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October 30, 2006

「政治家」と「予言者」

■ ヘンリー・A・キッシンジャーは、処女著作『復興された世界』の中で、「政治家」(statesman)と「予言者」(prophet)という二つの類型を示した。
 キッシンジャーによれば、「政治家」は、「現実を創り出す」ことに関心を向ける「予言者」とは対照的に、「現実を操作する」ことを職分とする。
 「予言者」は、自らのヴィジョンを最も重視する故に「何ができるか」よりも「何をすべきか」を問う。それ故に、「予言者」は、「政治家よりも人間に対して不寛容になる」のである。
 それに対して、「政治家」は、善意や希望が挫折する可能性を常に念頭に置き、最悪事態に備えようとする。「政治家」にとって、第一の大義は、「生き延びる」ということなのである。
 キッシンジャーは、「政治家」の事例としてクレメンス・メッテルニヒやロバート・スチュアート・カッスルリーを挙げ、「予言者」の事例としてナポレオンやアレクサンドル1世を挙げている。そして、キッシンジャーは、「政治家」の衣鉢を継いだオットー・フォン・ヒスマルクやシャルル・ド・ゴールに対する共感を隠さなかったのである。
 今、論壇の世界では、色々な議論があるけれども、その根本的な対立構図は、「右」と「左」でもなければ「保守」と「革新」でもなく、「政治家」と「予言者」の対立構図なのであろうと思う。昔は、「左」の「予言者」が幅を利かせていたけれども、今では、「右」の「予言者」が多くなっている。「政治家」は、左右の「予言者」に挟撃されながら、必死に「最悪事態」に備えているのである。
 こういう議論は、国際政治畑の学者の中では「常識」だと思うけれども、中々、世間一般には認知されない。政治学者の仕事は、山積している。

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Comments

私みたいな柄の悪い人間からすると、素人目にも「なに」が問題かはわかるので、「どのように」に目がゆきます。露骨に言ってしまうと、政治家の行動を評価するときには、ほとんど巧拙でしか見ておりません。「なに」をですら、軽重判断がほとんどで、こちらは「まとも」かどうかでしかないと思います。問題は、先生のおっしゃるとおり、常識が大切ですが、これが容易ではない。常識を涵養してゆくには、時間と同時にそれを積み重ねてゆく意識的な努力が不可欠だと思います。先生には、「当たり前のこと」を臆面もなく、これからも書いていただきたいと思います。

Posted by: Hache | October 30, 2006 at 12:35 AM

prophetの和訳は『予言者』より『預言者』とした方が”わかっている”感じが出ます。為念。

用例:
O Jerusalem, Jerusalem, thou that killest the prophets.
嗚呼イェルサレム、預言者等を殺したる者よ。

Posted by: 通りすがり | October 30, 2006 at 06:25 AM

雪斎さん
同様な常識は、企業で経済活動をしている者にもあります。企業経営も、生き延びることが目的であり、「あるべき」論は参考にはなっても実行指針になるとはかぎりません。メディアで「べき論」が蔓延しても、結果的に国民の選択がほぼ妥当な線に落ち着いている要因だと思います。ただ、企業活動も政治も、生き延びるために、常識から多少距離のあるイノベーションが必要な場合があり、そこをいかに妥当に乗り切るか、それがポイントなのでしょう。

Posted by: 珈琲 | October 30, 2006 at 09:35 AM

HACHE殿
政治学は、「高度な常識」を説く学問ですからね。、
・通りすがり殿
 このキッシンジャーの議論を日本に紹介した永井陽之助教授の論文では、「預言者」ではなく「予言者」と記されているのですな。永井教授の論文に依拠すると、「預言者とは書きにくい。ということで。キッシンジャーの原典を読むと、貴殿の指摘のほうがただしといは思います。
 珈琲殿
 政治の世界もビジネスも、「国益」、「利潤」追求では同じ活動ですからね、

Posted by: 雪斎 | October 30, 2006 at 12:11 PM

いつも記事を拝見し,感銘を受けると共にほっとするような気持ちを味わっています。
高度な常識というのは,なるほどと思います。
多くの国民の感性としても,政治に対しては「常識」を求めるということがあるように思います。

Posted by: 西田瓜太郎 | October 31, 2006 at 12:22 AM

はじめまして。

「予言」と「預言」についてです。
「預言」に「言葉を預かる」という意味が付されたのはこの数十年のことと新しく、しかも日本独自のことのようです。
預言はProphecyの漢訳語ですが、これはそもそも「あらかじめ言うこと」の意味であり、そして中国語の「預」はまさに「あらかじめ」の意味。そして「予」の字は預の略字に過ぎません。「預」に「物品をあずかる」という意味を付したのは日本でのことです。
なので、「預言」も「予言」ももとは同じ意味だったのが、戦後のある時期からなぜか日本語の預かるの意味が入り込んでしまったとのことです。

なので、預言者であっても意味するところは予言者と全く同じということなのですが、むしろその方が今の世の中では通じないのでしょう。

この辺の詳しいことは高島俊男著『お言葉ですが』第11巻に出ていました。

Posted by: マグナカルタ | January 26, 2007 at 11:15 PM

マグナカルタ殿
貴重なご教示、ありがとうございました。

Posted by: 雪斎 | January 31, 2007 at 08:08 AM

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