« 師走の雑感 | Main | 会議は踊る。されど… »

December 21, 2006

言論の「質」を担保するために

■ 昨日夕刻以降、「対外政策」関係研究会に参加する。外務官僚と国際政治学者の混成である。アカデミズム関係者では、T先生とK先生の御両人と雪斎が加わった。実質、今年の「最後のイヴェント」である。本日午前の補習授業と明日の研究会参加を済ませば、雪斎は、「御用収め」モードに入る。

■ 知識人の中にも二つの種類がある。一つは、自分の言論を社会的に「成り上がる」ための手段と位置付けている人々である。二つは、元々、それなりの資産や地位を得ているので、そうした「成り上がる」という動機付けを持たない人々である。

 戦前期、池崎忠孝という評論家がいた。『日米戦はば』といった「近未来日米戦争モノ」を書いて、一世を風靡した人物である。彼は、文藝評論家として出発した人物であり、「近未来日米戦争モノ」を書いていた割には、米国事情に精通していたわけではなかった。要するに、池崎は、折からの日米関係悪化という雰囲気に乗じた言論を続けていたのである。故に、池崎は、戦時体制下でも言論活動を続け、衆議院議員にも成り遂せていた。「近未来日米戦争モノ」は、池崎に「成り上がる」機会を与えたのである。現在でいえば、小泉純一郎前総理の北朝鮮訪問以降に、「雨後の筍」のごとく登場した「対朝強硬論者」というのは、池崎の亜流なのである。多分、一九九〇年代以降に続々と登場した「若手保守論客」というのも、そういう手合いであろう。以前には、雪斎も、そういう手合いの一人だと見られていたのであるけれども…。
 こうした池崎の姿勢を批判的に観ていたのが、清沢洌であった。若くして渡米して帰国した清沢は、日米関係の意味をきちんと諒解していた人物であった。清沢は日本に戻ってからは、石橋湛山や吉田茂と交流を持った。そして、清沢は、日米関係の現状が「近未来日米戦争モノ」が想定するように戦争に必ずしも向かっているわけではないと論じ続けたのである。
 どちらが言論家として「質」の高い言論を展開したかといえば、清沢の方であった。清沢は、何時でも筆を折る覚悟の下に言論活動を続けた。実際、清沢は、戦時体制下では言論活動の機会を奪われていたのである。もっとも、その一方で、清沢は、戦前から株式投資やレストラン経営を手掛け、相当の資産を蓄えていた。人間は、「霞」を食べて生きているわけではない。清沢が時流に阿らず何時でも筆を折る覚悟を持てたのも、こうした資産の裏付けがあればこそであった。
 雪斎も、以前に比べれば原稿を書かなくなった。原稿一編一編の「質」を高めることに方針を変えた。だから、原稿料として得られる金銭の額も、かなり減った。日本の出版社は、原稿の質が良かろうと悪かろうと、原稿用紙一枚換算で原稿料を払っている。現状では、一字一句を緻密に組み立てた文章を書いていくのは無駄である。とにかく枚数を多く書き散らし色々なメディアに露出すれば、「名前」が売れるのである。そして、一旦、論壇や文壇で「名前」が定着してしまえば、どのような「駄文」を書いても、原稿料が支払われる。しかも、そのような「駄文」も「蛸壺」の中で書かれている限りは、淘汰されることがないのである。これでは、言論の「質」は著しく低下する。
 雪斎が清沢よろしく、投資活動に手を染めたのも、そうした言論界の傾きから離れなければならないと思ったからである。個人投資家の末席に連なり着実にリターンを得られるようになれば、原稿料というのも余り重要な意味を持たなくなる。普段の言論活動は、自分の「矜持」と「名誉」を賭けた生粋のアマチュアリズムの営みに近くなるのである。アマチュアリズムの産物がプロフェッショナリズムの産物に比べ劣っているというのは、大いなる誤解である。生粋のアマチュアリズムでは、金銭的利得は二の次と諒解される故に、「貴族主義」の様相を帯びるのである。過日の「24時間耐久レース」を経た「中央公論」原稿も、もはや自分の「矜持」と「名誉」のために書いたものでしかなくなっている。雪斎は、むしろ、そのことを喜びたい。ようやく、「精神の貴族」に近付けたかなと思う。
 来年は、色々な意味で、雪斎は「人生の転機」を迎えるようである。吉野作造、清沢のように、後世の評価に耐える言論を目指したいものである。

|

« 師走の雑感 | Main | 会議は踊る。されど… »

「学者生活」カテゴリの記事

Comments

雪斎殿
 言論人に恒産あって、はじめて質の高い論説が生まれるというのは、大切なことですよね。ただ、初めから恒産に恵まれる人は少ないですから、そこにパトロンというものが必要なんでしょうが、今の日本の論壇にパトロン的なものがあるんでしょうか。昔は大手出版社や新聞社がパトロンになっていたが、最近はどうなんでしょう。知識人だけでなく、出版社や大新聞の余裕というものも大切でしょうね。ところで、清沢洌ときてK先生ときたら・・・、K先生とはあの方か?

Posted by: M.N.生 | December 21, 2006 at 09:29 AM

むつかしい所に来てますね 私は言論人ではないので 投資ではなく実業を足場にできるようチャレンジしてますが 昔絹のハンケチという名で呼ばれた方も 最近では17億の個人借財で政治活動をなさった総理も 志をとげぬまま退場なさいましたが 公的活動が国家社会への奉仕であるために 独自の兵站部をもたなければいい仕事が出来ないのは 大衆社会が自足性をもたない証左かもしれません 以前堤さんに文化イベントで 樋口さんに出版で援助を受けた時 ある年齢がくれば自らも援助する側にたつのかなと思った事がありました 今はそこに至る過渡期でしょうか この種の話はまず自らの行いを語らないとコメントする資格なしと思います
ご多幸を 

Posted by: Ld.Ryu | December 21, 2006 at 02:26 PM

David Humeの境地ですな。

David Hume, My Own Life
http://newark.rutgers.edu/~jlynch/Texts/humelife.html

Posted by: 太平燕 | December 21, 2006 at 09:08 PM

 経済的余裕が精神的余裕を生み、精神的余裕が言論の質の高さを担保する、という事でしょうか。万事において「余裕」を持つ事は大切ですよね。しかし鉄鋼株の勢いは止まりませんな~。

Posted by: ささらい | December 22, 2006 at 05:15 AM

なるほど。私はてっきり、食うため「だけ」に書いてる人、経済的余裕があり一語一句に命を削れる人、の二種類だと思ってましたが、必ずしもそうではなかったんですね。「成り上がり」欲があるぶんだけ、「食うだけ」に比べてタチが悪いですね。

ちなみに、万が一、σ(^_^;が本を書くことがあるとすれば、安定したフローのある仕事を確保した上でのことになるでしょう。間違っても「売文」するつもりはないです(笑

Posted by: おおみや%バイト君 | December 22, 2006 at 11:24 PM

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/71618/13131416

Listed below are links to weblogs that reference 言論の「質」を担保するために:

« 師走の雑感 | Main | 会議は踊る。されど… »