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September 13, 2006

折々の言の葉 12 トーマス・S・エリオット

■ 私は私の見方と根本的に對立した見地に立つ人々を相手に議論したり、推論したり、論爭しようといふのではない。吾々の時代においては、眞に根本的な問題について論爭するといふことは私には無駄な事に思はれるのだ。論爭は理解の共通地盤のある場合にのみ實行效果があるのである。…自由主義に蝕まれた吾々のやうな社會においては、凡そ固く信ずる所のあるほどの人間にとつて單だ一つ可能な事は、一つの見方を披瀝すること、さうして、それだけでそれをそのままにして置くことなのだ。
         ―トーマス・スターンズ・エリオット―
 日本で政治評論を手掛ける人々のパターンには、概ね三つがある。一つ目は、政治学者が「夜店」として行うパターンである。二つ目は、政治ジャーナリズムの世界に身を置いた人々が行うパターンである。三つ目は、文士・文藝評論家と呼ばれる人々が乗り出すパターンである。この三つのパターンで行われた政治評論は、明らかに同じ対象を論じていても、議論としてはまったく様相の異なるものになっていることがある。

 たとえば、「現実主義」という言葉がある。この言葉を政治学者が使う折は、大体、その意味は決まっている。それは、「政治の世界では、人々の行動の原点にあるのは 具体的な『利益』であり、そこで追求されるのは、『力』である」という認識のスタイルである。二コロ・マキアヴェッリが『君主論』の中で示した「人間は父親の殺されたのはじきに忘れてしまっても、自分の財産の損失はなかなか 忘れないものである」という有名な一節は、そうした「現実主義」認識の原型を表している。
 しかしながら、こうした政治学者の定義を外れたところで、「現実主義」の言葉が語られれば、その意味が途端に曖昧になる。雪斎の議論は、政治学以外のところから批判されるけれども、雪斎は、一々、反論したことはない。雪斎の議論に、たとえば「現実に埋没した」といった批判を投げ付けられても反論のしようがないというのが、正直な感想である。
 「凡そ固く信ずる所のあるほどの人間にとつて單だ一つ可能な事は、一つの見方を披瀝すること、さうして、それだけでそれをそのままにして置くことなのだ」だというエリオットの言葉は、雪斎の言論の信条にも合致している。このブログでも活字のメメディアでも、雪斎は、自分の論稿を「一つの見方を披露するもの」として示している。それ以外に何も期待してはいない。他人を論破したり、あるいは説得しようという意図もない。そういえば、戦後フランスを代表する保守系知識人であったレイモン・アロンもまた、「提供できるのは、思考の材料だけだ」という趣旨のことを語っていたと雪斎は記憶する。言葉で人々を平伏させたければ、新興宗教の教祖にでもなればいい。
 政治学者は、大概、自分の言説を「一つの見方」と諒解している。その「一つの見方」を押し通そうと考え始めた瞬間に、政治学者は「政治活動家」に変貌する。日本では、大学教授の肩書きを持つ「政治活動家」が、意外に多いのである。雪斎も、内心、そうした「政治活動家」は敬遠したいと思っている。以前、自分の立場を「フクロウ派」と位置付けたジョセフ・ナイは、「ハト、タカ、フクロウのどれが正しいのか」と自問し、「三つの総てが正しい」と書いていたことがある。そして、ナイは、「フクロウ派」の限界というのも、きちんと自ら指摘している。他の立場を叩くのではなく、自分の立場をきちんと省察しようというのは、ナイにおける「知的誠実」を表している。
 そういえば、北海道大学スラブ研究センターの草創期に関わったのは、江口朴郎教授と猪木正道教授であった。この研究センターの沿革を記した文書に次のような記述がある。

 53年6月設立当時の組織は以下のようでした。主任:木村彰一(文学部教授)、「文学部門」:北垣信行(文学部助教授)、金子幸彦(一橋大学社会学部講師)、「歴央部門」:鳥山成人(文学部助教授)、岩間徹(東京女子大学文学部教授)、「政治部門」:猪木正道(京都大学法学部教授)、「経済部門」:内海庫一郎(経済学部教授)、「国際関係部門」:江口朴郎(東京大学教養学部教授)。なお岩間徹さんは上記文章の中で、以降も継続されることとなったこの interco11egiateあるいはinteruniversityというべきあり方を、施設の積極的な特色として評価されています。

