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November 08, 2006

「ヴィルトゥ」を追い求めよ

■ さくら殿の昨日のエントリーは楽しかった。小泉純一郎前総理は、再び『ラ・マンチャの男』の「見果てぬ夢 騎士遍歴の歌」の一節に触れながら、新人議員を相手にスピーチをしたそうである。そう、あの有名な歌である。このスピーチは、新聞紙上では、造反議員復党の問題との絡みで語られているけれども、新人議員への「檄」以外の何ものでもないであろう。変な解説は要らない。

 ★ 見果てぬ夢
夢は稔り難く
敵は数多なりとも
胸に悲しみを秘めて
我は勇みて行かん
道は極め難く
腕は疲れ果つとも
遠き星をめざして
我は歩み続けん
これこそは我が宿命
汚れ果てし この世から
正しきを救うために
如何に望み薄く 遥かなりとも
やがて いつの日か光満ちて
永遠の眠りに就く時来らん
たとえ傷つくとも
力ふり絞りて
我は歩み続けん
あの星の許へ
  ―福井峻訳「見果てぬ夢」騎士遍歴の唄

 昨年の「郵政解散」直後、雪斎も、こういうエントリーを書いていた。このエントリーで着目したのは、ガリレオ・ガリレイ、ミゲル・デ・セルバンテス、二コロ・マキアヴェッリが「ルネサンス人」であるということであった。「ルネッサンス」において再興させられたのは、ギリシャ・ローマ以来の「ヴィルトゥ」の徳目であった。「ヴィルトゥ」とは、「力量」とも訳される。「強さ」や「雄雄しさ」を持つことが徳でもあると見たギリシャ・ローマの価値観を復活させようというのが、ルネッサンスの精神であったし、政治家にこそ「ヴィルトゥ」が求められると論じたのが、マキアヴェッリであったのである。故に、政治家には、「敵は数多なりとも 我は勇みて行かん」と言ってくれなければ、困るのである。
 こうした「ルネッサンスの精神」は、騎士道に象徴される中世文化の果実でもあったとされる。だから、ヨハン・ホイジンガは、ルネッサンスを「中世の秋」と位置付けた。「騎士道の精神」は、女性へのエスコートにも反映される。映画『ラ・マンチャの男』では、ピーター・オトゥール演じるドン・キホーテが、ソフィア・ローレン演じる娼婦アルドンサ)を理想の女性ドルシネア姫と崇めるわけである。こうした姿勢は、シラノ ・ ド ・ ベルジュラックの物語にも濃厚に反映される。因みに、シラノ・ド・ベルジュラックの雰囲気を日本で再現させると、映画『無法松の一生』となる。これも、「自らは強く、女性には真面目に優しく」という姿勢で通しているのである。
 そういえば、レイモンド・チャンドラーの小説にも、「男は強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」という有名な一節がある。古今東西、人間の「徳目」は、そう変わらない。雪斎が、男の子の父親ならば、『ラ・マンチャの男』、『無法松の一生』、そして「レイモンド・チャンドラーの小説」の三つの世界だけは、確実に教える。雪斎には、「女の子」の育て方はよく判らないけれども、「男の子」の育て方は、案外、単純であると思っている、「ヴィルトゥを追い求めよ」。これしかない。だから、昨今の「いじめ」問題でいえば、「いじめる側」も「いじめられて自殺する側」も、おかしいのである。
 そして、先刻のエントリーでも書いたように、雪斎は齢八十くらいになったら、孫に歴史上の「英雄」の話を聞かせてやりたいものだと思う。トロイ遺跡の発掘に乗り出したハインリッヒ・シュリーマンにとって、その「夢」の原点にあったのは、子供の時に祖父から読み聞かされたギリシャ神話英雄傳であった。そのシュリーマンの祖父と同じことをやってみたいと思うのである。
 一昨日、紹介した本間長世先生の著書を読んでいて驚いたのは、現在の米国の歴史学界では、ワシントンのような英雄を研究対象にすれば、研究者として知的破綻を来たしたと見なされる雰囲気があるのだそうである。「英雄を英雄として尊重しない」のが流行であるらしい。米国でも、おかしなことが起きているようである。

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「学者生活」カテゴリの記事

Comments

「無法松の一生」をそこまで高く買ってくださっているとは知りませんでした。
そういうことでしたら、31日に本駒込の三百人劇場で開催された麻生八咫(やた)さんの「無法松の一生朗読会」をご案内すればよかったです。九州居残りスタッフとしては集客の機会を逃したことが残念です^^;
http://goka.cocolog-nifty.com/mojiko/2006/10/post_3121.html

Posted by: KU | November 08, 2006 at 10:29 PM

ラマンチャの男の歌詞を始めて読みましたが、
自反而縮 雖千萬人 吾往矣
という文句が一昔前なら自然に浮んできたのではないか、と思います。
ついでに、
天將降大任於是人也 必先苦其心志 勞其筋骨
という一節も。

Posted by: KU | November 08, 2006 at 10:38 PM

本題と離れてしまうのかもしれませんが、「英雄」を研究対象にすることが「知的破綻」の表れという現象に危惧を感じました。最近の若手研究者と話をしていて気になるのが、説明が「きれいなこと」です。簡単に言ってしまうと、筋のよい勉強方法だけを仕込まれているので、理屈できれいな説明が難しい部分はそもそも彼らが意識していないようです。英雄というのは、きれいな理屈になじまない部分が大きいので、それが原因かどうかは確信がありませんが、知的エリートが忌避しているとすれば、知的怠惰だと思います。

