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May 25, 2007

政治家の「意志」と憲法学者の「権威」

■ 「偉大な人物の存在なくして、大事業は何一つ成就しない。そして、偉大な人物は偉大な人物になろうと欲したから偉大な人物になったのである」。
   ―シャルル・ド・ゴール著『剣の刃』(小野繁訳)
 このド・ゴールの言葉を頭に入れながら、次の「読売新聞」記事を読んでみる。誠に面白い記事である。
 

□ [方位計]気鋭の改憲論者、どこに
           2007.05.20 読売新聞東京朝刊 4頁 写有 (全1,135字) 
 「憲法施行から60年。人間でいえば還暦で、本来ならばお祝いをすべきだが、憲法は果たして赤いちゃんちゃんこが着られるのか。ちゃんちゃんこというよりは経帷子(きょうかたびら)を着さされそうな雰囲気だ」
 国民投票法成立を翌々日に控えた12日。東京・成城大で開かれた憲法学会「全国憲法研究会」春期研究集会で、司会の駒村圭吾慶大教授は憲法の現状を経帷子に例えた。
 経帷子は、仏式で葬る際に死者に着せる白い着物だ。憲法改正を憲法が死ぬととらえるのは穏やかではないが、同会をはじめ、憲法学界は「護憲」派が大多数を占めている。
 憲法新時代を語ってくれる30代、40代の新進気鋭の学者はいないのか。そう考えていた時、「論座」6月号(朝日新聞社)で、東大の石川健治教授の論文「ラオコオンとトロヤの木馬」にめぐりあった。^
 石川氏は、1962年生まれ。「現代憲法学の奇才」「20年に1人の逸材」(インターネット百科事典「ウィキペディア」)と激賞され、研究者間の評価は際立っている。
 それだけに論文を読んで、いささかショックを受けた。論旨は、こうだ。
 <自衛隊の正当性を剥奪(はくだつ)し、コントロールしてきたのは9条2項だ。自衛隊は国内的な治安出動も予定した組織だ。9条2項を改正して自衛隊に正当性を与えた上で国民の自由を確保できるだけの力量は、戦前の帝国議会での「前科」がある日本の議会政治にはいまだ備わっていない>
 石川氏は「9条改憲には得るものがなく、失うものだけが果てしなく大きい」とも言う。これが研究者の間で「憲法3天才の1人」とされる人の考え方なのか……。
 憲法学界で、石川氏らの一つ前の世代で注目されるのが「55年生まれ組」だ。松井茂記・元阪大教授、棟居快行(むねすえとしゆき)阪大教授、安念潤司(あんねんじゅんじ)成蹊大教授らで、56年生まれの長谷部恭男東大教授もこの世代だ。
 棟居氏は、石川氏の論理を「9条の風圧で自衛隊をある程度までに押しとどめているというのは憲法の本来の役割ではない。9条は自衛隊の存在を前提としない文字通りの丸腰論で、とっくに賞味期限は切れている」と批判する。棟居氏は石川氏ら若手研究者が「護憲」の論陣を張ることにユニークな見方を示す。
 「彼らが改憲となったら、政府や与党もまともな学者を集めたいわけだから、改正原案作りなどに引っ張られ、すごく忙しくなる。(現憲法起草にかかわった)東大の宮沢俊義教授のようなことをやらされたら勉強できなくなる、と思っているのではないか」
 安念氏も「憲法の世界では、改憲論者は、はっきり言って二流学者」と言い切った。
 同業者から認められ、政府が手を伸ばしたくなる気鋭の改憲論者の登場を心待ちにしたい。(前木理一郎)

