君よ、「力」を追い求めよ。「自由」であるために。
■ 世は、「いじめによる自殺」の連鎖が始まっているようである。連日、こういう報道が為されると、段々と「馴れ」が生じてくる。永田町での動きも、思いのほか、複雑である。
□ 教育基本法改正案、会期内成立微妙に
自民、公明両党は13日夜、国会対策委員長らが会談し、今国会最大の焦点の教育基本法改正案について、15日にも衆院教育基本法特別委員会で採決し、今週中に衆院本会議を通過させる方針で一致した。
野党が採決に応じない場合は、与党だけでも採決に踏み切る構えだ。国会が混乱するのは必至で参院でも野党の厳しい抵抗が予想されるため、同法案が会期内(12月15日まで)に成立するかどうかは微妙な情勢となった。
与党内では、同法案を成立させるため、会期延長を検討すべきだとの声も出ている。
与党は、15日の委員会採決に続き、16日の衆院本会議での採決を目指している。自民党の二階俊博国会対策委員長は13日午後、国会内で民主党の高木義明国会対策委員長と会談し、「そろそろ努力の限界が近づいた。(同法案採決の)出口も考えていかなければならない」と述べ、野党側に早期採決に応じるよう求めた。高木氏は「『いじめ』など問題が山積している。なお十分な審議が必要だ」と拒否した。
以下、略
教育基本法改正の議論は、かんべえ殿の表現を借りれば、「祝詞」の議論である。国会周辺では連日、左派系と思しき教員団体の人々が、座り込みで法案反対の運動をやっている。「そんな暇があるなら、子供の話を聞いてやればいいのに…」と雪斎は思う。片や、法案改正に動いている層も、どうも浮世離れした議論に走っているような気がする。
かくして、「左」も「右」も観念的な議論に精を出す。こういう観念的な「祝詞」の議論などは、眼の前の問題への対処には、まるで役に立たない、
「孟母三遷」という言葉がある。「孟子の母親が子供の教育に適した環境を選んで居所を三度引っ越した」という「古列女伝-母儀・鄒孟軻母」中の故事に因んでいる。「今でいう母子家庭であった孟子母子は、初め墓所の近くに住んでいたところ、孟子が葬式の真似をして遊ぶので市中に引っ越した。今度は商売の真似をするので学校の近くに引っ越した。すると礼儀作法を真似たのでそこに居を定めた」とある。
とりあえずの施策を考える意味でいえば、特に中学生くらいの子供には、学校を替える機会が機動的に提供されてもいいのであろう。いじめられている子供にとって、その状況が「教育にふさわしからざるものならば、環境を替えるぐらいのことは適宜、認められるべきであろう。
もっとも、こういう「環境を替える」という対応は、緊急避難的なものでしかない。
この数日、映画『ブレイブ・ハート』を観た。メル・ギブソン演じるヘンリー・ウォレスの最後の咆哮は、「自由よ」(freedom !)である。そして、そして、デンゼル・ワシントン主演映画『ザ・ハリケーン』を観た。人種偏見の故に無実の罪を着せられたボクサーが、二十年の獄中生活の後に無罪判決を受けるという実話に基づいた作品である。
「いじめ」を初めとして理不尽な圧迫と呼ばれるものは、古今東西、幾らでもある。ウォレスが闘ったのは、家族や恋人を殺したイングランドの理不尽な圧迫であった。そして、カーターが闘ったのは、アフリカ系市民への人種差別である。
だから、「いじめ」に相対するにも、本来ならば、家庭の場で「理不尽な圧迫」には断固、闘わなければならないことを教えるべきなのであろう。振り返れば、古代ギリシャ世界最大の戦役であったペルシャ戦争の折にも、テミストクレスがギリシャ市民に飛ばした檄は、「汝、汝の自由を守れ」であった。自らの「自由」を守るためには、「力」の裏付けが必要である。理不尽な圧迫には屈しないという「力」の裏付け必要なのである。逆にいえば、「力」は、自分の「自由」を守るために使うものであって、他人の「自由」を圧迫するために使うものではない。そうしたことをきちんと教えるべきである。
君よ、「力」を追い求めよ。君が「自由」であるために…。
雪斎が教育に関して何かを語るとすれば、結局は、この一言に集約される。
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Comments