 猪木教授は「右」の論客、江口教授は「左」の論客として知られた人物である。昔、学生の頃にスラブ研究センターの図書室内で、「江口教授と猪木教授が温泉に漬かりながら、ソヴィエト情勢を談議していた」という文章を読んだ記憶がある。これは、「右」と「左」は互いに無視、あるいは罵倒しあうものだと思い込んでいる人々にとっては、かなり牧歌的な風景ではある。だが、日本の「知の土壌」を豊かにしようと思えば、こういう「牧歌的な風景」を色々なところで出現させることが、大事なのであろう。少なくとも最近の論壇では、そういう「牧歌的な風景」はない。

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Comments

最近は相手を論破しないと気がすまない暑苦しい手合いが多すぎますな。特に論壇方面ですが。
以下はB'zのアルバム「LOOSE」の収録曲のひとつです。不適切であれば、お手数ですが削除をお願いいたします。

敵がいなけりゃ (1995)

怒りまくらにゃ 居る意味がない
責めて責めないと拍手をいただけない
反骨精神が俺のウリだぜ プロは違うぜ
体制に背を向けたように見せて稼いでる

でも 敵がいなけりゃ手もふるえる
他人のふしあわせも探してる
どんな奴でもとりあえず叩く
あのコもきっとソコにまいってるはず

軽いでっち上げならかまわない
派手なブームなんかはちょうどいい獲物よ
せせら笑いを浮かべながら鋭くえぐる
血の味にずっと飢えてる兵隊みたい

でもね 敵がいなけりゃはじまらない
手も足も出ないミミズだよ
あてもなく床をのろのろと
そんな平和じゃ 俺たちゃメシの食い上げ

誰か 敵がいなけりゃやってられない
それが俺の道しるべだ
何も持ってないのはつらいこと
だからお願い 俺のカタキになってよ

(Uh 誰でもいい)

Posted by: talleyrand | September 13, 2006 at 02:48 AM

 Talleyrand殿
 今の「朝日」叩きをやっている「冷戦後右翼」の若者は、昔日の「造反有理」を叫んだ左翼学生と思想構造において大差ないかもしれません。昔は、造反の対象が「象牙の塔」であったのが、今は「朝日」だということです。どちらも「既存の権威」だということです。

Posted by: 雪斎 | September 13, 2006 at 04:20 AM

かつて「傍観者的視点」だとか「評論家的姿勢」だとかの言葉で
他者を罵ることが正義だと刷り込まれた人たち、他者が罵られる様子を見て恐怖に震えた人たちの延長線上に、政治活動家たちがたくさん、乗っかっているように思いました。
汗を流して血も流せ、でなければ「安全地帯から傍観してるだけではないか」と大衆に取り囲まれて吊るし上げられたら怖い…というトラウマでしょうか。
「所詮インテリ」「所詮エリート」「世間知らず」と陰口叩かれるのが嫌なのかもしれません。

議論に感情を入れて、喧嘩にしないと気がすまない連中が、増えてきた気がします。

「知の価値」って、そんな軽いものではないと思いますが。

Posted by: るびい | September 13, 2006 at 07:01 AM

「右」と「左」の罵り合いは、まったく不毛だと思います。
ただ、敢えて現状に希望を見出すとすれば、批判や論争という形でも相互交流が続いていることでしょうか。
昨日のエントリを借用するなら、陰惨な消耗戦の後に、地に足の付いた理想を掲げる言説が現われることを祈るばかりです。

私自身は、思想的には「右」の主張に共感を覚えることが多いですが、議論の仕方については「左」の言説に感銘を受けることが多いです。
日本語ならば、広松渉の『〈近代の超克〉論』とか、廣重徹の『科学の社会史』とか・・・
マルクスを快読してしまうような「右」の論者が現れないものかと期待しているのですが、現状ではないものねだりなのかもしれません。

古典を重視する雪斎様の立ち位置は、「右」「左」のどちらからも尊重されるような言説を展開できると愚考しますが、如何でしょうか?

蛇足ながら、私も夏川りみは大ファンです。

Posted by: 木星人 | September 13, 2006 at 10:26 AM

るびい殿
知識人というのは大した存在ではないですよ。ところが、妙な「権勢欲」を持っている御仁がいるのですな。
木星人殿
拙者は、学生時代、レーニンを読みましたよ。『国家と革命』ですね。今時、読む人々は居るのかしら。

Posted by: 雪斎 | September 15, 2006 at 01:41 AM

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