったとしても、それが永続的なものであることを期待することは出来ない。企業の社会的責任を云々する声があるけれども、必要がない人材を抱え込んで内部留保を食いつぶすなどという選択は、企業の行動準則にはない。
 そういえば、昔日、工場や建設現場で現在の「派遣労働」の役割を担っていたのは、農閑期の農民の人々でなかったか。こういう人々ならば、派遣期間が切れたところで、地元に戻って農作業にかかればよかったのである。これは、考えてみてば、セーフティ・ネットとしては中々のものであろう。ということで、「派遣切り」に遭った人々には、帰農してもらうのは、悪くない施策である。日本には放棄された農地は相当な面積があるのであるから、ぜひ、こういう人々の手で農地を再建してもらいたいものである。カネやモノを一時的に提供することが、「対策」の本質であってはなるまい。
 ということで、新年早々、またまた物議を醸しそうなエントリーである。だが、ライシュが予見した風景が、現実になっている以上、その現実は直視しなければなるまい。すべては、そこから始まる。
 

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Comments

私に言わせれば今回の記事は田母神さんの発言と同じくらいトンデモですな。世間の大半は①・②であり、それを無視して進める改革というとポルポトの大虐殺や毛沢東の大躍進が頭に浮かんできます。そしてその結果がどうだったか。それが今のネットカフェ難民などの格差の拡大と重なって見えてこないでしょうか。「下放」を思わせる部分も多々見られますしね(笑)。

それを「ウエットな感情を持ち込むな」などというのはまさにイデオロギーに毒された発言であり、経済の不均衡が経済の悪化を招き、政治の不安を招くから問題なのだという基本を無視して、単にライシュがそういっていたからとは笑止と言わざるを得ません。

これでは田母神さんを批判する雪斎さんの発言は近親憎悪と思われてもやむおえますまい。両者ともイデオロギーが現実認識より上にあると言う点では同じです。時代は変わった。ところが田母神さんも雪斎さんも今までそうだったからという事で事を論じておられるのですから、非現実的という点では同じです。ウエットで割り切れるなどと思ってはいませんが、ドライで割り切れるなどとも思いません。

Posted by: ペルゼウス | January 05, 2009 at 10:29 AM

あけましておめでとうございます。
こちらに初めて投稿させていただきます。

雪斎先生のおっしゃることは、まさしくその通りだと思います。

③の領域を担う人材を養成する、あるいはそういう人材に来てもらうというのは、重要な国家の役割です。

しかしながら、ルクセンブルクやシンガポールのような小国ならばそれだけでよいのかもしれませんが、今回の先生のエントリにもあるように、日本のような大国の場合、③の領域で力を発揮できない人に、①の領域で如何に活躍してもらうかも重要なのですよね。
農業で如何に活躍してもらうかというのも重要でしょう。さらに、国防、福祉の分野で如何に活躍してもらうかも重要ですね。

建設業においては、国が技能を細かく定義し、検定・免許等でお墨付きを与えてきました。そして、そのことで、二十世紀後半の日本は、うまく成り立ってきました。これが二十一世紀になって、建築土木の公共工事のニーズが縮小して、立ち行かなくなってきたというのが現状でしょう。

これからは、農業、国防、福祉の分野で、建設業における溶接工・左官・とび工・型枠工・鉄筋工のようにうまく細かく技能の有り様を定義して、①の領域における活躍の場を創出するようなことが国家に求められているのではないでしょうか。

そして、そのようなデザインをし、さらに実現していくのは、③の領域の仕事ですが、しかるべき国家公務員が優秀な「シンボリック・アナリスト」として、それを行えるのかどうかが問題ですね。

Posted by: tmura | January 05, 2009 at 09:49 PM

伝統的なシンボリックな言葉で言い換えると、ルーチンワークに携わるものとは奴隷であり、コミュニケーションをこととするものとは商人であり、シンボルを操るものとは祭司(呪術師)でしょう。
このピラミッドは太古の昔から不変です。
共産主義は、奴隷の地位向上を目指す社会運動であり、戦後の一時期世界的に力を持った。
今はその力が失われつつあるときです。
では伝統的なピラミッドは、人類にとって永遠不変の運命なのか。
人の本性が”鳥”であるならば、何度くじかれてもくびきを破って自由の空へ羽ばたこうとするに違いない。

Posted by: 理想主義者 | January 06, 2009 at 07:31 AM

現実を直視する…
できるようでなかなか難しいものです。
年明けに相応しいエントリーに感服しました。

Posted by: へきぽこ | January 06, 2009 at 10:00 AM

ご無沙汰しております。

http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200901090045a.nwc
↑のような記事をみると、単なる職不足というよりも、「シンボリック・アナリスト」たる人が不足している一方で、ほかの働き方をしている人が余っている感がありますね。

Posted by: とーます | January 09, 2009 at 06:09 PM

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