« 雑感061019 | Main | 「セーラー服と機関銃」を観てしまった…。 »

October 20, 2006

シャルル・ド・ゴールへの想い

■ 昨日、フランス大使館を訪問する。
  麻布界隈の坂道がやたらにあるところを通って、辿り着く。
  雪斎に何の用かと思えば、「ふーん、そういうことなのね」で納得する。
  出迎えてくれた一等書記官R・P氏と、シャルル・ド・ゴールの政治指導をネタに話をする。
  雪斎は、熱烈な「ド・ゴール憧憬の徒」である。
  ド・ゴールは、日本では、「フランス民族主義者」の権化と見られているけれども、実際には柔軟な現実主義者であった。ド・ゴールは、キューバ危機の折には米国を決然と支持したし、ジョン・F・ケネディにはヴェトナム介入の愚を説いた。ド・ゴールは、自分に期待を掛けた「右派勢力」を裏切るようにして、アルジェリア独立承認に乗り出した。だから、ド・ゴールは、「右派勢力」からは命を狙われ続けた。引退後は、山村にこもり、陸軍准将としてのささやかかな年金だけで余生を過ごした。僅かに残っていた個人資産も、障害者として生まれ夭折した愛娘を記念した財団の運営に充てた。「右派」や「民族主義者」が必ずしも「愛国者」と一致するわけではない。ド・ゴールの生涯に接して、雪斎はそうしたことを思う。
 

 加えて、ド・ゴールの足跡に寄り添った知識人にレーモン・アロンがいる。
  アロンを師として仰いだ人物にスタンリー・ホフマン(政治学者・ハーヴァード大学教授)がいて、『政治の芸術家 ド・ゴール』という書を著している。永井陽之助先生がホフマンを師として仰ぎ、高坂正堯先生は、アロンの最後の著書『世紀末の国際関係』に解説を寄せていたはずである。雪斎が最近、折に触れて言及する「タカ」、「ハト」、「フクロウ」の概念もまた、ジョセフ・S・ナイがホフマンのフランス的知性から影響を受けた所産ではなかったかと想像する。ドイツの分断状況をめぐるアロンとジョージ・F・ケナンの「論争」も有名であった。だから、アロン、ホフマン、ナイ、ケナン、永井陽之助、高坂正堯といった知識人は、円環のようにつながっている。雪斎も、その円環の中に入りたいと思ってきた。
  因みに、雪斎が「第一回正論新風賞」を受けた折に、次のような「受賞の辞」を書いた。
 

「多くの読者が新聞に期待しているのは、情報と同時にある種の安心感、自分の判断の確認である」。フランスの代表的知識人の一人であり、主に保守系新聞『ル・フィガロ』を舞台に論陣を張ったレイモン・アロンは『回想録』の中で、このように書いている。
 この度、私は「第一回・正論新風賞」を頂くことに相成った。この五年近くの私の言論活動を評価して頂いたことは、誠に光栄なことである。ただし、私はいわゆる名論卓説を披露しようという意図で筆を執ったことはない。アロンに倣えば、言論家の役割とは、読む人々に「安心感と判断の確認」を提供することでしかない。「様々な物事を前にして、自分はどのような立場に立つのか」。多くの人々に対して、このようなことについての意見の輪郭を自分の中で確かに持つようにするための「縁」を提供するのが、言論家としての「領分」である。
 新聞を舞台にして論陣を張ることは、難しい。それには、一瞬の気合を以て行う居合に似た趣があるからである。そして、その居合の対象となるのは、常に複雑な人間の「現実」である。他に驕(おご)らず、自ら弛(たゆ)まず、そして世に阿(おもね)らず、私は、その居合を続けていくつもりである。

 雪斎にあってはド・ゴールやレーモン・アロンへの想いは深い。そうしたことを確認させるフランス大使館訪問であった。

|

« 雑感061019 | Main | 「セーラー服と機関銃」を観てしまった…。 »