 この記事は、前々回のエントリーでも言及したけれども、読者の方々も記事全文を読んでおくのが有益であると思うので、全文を紹介する。これは、当代の憲法学者の価値観を垣間見ることが出来る記事である。。
 雪斎の感覚からすれば、この記事そ自体の主張は、「それを言っても仕方がない」というものである。雪斎は、「憲法学者が何を語ろうとも、政治家の意志に依って、憲法典の文面なるものは、変えられる」と思っている。「改憲派」若手憲法学者が登場しようとしまいと、政治家がきちんとした意志を示せば、それは、どうでもいいことなのである。振り返れば、ド・ゴール自身が、第二次世界大戦後の第四共和制に引導を渡し、第五共和制を樹立させた政治家であった。ド・ゴールは、「憲法典改定を実現させた」政治家であったのである。ド・ゴールが第五共和制を樹立したのは、第四共和制の「統治」が特にアルジェリア情勢への対応に絡んで、機能不全を来たしたからである。ド・ゴールは、未完に終わった回想録『希望の回想』の中で、次のように書いている。
 「この時代ほど、政党、財閥、労組、新聞が―これらは現代の封建勢力だ―が支離滅裂な勝手な自己主張を唱えるのにふさわしい時代はなかったのではなかろうか。この時代ほど、わが国の外交活動を国際的無気力に取って替えようと願う人々の妄想に似つかわしい時代はなかったのではなかろうか。一言でいえば、私が偉大さをめざす行動を起さんとしたのは、いたるところに凡庸さが充満している時代であったのである」。
 日本の「進歩・左翼」知識層は、近代人権思想の故地であるフランスに想いを寄せる人々が多いけれども、彼らが、ド・ゴールが体現したような政治的な「意志」によって憲法典が適宜、替えられた事情を、どのように諒解してるかは定かではない。人々の「権利」も「自由」も、まともな「統治」による「秩序」が成り立っていてこそ、はじめて意味を持つものである。この現実を直視しない人々が、まだ多い。雪斎がド・ゴールに深い思い入れを寄せているのは、そうした「統治」の有り様によっている。
 ところで、日本の憲法学者の大勢は、実際に憲法典改訂が成った暁には、どのように身を処すつもりなのであろうか。雪斎は、そのような動きに対して、抗議辞職などを通じて身を挺して抵抗する「豪傑」がいるようには、思われない。おそらくは、彼らには、三つの行く末が考えられる。第一に、「平成憲法典」を解釈するという仕事に精励することである。第二に、実質上、過去の文書となった「昭和憲法典」の訓古学に走ることである。第三に、「昭和憲法典」の復活に向けた改憲運動に身を投ずることである。この中では、どれが可能性が高いのかといえば。第一の方向であろう。第二の方向には、土井たか子女史のような人々は走るかもしれないけれども、まともな憲法学者が自ら「化石」に成ろうとするとは思われない。第三の方向にしても、改憲という政治運動に走る学者を「二流」と呼んではばからないような日本の憲法学者が、自ら政治運動に走るとは考えにくい。結局、彼らは、「平成憲法典」護憲派として、何事もなかったように振る舞うのであろう。
 「知識人の役割は、『人々に思考の材料を提供すること』である。つまり、『これが私の考え方です。さあ、皆さん、受け容れなさい』ではなく、『これが私の考え方です。さあ、皆さん、一緒に考えましょう』という姿勢である」。パリ滞在中、面談したドミニク・シュナッパー教授は、父親であるレイモン・アロンの思想について、このように解説した。シュナッパー教授は、フランスにおける「法の番人」である憲法評議会のメンバー九人衆の一人である。それは、自らと立場を異にする他人を平気で「二流、三流」と呼べる日本の憲法学者の「偏狭さ」とは、だいぶ様相が違うような気がする。たとえ、その憲法学者の指摘する事実が正しいものであるにしてもである。それとも、日本の憲法学者が「自由主義的」であるというのは、雪斎の大いなる誤解なのであろうか。

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Comments

うふふ、この記事で「思考の材料」をたくさんもらいました。
読み応えのある記事でした。
「赤旗」は「思考の材料」を与えず、一方的に自分の主張をする知識人が多く登場するようになりました。知識人と一般人の主張の区別がつきません。だいぶ前から、共産党が抱える知識人は、質が悪くなったと、がっかりしています。
「赤旗」に知識人を登場させるよりは、一般人の護憲・政治意見をどんどん載せたほうがいいのではないかと、思っています。

Posted by: うみおくれクラブ・ゆみ | May 25, 2007 at 09:12 AM

 「アカデミズム」、「学会」、「サイエンス」等の、
「公論」において物事に迫ろうとする場の在り方の東西差等と言うことをとりとめもなく妄想してしまいました。

さて、私、
「「国際派時事コラム・商社マンに技あり!」 ライブ版」
http://plaza.rakuten.co.jp/yizumi/
の2006年2月2日の記事、
「ホームレスなる美称を得た乞食についての常識」
http://plaza.rakuten.co.jp/yizumi/diary/200602020000/
に、
「権利」は誤訳では、というコメントをつけた事があります。
「権利」という熟語では、
Right という原語がもつ「正しさ」のニュアンスが消えてなくなり、
「特権」と混同が生じるのではないか、という内容でしたが。
(上記には、ブログ主の泉さんから
「義権」と訳す案を提示していただきました。)

