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January 30, 2007

「厄年」の始まり

■ 昨日、齢四十二を迎える。「厄年」である。
 他の占いでは、これから雪斎の運気は再び上昇するらしい。
 どちらが本当であろうか。
 用心に越したことはない。

■ 昨日午後、愛知和男代議士が勤続二十五年の表彰を受ける。
 愛知代議士は本会議場で「謝辞」を述べた。
 衆議院議員の立場を四半世紀も維持できる人々は、例外に属する。
 愛知代議士が七年前の選挙で落選し、政界引退を一旦は表明した折、雪斎は、「二十五年を目前にして、惜しすぎる」と思った。
 しかし、一昨年の選挙で「あり得ない復活当選」を果たし、昨日、その「例外」に連なった。
 何とも、「運に恵まれた」人物である。小泉純一郎前総理を「豪運の政治家」と呼ぶ向きが定着しているけれども、愛知代議士も、それに近い人物である。「徳」が「運」を呼び寄せるのか。
 愛知事務所関係者が総出で議場傍聴席で「謝辞」を見守った。「運に恵まれた人物」の周囲には、やはり「運に恵まれた人々」が集っている。
 無論、雪斎も、「運に恵まれた男」であると自覚する。ただし、「徳」が伴っているかは、定かではない。

■ 『月刊自由民主』に次のような原稿を書いた。割合、出来の良かった原稿である。雪斎は、こういう原稿をこそ、書き続けたいものである。

  □ テルモピュライ―アラモ―硫黄島
 古代ギリシャ最大の戦役であったペルシャ戦争を扱ったヘロドトスの古典『歴史』(松平千秋訳、岩波文庫、下巻)「巻七」には、次のような記述がある。
 「すでにこの頃には大方のギリシャ兵の槍は折れ、彼らは白刃を揮ってペルシャ兵を薙ぎ倒した」(二二四)。「ギリシャ軍は、この地に依って、まだ手に短剣を残したものは短剣を揮い、武器なきものは素手や歯を用いてまで防衛に努めた…」(二二五)。
 この記述が描き出しているのは、スパルタ王レオニダス一世麾下のスパルタ重装歩兵三百を含む総勢五千のギリシャ軍が、総勢二百六十万のペルシャ軍をテルモピュライの地で迎え撃ち、三日持ち堪えた後に全滅した戦闘の様相である。
 この絶望的な「玉砕戦」の様相は、現在、公開中の映画『硫黄島からの手紙』(監督/クリント・イーストウッド、主演/渡辺謙)に描かれた旧日本軍硫黄島守備隊二万千の将兵の様相とも重なり合う。もっとも、硫黄島では日本を圧倒した米国にも、無念極まりない「玉砕戦」を自ら闘った歴史がある。たとえば映画『アラモ』(監督・主演/ジョン・ウェイン)に描かれた一八三六年のアラモの戦いの顛末は、南北戦争や一八七〇年代の産業発展以前の「弱く情けなかった米国」の時期の記憶とも共鳴して、忘れ難い印象を多くの米国国民の心中に残している。「リメンバー・アラモ」とは、後の米西戦争時の「リメンバー・メイン」や日米戦争時の「リメンバー・パールハーバー」の原型になった言葉なのである。
 テルモピュライ、アラモ、そして硫黄島の連環を考えることは、「戦争と平和」に関する認識を成熟させる上では大事なことである。というのも、その連環は、ギリシャ文明を諸々の価値意識の源流とする欧州諸国の人々に「テルモピュライ」があり、米国の人々に「アラモ」があるように、日本の人々にも「硫黄島」があるということを示しているからである、戦後、日本の人々は、対米戦争の記憶に呪縛され、米国の強盛を自明のものとして受け止めた結果、自らの「玉砕戦」の意味に向き合おうとしなかったし、欧州諸国や米国にも、そうした「玉砕戦」の時間があるということの意味を適切に理解し得ていない。五百旗頭眞(政治学者)の著書『日米戦争と戦後日本』では、硫黄島を含む中部太平洋諸島、さらには沖縄での戦闘は、関ヶ原の戦いの折に薩摩・島津勢が決行した「すてかまりの戦法」の効果を持ったことが説明されているけれども、こうした五百旗頭の温和な説明ですらも、「玉砕戦」の様相が専ら悲惨の意味合いとともに語られてきた故に、広く知られているわけではない。また、欧州諸国や米国の人々は、「硫黄島」における栗林忠道が、「テルモピュライ」におけるレオニダスや「アラモ」におけるウィリアム・トラヴィスのような存在であると知れば、硫黄島で闘った日本人将兵がどのような人々であったかということについて認識を深めることができるであろう。テルモピュライ、アラモ、そして硫黄島の連環は、欧州諸国、米国、そして日本の人々にとっては、互いに対する理解と尊重の基盤になるものであろう。故に、日本の人々は、欧州諸国の人々にとっての「テルモピュライ」、米国の人々にとっての「アラモ」の意味を理解するためにも、自らにとっての「硫黄島」の意味を確認しなければならない。日本の人々にとっては、「硫黄島」の記憶を粗略に扱うことは、欧州諸国や米国の人々との相互の理解と尊重の「縁」を自ら捨てていることを意味するのである。
 『歴史』には、テルモピュライで落命したギリシャ軍将兵を顕彰した墓碑のことが紹介されている。その墓碑は、「かってこの地に三百万の軍勢と戦いたる ペロポネソスの四千の兵」という碑銘で始まり、特にレオニダス直隷のスパルタ兵のために次のような銘文を刻んでいる。
 「旅人よ、スパルタびとに伝えてよ、ここに彼らが おきてのままに、果てしわれらの眠りてあると」。
 「硫黄島」から六十年余りの後、平成の御代に至って、「硫黄島の二万千余りの兵」のことを「平和と繁栄」の最中にある「大和人」に鮮烈に伝えたのは、「硫黄島」の折には敵として対峙した国の芸術家が手掛けた映像芸術作品であった。現在の「大和人」は、そのことを本当に喜ぶべきであろうか。
  『月刊自由民主』(2007年2月号)掲載

