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November 27, 2008

『回顧録』より

■ 「これまで軟弱外交とか、親米とか、親英とかの言を用いて時の当局を攻撃し、事実を究めず、根拠薄弱な放言を以て群集を煽動した弊風は、当事者を鞭撻する上で何ら実質的な効果がなく、却って相手国の誤解を招いたに過ぎなかったのである」。

 これは、誰の言葉であろうか。

 麻生太郎総理の曽祖父、吉田茂の岳父、大久保利通の次男、即ち牧野伸顕の言葉である。牧野の口述したものを牧野の孫に当たる吉田健一が書き留めた『回顧録』に、この記述がある。
 戦前、牧野は外務大臣を務めた後に宮中に入り、内大臣として昭和天皇に仕えた。牧野が内大臣だった時、侍従長だったのが、終戦時に宰相の座にあった鈴木貫太郎であり、侍従武官だったのがが、陸軍大臣であった阿南惟幾である。
 牧野が内大臣を退任したとき、昭和天皇は、その退任を落涙しながら惜しんだという挿話がある。後に、牧野と鈴木は、二・二六事件の決起将校によって襲撃され、昭和天皇は、そのことに激怒し、阿南は、「天下国家を論じたければ軍服を脱いでからにせよ」という趣旨の訓示を行った。
 終戦直前、阿南が「本土決戦」を呼号したことは広く知られているけれども、それは、阿南の真意ではなく、早期終戦を念頭に置き、軍部過激派を抑えるための「腹芸」であったという説がある。終戦時の書記官長であった迫水久常は、そうしたことを語っていたと記憶する。牧野、鈴木、阿南の人間関係に触れると、その「腹芸」説というのは、雪斎の認識に近い。
 ところで、冒頭の牧野の言葉というのは、今の時勢のことを語っていると説明されても、奇異な感じがしない。
 牧野の言葉を次のように、言い換えてみよう、
 「これまで対米追随外交とか、親米とか、媚中とかの言を用いて時の当局を攻撃し、事実を究めず、根拠薄弱な放言を以て群集を煽動した弊風は、当事者を鞭撻する上で何ら実質的な効果がなく、却って相手国の誤解を招いたに過ぎなかったのである」。
 おお、そのまんまではないか。
 雪斎が何をを言いたいのか。それは、結局のところは、雪斎は言論を通じて目指しているのが、牧野の認識を継ぐことだということである。当然、二・二六事件の決起将校のメンタリティに近似したものを持っている人々には、相容れないであろう。
 この牧野の言葉にも、「根拠薄弱な放言」という言葉が出てくるのである。最近、これをやったのは誰か。
 あらためて指摘する必要もあるまい。
 雪斎も、「武官の息子」なので、何とか弁護する余地を探したのだが…。
 結局、弁護するならば、海軍ならば鈴木、米内光政、山本五十六、井上成美、陸軍ならば今村均の流れにある人々だなと想う。

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Comments

「エコノミック・ヒットマン」ジョン・パーキンス
上の本に書いてあるようなことが本当なら、少なくとも「相手国に誤解を与え」たりすることはなさそうに思いますが・・・・

Posted by: 理想主義者 | November 27, 2008 at 10:33 AM

阿南発言は「腹芸だった」との「説」に基づいてのご発言ですが、それこそ田母神氏の言い分と酷似してはいませんか(笑)。

媚び諂いや追従が悪いというつもりなどあるはずがないでしょう。日本は所詮小さい国、大国に逆らう事には限界があることぐらい百も承知です。

しかし追従する事で利益になるならともかく、失うものが多いのではこらおかしいぞと言う声が起きてきて当然であり、それを省みることなくやれグローバリズムだ、やれアメリカについてゆけば間違いないとか格差やむなしなどとうわごとのように言ってきた新自由主義者の方々は今どういうご気分なのかという事です。

歴史的にいうのなら日本の立場が似ているのは幕末の会津藩であり、幕府に追従したために薩摩・長州と争う事でのちの悲劇を招いた松平容保でしょう。大久保利通も最後は暗殺された。西郷と違った意味で非業の死を遂げた人で、日本にとって必要なのは非業の死を遂げず、生き残った人間でなければならないはず。牧野、鈴木、阿南も敗戦国の人間であり、現実主義のモデルとする事がどうして出来ましょう。彼らがハルノートの丸呑みを主張したとは聞いた事がありません。

それと相手国は始めから我々を理解する気などさらさらありません。向こうは向こうの都合で日本に戦争を仕掛けるも友人にも自由にするのであり、こちらからコントロールなど出来るはずもありません。そこから始まるのが現実主義ではないですか。

Posted by: ペルゼウス | November 27, 2008 at 11:32 AM

僕自身はやはり対米追随なのてはなかろうか

という認識を持っています。

ただそれは非難すべき時に使う言葉では無いように思います。
米国中心の外交、そして米軍の滞在地に於ける地元民との摩擦と軍事費用の提供

その上に平和が成り立っている日本 という認識は大なり小なり皆持っていると思います。
その平和の部分だけを享受しながら非難や批判をする人はいらっしゃるのでしょうか?

恥ずかしながら、僕は雪斎殿の仰る「沖縄への配慮」を目にするまでは平和と言うものに対して考えを巡らせる事を怠っていました。

平和だけを享受して非難を浴びせる人は 、 親元でなに不自由なく暮らしている息子が親の生き方にケチをつけているような風景とかぶって見えてしまいます。

年を取って親となり親の有り難みが分かってからであればまた違う発言があると思います。

僕は今の外交は全て正しいとは思っていません。


雪斎殿の仰る「普通の国」になりきれていない今の日本には選択肢は少ないと言うことです。


外交の姿勢だけを論点に置くのはもう止めた方が良いと思います。

Posted by: へきぽこ | November 29, 2008 at 12:34 AM

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創業と守成とどっちが難しいかって話してたのは、房玄齢と魏徴だったか。 革新という言葉が嘲弄の対象にしかならない時代だけれども、次の先生の文章を読むと、矢張り自分は保守たる資格はないなあと痛感する。 雪斎の随想録: 『回顧録』より だって牧野伸顕伯と栗原安秀中... [Read More]

Tracked on November 28, 2008 at 12:11 AM

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