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April 06, 2007

「カネのない不幸」と「カネのある不幸」

■ 最近までNHKが放送していた土曜ドラマ『ハゲタカ』は、興味深いドラマであった。
 「カネのない不幸」と「カネのある不幸」の二つが問いかけられていたけれども、実に絶妙な問い掛けであったと思う。
 これに関して、雑誌「AERA」に載っていた「青森の品格」という記事は、興味深かった。
 『国家の品格』の著者、藤原正彦教授のコメントが付されている。。
 「拝金主義の中で、日本人は大事な道徳心をなくした。青森は数字上、貧しいかもしれないが、大事な『日本人の品格』を忘れていない。あっぱれですよ」。
 だが、それでも、「カネ」はあったほうがいいのではないか。最近の保守論壇人士の話を聞くと、彼らの理想が「清貧」にあるのではないかと錯覚する。「カネのない不幸」と「カネのある不幸」を比べれば、「カネのある不幸」のほうが好ましいと思うのであるけれども…。

■ 下掲は『世界日報』に載せた最新原稿である。雪斎にとっては、「どこに書くかは」は余り重要ではない。雪斎は、左傾化したという評があるので、今後は是非とも雑誌『世界』や『週刊金曜日』にも書いてみたいと思う。大体、自由に物事を考えるのを職分としているはずの知識人が何らかのイデオロギーによって思考の幅を狭めるぐらい阿呆らしいことはない。中身は既にブログで書いたとおりである。

  □ 多様な「過去」に眼を向けよ。
 安倍晋三総理が戦時中の「従軍慰安婦」案件に関して「狭義の強制性はなかった」と発言した一件は、対外関係に波紋を投げ掛けている。こういう案件は、人間の「性」に絡むものであるが故に独特の語り難さを持つものであるけれども、少しばかり異なった観点から考えてみることも大事であろう。
 筆者が幼少期を過ごした青森県八戸市一帯を中心とする旧南部藩領地域は、夏には太平洋から冷たい「ヤマセ」が吹き、冬には八甲田山系から「ニシ」と呼ばれる寒風が吹き降ろす自然環境が災いして、古来、冷害に伴う凶作と飢饉の常襲地帯であった。この地域は、明治以降、昭和二十年までに限っても十四度の凶作に見舞われている。それは、ほぼ五年に一度という頻度である。特に昭和初期、一九三〇年代初頭には、連年の凶作に金融恐慌に伴う生糸価格暴落が重なったために、状況は一層、悲惨になった。故に、往時の東北地方の農村では、女児が誕生することを歓迎する雰囲気があったと伝えられる。「男なら結局、兵隊に取られるだけ…。女なら身売りに出せる…」という理屈であった。東北地方の農民は、それほどまでに貧しかったのである。実際、往時の八戸市役所の掲示板には、「娘の身売りを考えている方は、申し出てください」という趣旨の告知が出されていた。一九三四年時点の青森県の実像を伝えた記録によれば、農家一戸平均五百円以上の借金を抱える市町村が百を超え、芸妓・娼妓として売られた女子は累計七千八十三人に達した。往時の品川、川崎といった東京近郊の「遊郭」では、三分の一以上の娼妓が八戸を含む青森県出身であったと伝えられる。
 戦時中、こうした娼妓の多くは、何をしていたのであろうか。戦時中の「遊郭」が平時と同じ賑わいを示していたとは、常識上、考え難いので、こうした娼妓の多くは、「需要」のある戦地に送られていたことであろう。後に「従軍慰安婦」と称される人々の多くは、そうした娼妓であったと推測される。
 日本では、「過去」に関する議論は、「道徳」論の装いを帯びる。無論、現在、米国連邦議会下院で審議中の「対日謝罪要求決議案」が象徴するように、米国での議論が「道徳」論の色彩が濃いものであるのは、米国の対外姿勢の鬱陶しい習性を反映するものとして受け止めるより他はない。米国にとっては、「従軍慰安婦」案件などは、所詮は「他人事の話」である。それ故にこそ、米国の人々は、こうした案件を何の遠慮もなく「道徳」論の次元から議論できるわけである。しかし、日本の人々が自らの「過去」に関わる話を「道徳」論の次元で語っているのは、率直に奇妙な光景である。一方には、他の国々との実質上の提携の上で日本の「過去」を断罪することによって「道徳的な満足」を得ようとする層があれば、他方には、そうした動きに抗して日本を弁護することによって「国家の威信」を護ったと自負する層がある。こうした双方の層の議論からは、日本の「過去」が誠に多様な相貌を持っていた事実への洞察が抜け落ちる。往時の日本政府は、実質的な人身売買である「娘の身売り」が往時の農家の貧困救済という側面を持っていた故に、それを法的に禁止する措置を取るに至らなかった。こうした経緯は、「断罪」と「弁護」の文脈で語るに相応しくないものであろう。
 安倍晋三総理の政治信条は、「戦後レジームからの脱却」である。確かに、戦後六十余年の歳月が、様々な社会制度上の軋みを生じさせているのであれば、そうした軋みを正すことは、大事なことである。ただし、その際の前提は、戦後・日本の歩みに肯定的な評価を与えることである。現在、日本社会の「格差」が様々に指摘されるけれども、そこには、困窮した農家が娘を身売りに出さざるを得なかった往時の酷薄さはない。戦後の日本は、そうした酷薄な風景を「過去の話」にする全般的な豊かさを実現させたのである。安倍総理の政治上の使命は、そうした「豊かさ」を維持し、その「豊かさ」の上に何を手掛けるかを示すことである。安倍総理が標榜する「美しい国」の内実が「清貧」であるという落ちは、何ら歓迎されるものではない。
  『世界日報』(2007・04・04)