自衛権や集団的自衛権に関する議論も、専門家において
権利と特権が混同されていることが根っこにある気がする次第です。

Posted by: MUTI | May 25, 2007 at 06:35 PM

ゆみ殿
まぁ、共産党は、「前衛」が民衆を領導する建前ですから、リベラリズムとは対極にあるのでしょうな。
muti殿
right の英語には、明治初年には、「権理通義」、「権理」という訳語が当てられていたはずです。「権理」が何時の頃から「権利」に変わったのか。これは、調べれば、面白いと思いますが・・・・。

Posted by: 雪斎 | May 25, 2007 at 07:40 PM

>国民の自由を確保できるだけの力量は、戦前の帝国議会での「前科」がある日本の議会政治にはいまだ備わっていない

こんにちは
初めてコメントします

私も基本的には古くなれば変えるべきと考えているのですが、この類いの一文を言われると、なかなか否定できないというのが現状です。
自分の場合は、「行政の暴走を押さえる力が議会に備わっているか」と読み替えますが。

この点どう考えておられうでしょうか。

Posted by: 武藤 臼 | May 26, 2007 at 11:19 AM

 憲法を専攻し、学者として生きる道を選ぶなら、上司と対立する見解をもっていては出世できないというか、改憲派はそもそも大学に残ることすら難しいという状態が何十年も続いているわけで。
 そういう現状が学生の間に周知されると、優秀と目される人間は憲法なんて専攻しなくなります。結果、憲法の講座はよそがあふれて回された学生か、はじめからイデオロギーの色が付いた人間しかいなくなるという悪循環に。
 実際、うちの大学では、若手の准教助教に占める司法試験合格者の割合も、刑法や刑訴法に比べて1段か2段低いです。
 憲法界隈というのはこういう世界なものですから、改憲派に一流と目されるほどの若手がいないのもむべなるかな。さてでは護憲派を学者として一流と言えるかどうか?

Posted by: がり | May 26, 2007 at 01:41 PM

雪斎 殿
「権理」の方は知っていましたが、「権理通義」の方は初めて知りました。
ありがとうございます。
「権理通義」か、「通義」の方で残っていれば、
「特権」と区別の付かないような用法は減ったのかもしれない等と思う次第です。

>「権理」が何時の頃から「権利」に変わったのか。これは、調べれば、面白いと思いますが・・・・。
大変興味があるのですが、必要な時間・環境において、今の私の手に余る課題だと言わざるを得ない問題です。
どなたか興味をお持ちの方がおられるようならお願いしたい所です。

英米文化における「right」の文脈にもっとも近い日本の言葉は、
「まっとう」とか「自然」、「あたりまえ」なのかもしれないと思っております。

武藤 臼 殿。
力量が備わっているか、いないのかを判定するのは、憲法学者ではなく主権者たる国民だと思うのですが。

Posted by: MUTI | May 27, 2007 at 10:07 AM

はじめまして。
いつも興味深く読ませていただいております。

さて、
>「権理」が何時の頃から「権利」に変わったのか
ですが、これの参考になるような論文を発見いたしましたのでご紹介します。

前田正治「「権理」と「権利」覚え書」
『法と政治』(関西学院大学)Vol.25, No.3/4(1975) pp. 347-386

当該論文は国立情報学研究所・論文情報ナビゲータ(CiNii)で読むことができます。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000589172/

これによりますと、

・「権利」という語は中国起源、古典に現れる「権利」という語が漢訳『万国公法』で right の訳語として用いられた、この語を日本に導入したのは箕作麟祥
・「権理」の初出は明治3年の加藤弘之『真政大意』
・福沢諭吉は「権理」と「権利」を使い分けていて、近代法の概念としては後者を使っている

とのことです。
ご参考までに。

Posted by: ののまる | June 10, 2007 at 03:03 PM

ののまる殿
素晴らしいご教示です。有り難うございます。
長年の疑問が解けるかなと思います。

Posted by: 雪斎 | June 10, 2007 at 03:20 PM

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