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August 18, 2006

八月十五日の「神話」

■ 案の定というべきか、16日になったら、「戦争と平和」の話題が、潮の退くように消えている。
 16日は、早朝から、納沙布岬沖の日本漁船拿捕事件が報じられている。これが、24時間早く起こっていたら、どうなっていたのであろうか。
 17日は、「ジョンベネちゃん」殺害犯逮捕の報が流れた。これは、日本のメディアが取り上げるべき話題であろうか。解せぬ。
 というわけで、しつこく、「8月15日」の風景にこだわってみる。何故、「8月15日」は特別な意味を持つようになってきたのか。

次に挙げる二つの「公式文書」は、面白い。

 

□ 「戦没者を追悼し平和を祈念する日」について
           昭和57年4月13日 閣議決定
1  趣旨
 先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念するため、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を設ける。
2  期日
 毎年8月15日とする。
3  行事
 政府は、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に、昭和38年以降毎年実施している全国戦没者追悼式を別紙のとおり引き続き実施する。
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別紙 全国戦没者追悼式の実施について
1  全国戦没者追悼式は、天皇皇后両陛下の御臨席を仰いで、毎年8月15日、日本武道館において実施する。
2  本式典における戦没者の範囲及び式典の形式は、昭和56年の式典と同様とする。
3  本式典には、全国から遺族代表を国費により参列させる。
4  式典当日は、官衙等国立の施設には半旗を掲げることとし、地方公共団体等に対しても同様の措置をとるよう勧奨するとともに、本式典中の一定時刻において、全国民が一斉に黙とうするよう勧奨する。

 

□ 全国戦没者追悼式の実施に関する件
        昭和38年5月14日 閣議決定
 今次の大戦における全戦没者に対し、国をあげて追悼の誠を捧げるため、次により式典を実施する。
                記
一 政府主催で、昭和三八年八月十五日日比谷公会堂において、天皇、皇后両陛下の御臨席を仰いで、全国戦没者追悼式を実施する。
二 本式典の戦没者の範囲は、支那事変以降の戦争による死没者(軍人、軍属及び準軍属のほか、外地において非命にたおれた者、内地における戦災死没者等をも含むものとする。)とする。
三 本式典は、宗教的儀式を伴わないものとする。
四 式典当日は、官衙等国立の施設には半旗を掲げることとし、地方公共団体等に対しても同様の措置をとるよう勧奨する。
 また、本式典中の一定時刻において、全国民が一せいに黙とうするよう勧奨する。
五 本式典には、全国から遺族代表を国費により参列させる。

 要するに、現在のような「8月15日」の風景が出来上がり始めたのは、終戦から十八年も経った昭和38年になってからである。昭和38年といえば、その年の夏に「生存者叙勲制度」も復活している。当時の宰相は、池田勇人である。池田は、所得倍増計画の主導という点から、「経済の人」というイメージが強いけれども、実際には、軍事の意義も判っていた宰相である。
 ところで、昭和38年の段階に至って政府が「戦没者追悼行事」を始めた意図は、何であったのか。これは、少しばかり調べて見る価値がありそうである。
 全くの推測であるけれども、戦後十八年の間、日本人は、「生きるのに忙しかった」のではなかろうか。たとえば、戦災未亡人となった女性が、幼い子供を育て上げるまでに要する時間が十数年とするならば、「死者」のことを考える余裕が出てくるのは、昭和35年以降ということになる。
 東京オリンピックが翌年に開催されるという時期は、漸く日本人もナショナリズムのことを考えられるようになった時期でもある。「戦争と平和」を一歩引いた立場で考えられるようになってきたのも、この時期かもしれない。
 それにしても、昭和38年の式典が日比谷公会堂で開かれていたとは、初めて知った。今の日本武道館で行われたものに比べれば、かなり地味なものであったろうということは、容易にに推測できる。「8月15日の神話」というものも、あるのではないか。

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Comments

雪斎様
興味ある情報ありがとうございます。私が持っている時間感覚とほぼ一致しますね。私の経験では、8月15日が現在のような捉え方扱われだしたのは、東京オリンピック後くらいからです。そして、戦争責任(特に中国に対する)ということが、ジャーナリズムのテーマになりだしたのもそのころからじゃあなかったでしょうか。それ以降、何かリアリティーの乏しい議論が8月15日に関しては続いているように思えます。戦後史の資料、文献を読むと、昭和20年代30年代の方が、はるかに現実味ある議論がなされていたようです。戦前、戦中を実際に経験した政治家が引退、死去したことも影響しているかもしれません。昭和20年代30年代の資料、文献を今一度読み直すことも大切かと感じます。

Posted by: M.N.生 | August 18, 2006 at 09:40 AM

雪齋様
 北田です。細谷先生の掲示案ではその節はお世話になりまし た。
 いつも、ROMさせて頂いております。
 8月15日の神話といえば、確か、佐藤卓巳さんという社会学者 が、ちくま新書で、「8月15日の神話」というのを出してました。
 以前に買って、まだ積読になっているんですが。
 関連URL・・・http://night-news.moe- nifty.com/blog/2005/08/post_3450.html
 つまらぬコメントにてすみません。
 なお、小生、15日に、ただの好事趣味で、靖国神社に行ってし まいました。

Posted by: 北田 | August 18, 2006 at 11:33 AM

 昨日の雪斎様の『産経新聞』の文章、拝読しました。
 
 先生の日ごろの皇室にたいする謙虚な心構へを尊敬してゐます。例の「メモ」について、かねがね問題にすることとちやふやろ、と思うてゐましたが、先生の文章を読み、浄化されたやうな思ひでした。

 もう一点。「担当編集者曰く、『右も左も怒り狂う』内容」ださうで、産経も先生だから載せたのでせうが、「怒り狂」はれるかどうかは兎も角、左右に嫌はれようと嫌へれまいと、自分の思ふところ、善いと考へるところを述べる先生の姿勢には感服致します。

Posted by: マロン=ナポレオン | August 18, 2006 at 06:50 PM

昭和38年7月5日における衆議院社会労働委員会での西村厚生大臣の答弁では、まずは遺族の方々に対する経済援助が第一であったということ、また、陳情を受け厚生省としては年々行事のための予算を大蔵省に要求していたが「まだ早い」となかなか認められず、やっと認められたのが昭和38年度だった、というような説明がされていますね。
当時の大蔵省の「まだ早い」という判断の中身が興味深いところです。

Posted by: 西田瓜太郎 | August 18, 2006 at 11:32 PM

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