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November 13, 2008

リアリズムは穏健さ、均整の感覚、限界の認識という姿を取る。

■ 首を長くして到着を待っていた『ジョージ・ケナン』(リー・コンドン著)が昨日、届き、早速、読み始める。
 コンドンは、歴史学者であり、ジェームズ・マディソン大学名誉教授という肩書き持つ人物である。
 ジョージ・ケナンは、冷戦初期の「封じ込め政策」立案の主導で知られているけれども。彼の百一年の生涯の後半半世紀は、歴史研究と外交評論に費やされていた。コンドンの著作は、そうしたケナンの「思想」に焦点を当てている。

 コンドンの著作の中に印象深い記述があった。
 「ケナンにとっては、リアリズムとは、穏健さ、均整の感覚、限界の認識という姿を取るものであった」。
 ここでいう「均整の感覚」(SENSE OF PROPORTION)というのは、ただ単に「二つの間で平衡を保つ」というものとは比べるべくもない複雑さを受け容れることを求めている。様々なファクターの中で、どれか一つや二つの価値を過剰に重んじないということが、具体的な姿勢である。安全保障政策領域でいえば、「軍事の効用を認めるが、それを総てとは考えない」といいうことである。「憲法改正さえ成れば国の誇りが取り戻せる」、「軍隊さえなくせば平和が実現する」…。これが「均整の感覚」とは程遠い思考の事例である。モンテスキューの『法の精神』の中にある「美徳ですらも過剰であれば害を及ぼす」という言葉は、そうした「均整の感覚」を端的に反映していよう、モンテスキューが「権力の分立」を説いた事情と照らし合わせれば、このことは興味深いであろう。
故に、「均整の感覚」は、「穏健さ」と「限界の認識」に結び付く。一つ一つの事柄には自ずから「限界」があるものだと思えば、それを打ち出すには、過激さは避けなければならなくなる。
 もうひとつ、ケナン流のリアリズムを考える上で留意しておかなければならないのは、「何を」(WHAT)ということよりも、「どのように」(HOW)ということに関心を向けているということである。たとえば、右派勢力は、「○○すべきだ」とは口にする。この○○の中には、「憲法改正」、「日教組解体」、「村山談話の見直し」などが入る。しかし、彼らは、「それを、どのように、進めるか」ということには、全然、関心を払っていない。こうした「どのように」ということに対する認識の希薄さは、左派勢力の専売特許かと思っていたのであるれども、近年では、そうでもないようである。「正しいことは、いい続ければ、その通りになる」。そういう思考には、一種の傲慢さが付きまとっている。実際は、「どのように」」を考え、それを実行に移すのは、相当に骨の折れることである。様々な制約の中で、それでも採り得るオプションを探す。それがリアリズムの姿勢なのである。
 因みに、ケナンは、自ら「保守主義者」であると考えていた。彼は、人間を「壊れた船」と読んでいた。彼の思考に影響を与えたのは、エドワード・ギボンやオズワルド・シュペングラーのような歴史家である。彼らが、たとえば『ローマ帝国衰亡史』や『西洋の没落』のような著作で描いたことは、人間の「壊れた船」としての不完全性であった。そうした不完全性への認識に裏付けられればこそ、「栄光」と「愚行」の積み重ねの中で蓄積された「知恵」や受け継がれた「伝統」を尊重しようという姿勢になるわけである。
 「均整の感覚」、「穏健さ」、「限界の認識」によって保守主義者と呼ばれたケナンの事情を踏まえると、たとえばブッシュ政権下の「ネオコン」は、「保守主義とは遠いものであった。ブッシュ政権下の幕僚の中でケナンが評価したのがコリン・パウエルであったというのは、そのことを雄弁に語っていよう。
 翻って、日本の事情を考えてみる。
 雪斎は、言葉遣いの汚い、もしくは粗い人々を、いかなる意味でも「保守主義者」であるとは認めない。そうした言葉遣いからは、「均整の感覚」、「穏健さ」、「限界の認識」は伝わって来ない。そもそも、日本民族の文化の精華である言葉を粗略に扱っている人々が、何故、 「愛国」や「民族の誇り」などを標榜できるのであろうか。雪斎は、保守論壇の中でも、「売国奴」や「国賊」という言葉を他人に投げつけた人々は、その時点で「保守主義者」である資格を喪ったと判断している。故に、本物の保守主義者は、もしかしたらリベラリストの顔をしているかもしれないと思う。
  ◆
 そういえば、最近、読んだトニー・ジャッド著『ヨーロッパ戦後史』(みすず書房)は、興味深いものであった。上下二巻で千ページ、一万円を越す代物であるけれども、「前の戦争は正しかったのか」云々という矮小な議論に忙しい日本の論壇の現状を前にすれば、こういう著作に触れる時間は、貴重である。まるで「場末のカラオケ大会」に付き合わされた後に、ベルナルト・ハイティンクがロイヤル・コンセルトヘボウ振った「ブルックナー 交響曲第八番」を聴いたような風情である。

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