最近の教育に関する議論が公教育にばかり集中していることも不安材料です。改革が必要なことはわかるのですが、エリート層を育ててゆくという議論が皆無で、エリート教育が必要だと主張されている方でも、抽象論ばかり。私も、今のところ、これという策はないのですが、将来のエリート層に高い教養水準と一昔前のイギリス流の「高貴な野蛮さ」を育てる教育を行わないと、40年後ぐらいにこの国は大丈夫だろうかと危惧いたします。

もっとも、こんなことを書いている前に子供はおろか、嫁もいない状態をなんとかしないと…。年とともに「かごの中」に入るのが面倒になる一方で困ったものです。

Posted by: Hache | November 09, 2006 at 02:38 AM

Ku殿
だから、「ヴィルトゥ」を追い求めるという徳目は、万国共通だと思います。人類普遍の真理をいうのであれば、これも真理なのですよ。
Hache殿
育てるべきは、「知的な野蛮人」です。
これは大学生になってからでは遅い。
拙者は、そうした「知的な野蛮人」を育てるための経済的な裏づけも環境も用意できると思いますが、生憎、これは「一人ではできない」作業なのですな。困ったものです。

Posted by: 雪斎 | November 09, 2006 at 05:22 AM

横で済みません。Hacheさま、「かごの中」に入るには
「かご」しか選択肢がないとか、世間の目が煩わしいとか、
それと戦うのも面倒だとか…という「縛り」「諦め」がなければ、昔もなかなか入る気になれなかったでしょうね。
そうやって、強制的に昔はどんな人間でも適齢期で「大人」にしてしまったわけです。
当方は、一度出たにも拘らず、来年また、自分から籠に入ろうとする「懲りない鳥」であります。

どうやらやはり、戦後教育は、トラブルを抱えたとき
終始受身に徹する姿勢しか出来ない人間を大量生産したような気がします。
「学校のせい、先生のせい、親のせい、社会のせい」で「自分は、悪くない。」
「自分を鍛えて何かを変えていく」ことは子どもに強要できないのだ、という思い込みが、広く強く、人々を支配している気がしています。

…ところで雪斎先生、昨日、都内某大横町商店街文具店にて
お買い物中、傍で「!!」「うっそ~っ」という驚きで凍りつき、先生を無礼にも見つめ続けていた不審者は、私であります。
あんな、クラシカルと言うか渋い昔ながらの文具店で
お目にかかれるとは…普段、しょうもないことばかりコメ欄に書くから、いざと言うとき堂々名乗れないのだ…とうなだれております。

Posted by: るびい | November 09, 2006 at 06:27 AM

TBありがとうございました。

小泉さんのような、強くやさしい男が増えてくれればいいなあと思います。「夢みのりがたく、悲しみを胸に秘めて、敵あまたなりとも、我勇みて行かん。」こう語る小泉さんの姿をみて、いろいろな戦いのシーンがよみがえり、涙が出そうでした!

Posted by: さくら | November 09, 2006 at 11:01 AM

>雪斎先生

大学生になってからでは遅いというのは、感じ入りました。
「知的野蛮人」の「血統」が本当に絶えたら、
この国の行く末が怖いです。
いかれた「外道」になにができるのかは、
自分でもわかりませんが、とりあえず周囲だけは
そういう雰囲気にしようとしている最中です。

>るびい様

含蓄のあるお言葉を賜り、恐縮です。
もう「諦念」の境地に至る自信はあるのですが、
同じ「信念」を共有してくれそうな相手がいないという
根源的な問題が…。
大きなチャンスを二度も逃すと、三度目は難しいです。


Posted by: Hache | November 09, 2006 at 11:53 PM

さくら殿
御苦労様でした。あのエントリーの評判は、大したものです。
るびい殿
驚、驚、驚…。意外に近いところで遭遇してしまったようですね。
こちらこそ気付かずに失礼しました。
hache殿
「非道」と「外道」のどちらを辿れば、「天国」に早く行けるか。
これはきわめて哲学的な課題です。
我が占星術によれば、拙者の妻は「歳の離れた女性」になるとか・…。判らないのだよな、これが…。

Posted by: 雪斎 | November 10, 2006 at 05:17 AM

>雪斎先生

もし、お相手が10代ならば、ためらいつつも、祝福させて頂きます。

もし、お相手が20代ならば、心より祝福いたします。

もし、お相手が塩野さんならば、心より嫉妬いたします。

Posted by: Hache | November 11, 2006 at 01:03 AM

Hache殿
最後の「「落ち」は、お見事です。

Posted by: 雪斎 | November 13, 2006 at 07:33 AM

>Hacheさん
>同じ「信念」を共有してくれそうな相手がいないという
根源的な問題が…。

そのようなお悩みなら「天才柳沢教授の生活」というマンガを読むことをお勧めします。柳沢教授の夫婦関係を見れば、共有できない相手もまた良しと思えるようになるかもしれません。(笑)

Posted by: Baatarism | November 13, 2006 at 11:00 AM

baatarism殿
バレリーナと結婚したジョン・メイナード・ケインズ卿の事例からすると、自分の与り知らぬものを持っている相手のほうが、面白いのでは…。自分のやることを「尊敬」してくれればいいと思います。

Posted by: 雪斎 | November 13, 2006 at 11:24 AM

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