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Comments

仰せの通りです。私は「清貧」という言葉が誤解を派生するのではないか、と思います。「清貧」より、ほんとうに求められていることは「貪欲になるな」ということだろうと思います。わが国のかつての支配階級であった武士には、世界的にもめずらしく「貪欲に陥らない」文化があった、それゆえ秩禄処分という過酷な制度変革も円滑にできた、と。「武士は食わねど高楊枝」は信じませんが、わが国の武士の「食い得たうえは貪欲に陥らない」文化と矜持は再認識して尊重すべきことがあると思います。

Posted by: 珈琲 | April 06, 2007 at 07:05 AM

准教授着任 おめでとうございます。

>「男なら、兵隊に…。女なら(悪くとも)身売りに出せる…」
私の祖母も同じことを言ってました。
 カネのある不幸より生活に困らないカネがある幸せを世間の人が求めてくれれば・・と、思います。
青森、秋田、北海道の有効求人倍率は依然として持ち直しませんね。
 

Posted by: SAKAKI | April 06, 2007 at 09:31 AM

おそらく朝鮮半島でも中国大陸でも同様の状況はあったのでしょうね。
それらの国々では、一方では日本の戦争犯罪の題材として強調したいけど、もう一方では自国の恥部として隠蔽したいという、アンビバレントな感情があるのでしょう。

また、日本や韓国の場合、戦前は娼妓で戦時中は慰安婦であった女性の多くは、戦後は米兵相手の娼婦となったのでしょうね。そして社会が豊かになるにつれて、その存在は忘れられていったのでしょう。

Posted by: Baatarism | April 06, 2007 at 11:11 AM

日本が、人を売るのが当たり前の時代、女衒という言葉もありました。私も当時の国情の分析に対して、その通りと考えます。そして、こうした論旨で説得するのが正論と思います。

しかし、NHK特集で「南風窓」という中国の雑誌を特集していましたが、その取材によれば、かの国では、今も組織的な人さらいと拉致、人身売買というのですか、貧困の農村が嫁を女衒経由で組織的に買い、逃げぬように村全体で監視していたという話がありました。

そうした国に対して、この正論はどこまで耳を貸してもらえるのかと考えると、どんなものなのでしょう・・・。

Posted by: sal | April 06, 2007 at 01:16 PM

安部総理には西原理恵子を読んでほしいものです。
政治家が「金が無いのは首が無いのといっしょ」という現実を見失っては困ります。

Posted by: 玄倉川 | April 06, 2007 at 07:50 PM

カネはあったほうがよいのは当然です。
しかしそのカネが一部のものが独占するだけでは意味がありますまい。正しく流れてのカネではありませんか。「改革」の果てに格差を生み、結果大慌てでは何をかいわんやです。格差は国民の団結力を蝕み、不満と怒りを生みます。

安部首相もこういう場合どうするかで考えるべきところを政策見るやこれまた暗澹たるものがあります。世間を見ても核武装論だの安易な自主防衛論などが跋扈し、ナショナリズムを真の国益へと結びつける言葉が首相自ら発せられないのはどういう事でしょうか。中には学ぶべき歴史の教訓さえ無視するやからが出るありさまで、正当化と是正の区別さえつかないものがあり、これはまた大きな害毒です。

やはり政治家は自分の言葉がなければ駄目だなあと痛感します。私は小泉さんの政治にはあまり同意しない人間ですが、彼は人を動かす言葉は持っていました。

Posted by: ペルゼウス | April 07, 2007 at 07:56 AM

それともうひとつ残念なのが都知事選です。
もうご存知でしょうが共産党と浅野氏の支持者の間でのどろどろの争いです。「保守」に負けず劣らず歴史に学ばないのが革新で、打倒石原の怨念だけでは事足りず、例の「石原を下ろすためなら・・・」という感情で突っ走ってます。正直石原氏を観ているとオリンピック(途上国に譲るなどして外交上のカードにするならまだしも再度の東京開催など・・・)や魚市場の移転問題での問題など今回は降りたほうがという思いがあります。
しかしこのザマでは浅野氏が当選してもやりづらいでしょう。反石原で彼を押す「支援者」たちのルサンチマンは相当なもので、浅野氏が政策を提案するごとに噛み付いて来る可能性すらあり、下手をすると「浅野は石原化してゆく!」とか滅茶苦茶な運動をやりかねません。浅野氏自体は発言とか読んでいるとちゃんとした人ですが、支持者たちの過激さと怨念が彼の仕事の邪魔になると観て、彼への投票を避ける人も相当出てくるはずです。

一番悲しいのは雪斎さんの師匠、山口二郎さんまでがこの怨念の騒動の中にいる事で、弟子が師を越えるのは素晴らしいと思いながら、政治というのは恐ろしいなあと改めて通過アンします

Posted by: ペルゼウス | April 07, 2007 at 08:39 AM

 遅れ卷きながら、准教授ご就任おめでたうございます。以前、政治と「主義」にくわんしてコメントした者です。
 政治の世界から退き、學者の世界に留まることになられるのが決まつたにつけて、くどいやうながら、ふたたび申し上げ、應援の辭と致します。
 政治は、必ずしも不毛ではありませんが、どうしても政治で解決しえぬ問題が、確かにあります。それは、政治の領域には属さず、倫理や道徳の領域に属するものです。TSエリオットの云ふやうに、さういふ領域から「榮養をとつて」、研究に邁進下さりませ。
 また、朝日新書からのご著書の刊行も心待ちにしてゐます。
 

Posted by: マロン・ナポレオン | April 07, 2007 at 07:06 PM

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Tracked on April 06, 2007 at 01:48 PM

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