学者生活」カテゴリの記事

Comments

雪斎どの
この時期にフランス大使館へというと、日本の核武装に関する話かと思いますが。実際は?(聞くだけ野暮ですね)
ドゴールが本当に偉かったことの証明は、周りに単にフランスだけでなく世界に通用する知識人が集まったことですね。レイモン・アロンが政治世界の参謀なら、アンドレ・マルローは文化世界の代表、そうそうガロアという天才戦略家もいましたね。ガロアはフランスの核武装の理論付けをやりましたですね。ドゴールがいざとなったらアメリカと共に行動するという覚悟を本心から持っていたからこそ、最終的にアメリカもフランスの核保有を認めた。その後も、英仏の核は米国の脅威にはなってない、むしろそれは補完関係にある。ひるがえって日本の場合は?これは微妙な問題でしょうか?日本の核武装論議で欠けているのは、日米同盟の片務性がこれでいいのかということだと思います。日本の核武装論議もけっこうです。しかし、真の同盟関係とは何か。この議論を早急にやってほしいですね。ドゴールのことでこんなことを感じました。勿論、私もドゴールの大フアンです。

Posted by: M.N.生 | October 20, 2006 09:41 AM

M・N生殿
 日本の核武装論議というのは、「それを持てば一人前になれる」という幼稚さが漂っているのですな。
 貴殿の仰せのにように、「核」を考えるためには、それを持つに足る政治指導、軍事戦略、「核」の露骨さを中和するための文化広報戦略の三つが備わる必要があります。「ド・ゴール」、「アロン」、「ガロワ」、「マルロー」が揃わない限り、日本の「核武装」というのも、リアリスティックな選択肢とはいえない。
 たんなる「核」の技術以上に、これだけの条件がある。そのことをどこまで判っているかが問題です。

Posted by: 雪斎 | October 20, 2006 10:39 AM

日米同盟の片務性と言われるけれども、実質的には、コストや、基地の提供、地位協定など、さまざまな面で、双務的であるとも言える。ただ、日本が、地位協定の改善など、アメリカに働きかけていくには、『人と物』の協力だけでなく、『人と人』の協力も可能にした方が効果的であるし、日米の双務性を上げることになると思う。ワシントンは、日本に、米軍と一緒に前線で戦ってほしいなどとは、思っていないでしょう。

日本の核武装に関しては、雪斎殿の御説の通り。特に、戦略面において、返って、外交戦略を狭める、ソフトパワーを弱めることに対してどう対処するのか、できるのか、甚だ、疑問でならない。

Posted by: あいけんべりー | October 20, 2006 07:20 PM

一連の核騒動を見ていて感じるのは、核武装の目的が明確ではないということです。アメリカの「核の傘」の信頼性が疑わしいのなら、非核三原則のうち「持ち込ませず」を死文化するのが真っ先に浮かびます。無差別テロなどに対応できないのは「核の傘」であろうと、自前の核だろうと大した違いはないでしょう。

 北朝鮮の核武装に対抗するならば、周辺事態法で留保されている給油の範囲、輸送する物資の中身の制限などを撤廃するだけでも、十分だと思います。日本の核武装が必要となる条件は、日米同盟の廃棄、もしくは死文化という事態だと思います。アメリカの「核の傘」を確実にするために核武装論を行うという意見には、自ら制御できない事態を招きかねないという点で、危うい考え方だと思います。

Posted by: Hache | October 21, 2006 12:34 AM

皆様は、これからの日本は、
日本の「「ド・ゴール」、「アロン」、「ガロワ」、「マルロー」を産み出すことを目標とするべきと考えておられるのでしょうか?

将来にわたっても日本は「ド・ゴール」、「アロン」、「ガロワ」、「マルロー」を産み出すことはできない、そのような能力を日本・日本人が持つことはあり得ないと考えておられるのでしょうか?

日本は「ド・ゴール」、「アロン」、「ガロワ」、「マルロー」を産み出すことができるが、何らかの理由でそれを目指すべきではないとお考えなのでしょうか?

