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May 21, 2007

政治学者と法律学者の作法

■ パリから帰朝して、そろそろ「現実」に戻る必要がある。日曜朝は、憲法典絡みの討論が目立った。国民投票法案の成立、集団的自衛権に関する「柳井懇談会」の議論の始動は、憲法典絡みの議論をクローズ・アップさせているのは、間違いないであろう。

 ところで、そもそも、政治家と法律家は、その認識や思考の枠組を異にしている。政治家は、「法律上、正しいかどうか」を議論の基準とする法律家とは対照的に、「それが必要かどうか」を議論に際して優先する。そして、アカデミズムの世界においても、政治学者は、諸々の政策決定に際して、「それが法律の趣旨に則っているか」という視点から判断を下す法学者とは異なり、「それが国益の追求の観点から賢明であるかどうか」を評価の基準とする。ジョージ・F・ケナンが、特に国際政治案件に際して「法律家的な発想」を嫌ったのは、そうした発想が変転する国際政治情勢に対応する際の柔軟性を削ぎ落とすからである。その意味では、たとえば現行憲法典第九条に絡む「護憲」論と「改憲」論の対立の本質は、「法律家的な発想」と「政治家的な発想」の対立であったといえなくもない。
 このように考えれば、現在の日本の憲法学の世界で、「改憲派」の学者の多くが、二.三の例外を除けば、二流、三流の扱いをされている事情も、理解できる。彼らは、憲法学者を名乗っていても、実態としては「政治活動家」の類になっているとみなされているのであろうし、実際、そうした事例は、確かにある。雪斎も、「改憲派」憲法学者の学術業績から何らかの知見を得た記憶は、ほとんどない。昨日の『読売新聞では、若手の「改憲派」憲法学者の登場を期待するコラムが載っていたけれども、雪斎は、もはや、そうしたことには期待を寄せてはいない。憲法学者の大勢は、現行憲法典を議論の前提とする限りは、「護憲派」たらざるを得ないのであるから、その法律学者としての「領分」を弁えて研究に精励すれば、それでよいのである。彼らは、数年後に改訂された憲法典に対しても、「護憲派」になるのであろう。
 雪斎は、政治学者であるから、現行憲法典を議論の前提とする発想はない。おそらくは、雪斎は、数年後に改訂された憲法典に対しても、その内実を常に検証し続けるという意味において、「改憲派」の相貌を持ち続けるのであろう。政治的なイデオロギーに基づく「左」と「右」の対立というよりは、こうした学者としての作法の違いが、事の本質である。集団的自衛権に関する「柳井懇談会」に集った顔触れは、雪斎には身近な人々ばかりなので、そうしたことを余計に痛感する。

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