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October 02, 2006

折々の言の葉13 長谷川如是閑

■ 『長谷川如是閑評論集』(岩波文庫)を読む。誠に印象的な記述が続く。抜き出してみる。
 「国家は人民をして、国家自体の偏見に盲目的に服従せしむる策を取るよりも、自由に独立の批判を国家に加えることの出来るような人民を有つことが自家の安全のために必要なことなのである。合理的の批判によって国家組織の進化を促すことは、不合理な理想によって国家組織を硬化せしめるよりも、国家を強固にし、安全にする途であって、そうすることが遙か愛国的なのである」。
          ―「国家の進化と愛国的精神」―
 「そこで私が『明治にかえれ』というと、何でもいいから、『アングロ・サクソン系に還れ』というのと同じことになる。…イデオロギーに立った大正・昭和人の、観念的に排他的なのとは違って、そのように実践的に包容的なのが、アングロ・サクソン流なのである。…『明治に還れ』を思想の面からいうと、『哲学』否定のアングロ・サクソン哲学にかえれということになるが、それは明治どころではない、祖先以来の実践的ポジティヴィズムに返るということで、つまり本来の自分に返るのだから、ちっともむずかしいことではない」。
          ―「明治を思う」―

 雪斎は、安倍晋三内閣発足に際して、「イデオロギー・フリー」の統治を説いた。昨日、届けられた雑誌『諸君』には、「安倍内閣は保守の精神を忘れれば、短命に終わる」という見出しがあるけれども、実際には、「安倍内閣は保守の精神に拘り、それに囚われれば、短命に終わる」と考えるべきであろう。
 長谷川如是閑が書いたように、日本人の特質は、「イデオロギー・フリー」なのである。だからこそ、日本人は、明治期には文明開化の流れに順応できた。現在でも、安倍晋三内閣の出発に際して七〇パーセントに迫る支持率を与えた日本人の大勢が期待しているのは、小泉内閣下の「経済復調」の流れを逆転させないことである。その作業には、余計なイデオロギーなど入り込む隙はない。そこには、淡々とした作業があるのみである。
 大正期以降jに、観念的、排他的精神が入り込んだのは多分に「学歴貴族」がドイツ的観念主義の精神を受容したからであろう。考えてみれば、マルクス主義も、そうした観念主義の派生形なのである。
 雪斎は、アングロ・サクソン系の「イデオロギー・フリー」の哲学が日本の伝統にも合致するという長谷川如是閑の記述を前にするとき、かなり意を強くさせられる。日本では、保守、革新云々という観念主義論争をやらないのが、「伝統」なのである。だから、イデオロギー・フリーの統治を説いても、それは、日本の「伝統」に沿った統治を説くのと同じ意味合いを持つものでしかない。雪斎は、保守論壇方面から明白に叩かれるようになっているけれども、彼らが「観念的、排他的」である限り、何ら痛痒を感じない。ましてや、革新系論壇に至ってはである。実践的、包容的な姿勢で言論に臨もうとする限りは、雪斎は、日本の「伝統」に連なると自称することが出来るわけである。
 長谷川如是閑は、東京・深川の出身で、江戸以来の「職人」の世界に共感を寄せていた人物である。なるほど、「職人」の世界ならば、「いいモノ」を造ったかどうかが総ての価値基準である。「頭でっかちの理屈をこね回す」ことに大した意味などあろうはずもない。安倍総理の執政も、そうした「職人」の営みとしての統治が行われれば。それでいい。
 そして、長谷川如是閑は、「個人の自由」と「国家の権威」が無理なく共存できると信じたオールド・リベラリストの典型であった。オールド・リベラリストは、「国家の権威」が「個人の自由」を侵す事態には抵抗したけれども、「国家の権威」それ自体を貶めることはしなかった。「不合理な理想によって国家組織を硬化せしめる」とは、戦前期の国家主義と共産主義の害の暗喩であろう。長谷川如是閑、吉野作造、石橋湛山、清沢洌…。こうしたオールド・リベラリストは、雪斎が倣おうとしている知識人の群像である。

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Comments

> 大正期以降に、観念的、排他的精神が入り込んだのは多分に「学歴貴族」がドイツ的観念主義の精神を受容したからであろう。

「うむうむ」と首肯した後で「ちょっと待てよ」と考えさせる含蓄の深い文章だと思いました。
カントに始まるドイツ思想は、先進地域からもたらされた合理論と経験論に対する真摯な知的闘から生まれた思想であり、マルクスは、イギリスという先進地域の経済・社会構造を解明しようとしました。どちらも観念的・排他的では成立し得なかったはずなのですが・・・
キャッチアップから始まった謙虚で柔軟な思想が、いつの間にか権威で他を抑圧する硬直した体系に成り果てるのは、世の習いなのかもしれません。アリストテレスも、トマスも、デカルトも、ニュートンも・・・狐にとっては虎が強ければ強いほど都合が良いのですから。
読み解く鍵は、その思想に触れた時代背景を考えるということなのかも・・・それもまた、“歴史主義”という陥穽に嵌っていることになるのかもしれませんが・・・

Posted by: 木星人 | October 02, 2006 at 11:48 AM

雪斎さま
いつも明晰ながら、とくに今日の文章は、私のような政治の素人にも、とりわけすっきり理解できるように思います。たしかに、幕末・明治の指導者たちは、純粋や理念という理想より、現実的・プラグマティックな有益性を重視したように思えます。

Posted by: 珈琲 | October 02, 2006 at 03:32 PM

雪斎さん、こんばんは

院生時代、友人(日本近代政治思想専攻)が長谷川如是閑の研究をしてました。

私も大変、好きな思想家です。特に、北岡氏の研究もありますが、清沢洌の『暗黒日記』なんて感慨深いものがあります。

総じて、オールド・リベラリストには、先見の明があったような印象です。私自身、保守でもリベラルでもどちらでもいいのですが、そのような地位にありませんし、ただ、自分では、リベラルだと思っているのですが、学生時代の他者評価は、保守でしたww

ただ、そのような2分化が、生産的かつ建設的な議論を行ってくれることを願っております。
 

Posted by: あいけんべりー | October 06, 2006 at 10:34 PM

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