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Comments

雪斎さん

こんばんは。

誕生日であったのですね。おめでとうございます。

厄除けのお払いは、受けた方がいいかもです。

大きなお世話ですが。。。

Posted by: forrestal | January 30, 2007 at 08:45 PM

雪斎様
1965年のお生まれですよね。
大厄は去年2006年で今年は「後厄」ではありませんか?
厄は「数え」で判断しますから、1月生まれも7月生まれ(私のことです)も同じだと思うのですが・・・。
厄年計算
http://www.1978.jp/yaku/

Posted by: KU | January 30, 2007 at 09:11 PM

foresstal殿
KU殿
どうも。川崎大師では、数え年ではなく、満年齢でそのまま42を本厄年としているようです。
何れにせよ、用心に越したことはないですな。

Posted by: 雪斎 | January 31, 2007 at 08:04 AM

はじめまして。いつも愛読しておりますが、タイトルのことで気になりました。私は1964年1月生まれですが2004年に「前厄」だと思い込んで正月に厄払いに行ったら、そこは2月の立春を基準にしているようで、「もう前厄は終わっていて、今年は本厄」と言われました。
そこで慌てて厄払いを受けまして、その年の夏に会社を辞めてフリーになりましたがおかげで無事に暮らしております。
その寺は自宅に近いのですが厄除けでは伝統があるようでして、毎年初詣で祈願をするのが習慣になりました。
気を引き締めさせる、という意味では「厄年」という考えは非科学的とは思えず、ある意味合理的な知恵なのかとも思う次第です。
ご健康をお祈りします。

Posted by: なおと | February 01, 2007 at 09:43 AM

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