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August 07, 2007

「構造改革」は「レッセ・フェール」ではない。

■  「サブ・プライム・モーゲージ」の実態は、ぐっちー殿が以前から警鐘を鳴らしていていたけれども、それを「ダンボール入り肉まん」に擬えたかんべえ殿の説明は、誠に判りやすいものであったといえよう。
 日経225は昨日、「上海ショック」後の今年三月の水準になっているけれども、このところのニューヨークの乱高下で損失を出した外国人投資家が損失の穴埋めをするために東京市場で「売り」に走っているのが、その理由であるらしい。大方の日本人にとって、「どうでもいい」ことのために、東京市場が翻弄されているのである。
 そういえば、佐々木毅先生の新著『政治学の名著30』(ちくま新書)の中には、アダム・スミスの『諸国民の富』が紹介されていた。一般的には、『諸国民の富』は、「経済学」の古典という印象が強いけれども、国家における「富」の意味、それに関わる統治のあり様を考究したという点では、紛れもなく政治学の書なのである。
 最近の中国やインドの発展は、「外の富」をいかに国内に呼び込むかということにおいて成功した結果である。日本は、「外の富」をいかに国内に呼び込むかとという点で、万全な仕組を手にしたといえるであろうか。案外、市場万能主義」といった言辞を吐く人々に限って、そうした現実を理解していないところがある。雪斎は、小泉純一郎前総理や安倍晋三総理の「構造改革」路線の意味は、「冷戦の終結」以後の国際環境の中で、「外の富」を国内に呼び込む仕組を整えることを目的にしていたと考えている。それは、決して「レッセ・フェール」の施策ではないのである。

■ 青森県紙『東奥日報』に寄せた原稿である。4日前のエントリーを元にしている。
 □ 「グローバリゼーション」と「格差」 ― 構造改革 変わらぬ潮流
 此度の参議院議員選挙に際し、安倍晋三総理麾下の自由民主党は、大敗を喫した。小泉純一郎前総理が加速させ、安倍総理が継いだ「構造改革」路線は、経済危機の克服と経済成長の加速に主眼を置くものであったけれども、それに対しては、「格差」拡大という批判が投げ掛けられ、その批判が安倍総理の失速を機に一挙に噴出したのである。
 しかし、現下の「格差」の拡大は、「冷戦の終結」以後の「グローバリゼーション」の進展に伴う世界的な現象の反映であるということは、この際、指摘するに値しよう。「グローバリゼーション」の進展の中で大事なのは、国境を越えたカネ、モノ、ヒトの流れをいかに利用するかということである。「グローバリゼーション」への適応は、その成否がそれぞれの国々の経済発展の如何に直結している。故に、「冷戦の終結」前後の時期以降、経済活動に対する諸々の規制を外ことが、支配的な風潮になった。「BRICs」と呼ばれる中国、ロシア、インドの劇的な経済発展も、そうした流れの中で成り立った。しかも、これらの国々における社会「格差」の程度は、日本の「格差」の現状が取るに足らないと思わせるほどに甚だしい。それが、「グローバリゼーション」の現実である。
 振り返れば、明治の日本人が手掛けたこともまた、十九世紀の帝国主義国際潮流に適応することであり、現下の「グローバリゼーション」への適応と相似た趣を持つものであった。因みに、「真珠王」と呼ばれた御木本幸吉は、明治天皇を前に「世界の総ての婦人の首を我が真珠で占めて御覧に入れます」と言上し、その言葉の通りに成功を収めたけれども、御木本が世に出た明治という時代は、日本人が否応なく生活習慣を改めさせた時代のことではなく、日本人が「機会」を世界に求めるようになった時代のことであった。御木本は、そういう時代の精神を体現した人物であった。現在、真珠の重さを量る国際度量衡は、グラムやポンドではなく日本の「匁」であるけれども、そのことは、御木本が自ら「グローバル・スタンダード」を創ったことを意味している。御木本の軌跡は、「グローバリゼーション」への適応の究極の姿を示しているのである。
 こうして考えれば、小泉純一郎、安倍晋三の二代の内閣の下で進められてきた「構造改革」路線が、どのように歴史の文脈で位置付けられるかが、明らかになってくる。それは、明治期と同様に、「グローバリゼーション」の趨勢に対する適応の加速である。 故に、たとえば松岡利勝、赤城徳彦の二代の農林水産大臣は、現在では安倍内閣を失速させた元凶として専ら語られるかもしれないけれども、彼らが目指した「攻めの農業」が意味するものは、適切に評価されるべきであろう。それは、前に触れた御木本の言葉に倣えば、「世界の金持ちの胃袋を、われらがコメを初めとする食材で満たして御覧に入れます」というものであった。そして、「攻めの農業」は、「グローバリゼーション」に適応していく「構造改革」路線の一つの仕方であったのである。此度の選挙戦最中、事務所経費の不明朗な扱いの故に猛烈な批判に曝されていた赤城大臣が、中国を訪問し日本産コメ輸出レセプションに立ち会っていたのは、そうした「攻めの農業」の占める位置を物語っている。昔日のような「保護」を軸とした農業政策は、もはや産業政策としては機能しないのである。
 そして、「グローバリゼーション」の衝撃に揺れた一九九〇年代の暗中模索の後で、その適応の果実を得られるようになってきたのは、既に「いざなぎ景気」を越える景気回復局面を実現させた過去数年のことに過ぎない。現下の「格差」への不満は、確かに安倍内閣の執政に対する批判として噴出しているけれども、その批判を理由にして「構造改革」路線を放棄する選択は、安倍総理にも次代の総理もない。「構造改革」路線の放棄は、「グローバリゼーション」への適応の断念を意味するとともに、日本経済全体の地盤沈下を意味するであろう。そのような折には、「格差」云々という議論は、もはや無意味なものとなる。「グローバリゼーション」の潮流の中にある自らの位置を見失わないことが、世の人々には大事であろう。
   『東奥日報』(2007年8月5日付)掲載

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Comments

今は日本の富が世界に飛び出して稼いでいる時代ですからね。国内にも来て欲しいものです。
まだ田舎はダメですよ。このところ土地の動きがやや鈍ったような印象があります。農地法、相続法(制度)に難ありと思います。

Posted by: SAKAKI | August 07, 2007 at 11:05 PM

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