無視を続ける、メールを使って嫌がらせするというハラスメント系から、街金まがい、ヤクザまがいの恐喝・暴力系まで、多岐にわたる「いじめ」を「いじめ」と括って、なんとか学校で対応しようとするから混乱するんだと思います。
ガキどもは、基本的には、親と先生と言う大人しか知りません。
自分を導き諭す立場の大人しか知らないから、顔色、手加減の具合を見つつ「いじめ」にせいを出すんでしょう。
そして学校は、手に余る問題を抱えても、何とか「指導」で乗り切ろうとして、失敗するのです。
雪斎先生の仰るように、各家庭で、立ち向かい方を教えていくしかありません。
いじめに十把一絡げに効く処方箋なぞというものは、存在しないと思います。
そして学校側としては、警察でにも、社会病理の専門家、医師にでも、病巣を見つけたら早めに専門家に指示を仰いで対処するしかないのではないかと、そう思います。
Posted by: るびい | November 15, 2006 at 06:52 AM
「地上の賎民ゆえに神の選民となる論理」という言葉を昔きいた憶えがありますが、そういう論理が働くなら、不当な迫害も一つの契機として恐れることはないのでしょう。
問題は今の日本の子供たちというか、日本人の作る社会に、そういう論理が発動する余地があるのか、ということにとても疑問を感じます。
Posted by: KU | November 15, 2006 at 07:13 AM
結局いじめに対抗するには本人が何らかの「力」を持っていないといけないんでしょうね。(他人の「力」をうまく利用する能力も含めて)
また、ただ耐えるだけでも自信のよりどころとなる「力」が必要となるように思います。(こっちは学力や専門能力、容姿、良い性格のような、直接対抗手段にならない「力」でなくても良いですが)
Life is beautifulさんがいじめの体験談を色々集めてますが、なかなか読み応えがありますよ。この企画自体に対する批判もありますが、それも含めて一読の価値ありでしょう。
http://satoshi.blogs.com/life/2006/11/post_4.html
Posted by: Baatarism | November 15, 2006 at 10:05 AM
こんにちは。雪斎さんのバランスのとれた考え方は比較的に賛同できるところが多いのですが、
教育基本法案については、小選挙区制の結果、投票割合とかけ離れた議席を獲得している巨大与党が、
教育の現場に目を向けないで、国民管理という政治的な目的から、変更しようとしているものに対して、
やらせの結果、賛成という雰囲気がマスコミ上でもつくりあげられてきてますが、反対している者もいるんだ、
という意思表示を行なうことは、現場の子供たちの声を聞くことと同じ程度に重要だと思います。
Posted by: inakamono | November 15, 2006 at 12:00 PM
ご無沙汰しております。「祝詞」の話はようやく一段落しました。具体的な解決策の話は来年以降だと思いますが、連日国会見学に訪れる子供たちを見ていると、こういう子供たちが自殺をしている現実に言葉を失います。何とかしなくちゃいけないと思います。
デンゼル主演の『ザ・ハリケーン』は私が今まで見た映画で一番泣いた映画です。私は主役のハリケーンが「一人じゃない」と気づいて、戦いを始めるところが最も泣けたのですが、いじめ問題を考えると、いじめを止める勇気を多くの子供たちが持つこともとても大切と考えます。
「強い者は優しくなければならない」と、「力」を持つ者が気づかないといけないと思いますし、勇気を持てばそれが「力」になるということを、子供たちに気づいてもらいたいです。
Posted by: 副会長 | November 15, 2006 at 10:57 PM
雪斎さん
おはようございます。
家庭の場で、最も求められるのは、力(私は、思いやりや、愛することも含むと解釈してますが)、これは、アプリオリなものより、アポステオリ、つまり、経験によって習得される技術だと思っています。
かつて、孔子は、弟子に聞かれて、徳に対しては、得で報いなければいけない。不徳に対して、厳しく対処しなければいけない。
不徳に対して、徳でもって、報いたら、徳に対して何で報いるのかと聞き返した一節があります。