Posted by: MUTI | October 21, 2006 05:31 AM

>「核」を考えるためには、それを持つに足る政治指導、軍事戦略、「核」の露骨さを中和するための文化広報戦略の三つが備わる必要があります。

雪斎先生、これこそが、「日本の核武装の現実性について議論する」ことの、大きなキモではないかと思います。
ただ、「周辺がキナ臭くなって来たから、自分も核で武装するのだ」ではなく、そういう血気に逸ったというか熱に浮かされた動機で核武装を語るのではなく、重心を落としての時間をかけた議論は、するべき時期が来たと考えても良いのではないかと思うのです。

Posted by: るびい | October 21, 2006 07:13 AM

あいけんべりー殿
日米同盟の実質性ということならば。いろいろやることがあります。何故、いきなり「核」に話が飛ぶのでしょうか。
Hache殿
「核」は、テロリストや「悪漢国家」に対する抑止にならないのですな。この意味を忘れた議論は、つまらないと思います。
MUTI殿
>日本の「「ド・ゴール」、「アロン」、「ガロワ」、「マルロー」を産み出すことを目標とするべきと考えておられるのでしょうか?
結論からいえば、それを早くやる必要があります。「マルロー」になれそうな人々は、北野武監督を初めとして幾らでもいると思いますが、「ド・ゴール」、「アロン」、「ガロワ」と来ると、ちょっと心許ない。拙者も、「アロン」を目指しているのですけどね。もっとも、こうした条件が揃っても、日本の「核」にはリアリティがあるとは思えませんが…。
るびい殿
御説、同意です。

Posted by: 雪斎 | October 21, 2006 10:59 AM

雲斎殿

別に核武装それ自体を目的としているのではなく、「議論を匂わす」ことにより(中東第一で極東を軽視しがちな)米(特に現状追認を志向しがちな)中に対し、危機感を抱かせて北朝鮮問題に取り組ませることにこそ昨今の「核武装論議」の官邸の狙いがあるような気がしてなりません。
 そういう意味では、一連の動きの中で政調会長:マッチ、外務大臣:燃料、首相:ポンプの、役割分担された連係プレーの構図が透けて見えましたw。

Posted by: bystander | October 21, 2006 03:12 PM

雪斎殿

説明不十分ですいません。私としては、日米同盟の片務性の話題と日本の核武装論の話題とそれぞれ、わけてコメントしたつもりでした。

日米同盟からなぜ、核に飛ぶのか、私にもわかりません。

ただ、これは、推測の域を出ませんし、かなりの論理飛躍があり、コメントしにくいのですが、仮に麻生外相の発言が日米安全保障条約5条(いわゆる、米国の日本防衛義務)に対して、米国の確固たる意志を引き出す意図のものであれば、強引ですが、結びつけることは、可能かもしれません。
もちろん、私は、そのようなアプローチには、反対ですが。

Posted by: あいけんべりー | October 21, 2006 06:22 PM

雪斎殿

ご返信いただき、ありがとうございます。

>「ド・ゴール」、「アロン」、「ガロワ」と来ると、ちょっと心許ない。

その原因の一つは、日本国内公論における軍事・安全保障関連の基礎的常識水準の低さにあるのではないでしょうか。

日本国内の核議論についても、核武装賛成派と反対派が公論として有意義な議論をおこない、
その結果、反対派多数で持たないことになっている、
というのならおおいにまっとうな話ですし、
仮に、状況の変化によって核武装をすることに「多数」がかわっても国際的に理解(納得とは別)されやすいのだろうと思います。

が、稚拙な「論未満」の感情による空気の結果では、核を持つにしても持たないにしても、
「やっぱり日本人は何をするのかわからん」観を強化する・している様な気がするのです。

現実性がある程度以上ある核武装論が、国論の一角を占めている事は、
日本における公論を国際的な公開に足りうる水準にするための「必要条件の一つ」なのではないでしょうか。

Posted by: MUTI | October 22, 2006 03:12 PM

The comments to this entry are closed.

TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference シャルル・ド・ゴールへの想い:

« 雑感061019 | Main | 「セーラー服と機関銃」を観てしまった…。 »