「ニューイングランドの価値観」を考える
この土曜夜から日曜未明に掛けて、ジョージ・F・ケナンの最後の著作『アメリカの家族』を読んでいた。十八世紀初頭、英領殖民地時代の米国に渡ってきたジェームズ・マッケナン(本来はケナンだがスコットランド出自を強調するために、初代ジェームズはこの名前を使っていたとある。ケナンの出自がアイルランド系であるとする論考もあるけれども誤りである)を祖とする「アメリカ人としてのケナン家三代」の足跡を辿った書である。米ソ関係史研究や外交評論の世界で名を残したケナンの最後の著作が、「自分は、米国市民としてどこから来たのか」を確認するものであったのは、米国における「歴史」の意味を暗示していて興味深い。
この書を読んでいて強く伝わって来るのは、「ニューイングランド的価値観」と呼ばれるものへのケナンの想いの深さである。「ニューイングランド的価値観」とは、要するに、米国が英領植民地だった頃から営々と受け継がれていたものである。それは、気候上は厳しく肥沃な土地もないというニューイングランドの環境の中で育まれた独立独歩、質素、勤勉、誠実といったピューリタンの徳目であるといえる。そして、それは、米国の「独立革命」を成就させた精神の基盤となったものである。
因みに、ケナンは中西部ウィスコンシン州出身である。ロータリー・クラブの創始者だったポール・スミスもまた、ウィスコンシン出身の弁護士であったけれども、ロータリー運動を始める時に最も強い影響を与えたのは、幼少時にニューイングランド出身の祖母から教え込まれた「徳目」であった。ロータリー・クラブ運動自体が実践しているのも、「ニューイングランド的価値観」に基づいた活動なのである。ニューイングランド出身者は、特に十九世紀前半までは開拓によって全米各地に散っていった。ケナンの場合、祖父トーマス・ラソップ・ケナンの代に至って南北戦争の時期にウィスコンシンに移った。トーマスは、南北戦争に従軍し、ウィスコンシンに最も早い時期の入植者として移り、弁護士として生涯を送った。トーマスの息子は、父親と同じ弁護士となり、孫は外交官となった。
この「ニューイングランド的価値観」は十九世紀半ばには、揺らぎ始めていた。特に十九世紀半ば以降、特にニューヨークのような大都会は、アイルランド、イタリア、東欧から新たに移住してきた人々が身を寄せる空間になった。。こうした人々は、そもそも、ニューイングランド的を共有していないから、「われわれの非ニューイングランド価値観にもリベラル(寛容)であってくれ」という話が出てくる。二十世紀には、その「寛容」が政府に依って実現されるものだと思えば、政府の「役割」の拡大を期待する議論に結び付いたのである。加えて、十九世紀半ば以降の産業発展は、米国社会に膨大な「富」をもたらしたのである。米国の「富」は、確かに社会の変質を来たさざるを得なかった。
もっとも、「ニューイングランド的価値観」は、米国の社会の中では、揺らぎながらも受け継がれていた。ケナンは「ニューイングランド的価値観」を「文明」と呼んだ。マーガレット・ミッチェルの小説『風とともに去りぬ』の中で、「風とともに去っていった」のが、奴隷制度に支えられた農場経営に依る貴族主義的生活様式であり、それも「文明」と呼ばれることを考えあわせれば、このケナンにおける「文明」としての「ニューイングランド的価値観」認識は、かなり重要な気がする。「ニューイングランド的価値観」は、ニューイングランドからニューイングランド出身者の手で全米に広げられていいった、今日、中西部が保守層の牙城であるのは、その故である。
こうして考えると、「ニューイングランド的価値観」の意味を理解するのは、米国理解を進める上での核であると思われる。ケナンは、イラク戦争には反対して、ドナルド・ラムズフェドのような「ネオコン」を嫌ったから日本では「リベラル派」といわれているけれども、「ニューイングランド的価値観」を大事にしようと姿勢において、完全な「保守主義者」である。実際、ケナンに関しては、米国の研究は、エドマンド・バークを髣髴させる「保守主義」の色調を指摘しているのである。振り返れば、たとえば札幌農学校でウィリアム・S・クラークの影響を受けた新渡戸稲造や内村鑑三、同志社の創設者である新島襄は、「ニューイングランド的価値観」の理解者であったといえるかもしれない。日本と米国における「自由と民主主義」の価値観の共有を語るのも大事であるけれども、この日本における「ニューイングランド的価値観」の理解、さらには「武士道と」「ニューイングランド的価値観」の相似性の意味を考えるのは、より大事である。
上に掲げた写真は、左がニューイングランド、ヴァーモント州のバターナット山麓、右がメイン州ボクスター川州立公園の秋の風景である。世界で最も綺麗な紅葉が観られるのは、ニューイングランドと日本であるという話を聞いたことがある。雪斎は、まだニューイングランドの紅葉の風景を直に観たことがない。しかし、こうした風景には、本当に心が惹かれる、寒冷の地こそ、紅葉の風景は眼に映える。一、二ヵ月後には、「白の風景」が待っていると思えば、尚更である。
秋の夕日に照る山紅葉
濃いも薄いも數ある中に
松をいろどる楓や蔦は
山のふもとの裾模樣
溪の流に散り浮く紅葉
波にゆられて離れて寄つて
赤や黄色の色さまざまに
水の上にも織る錦
山本五十六の言葉を借りれば、これもまた、「故国の美を凌ぐに足るもの有之候。大和魂また我国の一手独専にあらざるを諷するに似たり」 の風景であろう。下の写真は、左が青森・奥入瀬渓流、右が北海道大学の秋の風景である。どちらも、雪斎にとっては、「人生の風景」である。
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Comments
4枚目の画像、懐かしいです。
後期の土曜日1限目(保険法と海商法が隔年交互開講だったはず)に軍艦講堂の3番教室の窓から(今は一部改築でなくなってしまっているそうです)理学部脇の農学部ローンを眺めるとこれに似た風景が臨めた記憶があります。
朝のひんやりとした空気と木の葉の色づき方がうまく調和していて大好きな雰囲気でした。土曜の1限目だというのに早起きして毎回出席していたのはこの雰囲気のなかに浸りたかったのも動機の一つでした。
懐かしい画像をどうもありがとうございました。
Posted by: 太平燕 | November 13, 2006 at 12:11 AM
太平燕殿
おおっ。同窓の型ですか。
そうです。その雰囲気です。
日本で学者をやるなら、北大の環境は、いうことないなと思います。
Posted by: 雪斎 | November 13, 2006 at 08:23 AM