こんな一節を思い出した次第でありますが、仮にいじめが不徳だとして、そのために、家庭、学校、社会は、予防・処置・新たな枠組みなど、各々のレベルで、取り組んできたのかと思わされます。自己の責任逃れの対処では、現状は、変わりませんね。
Posted by: forrestal | November 16, 2006 at 06:57 AM
るびい殿
異論なし。
KU殿
それは、日本では、どうもピーンと来ないような気はします。ちゃんとした宗教教育が出来れば、別でしょうけれども…。
Inakamono殿
はじめまして。
教育基本法は「祝詞」ですから、これ自体を云々しても余り意味がないような気がします。
副会長殿
結局、「力」の現実を見ようとしないのですな。
「力なき正義は無価値、正義なき力は暴力」。
どこかの映画に、こういう言葉がありませんでしたか。
forestal殿
もう少し、「いじめ」に関する語り方を考えるべきでしょう。
「いじめ」には、適切な英語訳がない。だから、結局、色々な話を容れて収拾が付かなくなっているような気がします。
「いじめは、『教育を受ける権利』の侵害である」。
こういう定義を与えるだけでも、やり方の方向が見えてくると思います。
Posted by: 雪斎 | November 16, 2006 at 02:47 PM
イジメその他の恐怖から逃れようと安直に自殺してしまうのだろうか? もっと生き抜く力を持って欲しいものです。
ところで、自殺報道が新たな自殺を呼び起こすじゃないだろうかと危惧していたら案の定次から次へと校長までも。
そしたらこんな記事があった。
これでいいのか! テレビの自殺報道規定
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/news/story/20061116jcast200623851/
ここから引用する。
WHOは自殺報道について次の原則を挙げている。
●写真や遺書を公表しない
●自殺の方法について詳細に報道しない
●原因を単純化して報じない
●自殺を美化したりセンセーショナルに報じない
●宗教的・文化的な固定観念を用いない
●自殺を責めない
「○ズバッ!」とか各ワイドショーなどが毎日大げさに報道しているのを批判している。
マスコミという種族は報道の社会に対する影響力を考慮することなくただただ視聴率稼ぎに邁進してるのではないか。居丈高に誰かを責める資格などはやつらには無い!
Posted by: 笛吹働爺 | November 16, 2006 at 10:30 PM
いじめは、祝詞をいじってもやまないでしょう。
いじめを止めるには、いじめを止める具体策を教師が教えなければなりません。
自分も中学に転校して陰湿ないじめに合いました。しかしいじめを克服しました。どうやったか?簡単です。いじめをする馬鹿な奴をぶん殴ったんです。
白昼堂々と、そういう奴をみんなの前で露骨な暴力で制したんです。殴り合いの喧嘩で。けっこう楽しかったですね、いままで偉そうなでいじめてた奴が鼻血を出しながら泣いてるのを見るのは。
気がついたら簡単なものでした。
力でいじめを制したんです。
ですから、いじめに対するには、力しかないとわかってます。
それを教師は教えなければなりません。
具体的に空手道場へ行け、とか、ボクシンブジムで鍛えろ!とかね。
おもしろいことに、自転車を盗まれた軟弱少年カシアス・クレイはボクシングでたくましく成長し、世界チャンピオン・モハメッド・アリになりました。
でも、学校秀才のことなかれ官僚的教師にはこういうのは無理でしょうなあ。
Posted by: こぺてん | November 17, 2006 at 06:11 AM
>それは、日本では、どうもピーンと来ないような気はします。
ヴィルトゥな、浩然の気というものは、その論理が発動している、ということだと思います。
社会という目の前の猿山の秩序とは、別の秩序と美を自分の中にもち保つ、「力」とはそのことだと私は理解しています。
だから、猿山の渡り方なんか教えることは教育でもなんでもないし、「いらんこと」だと思います。強者に擦り寄り身を守ることや紫袖に隠れることを恥ずべきことと信じて育った子供時代をすごした無邪気さが国民になければ、共和政体なんて保てないでしょうし。
Posted by: KU | November 17, 2006 at 07:18 AM