清沢洌の「煩悶」
■ …僕は「…僕は十二月八日、大東亜戦争勃発の時に持った感じを忘れることはできない。私は愛国者として、これで臣節を全うしたといえるか、もっと戦争を避けるために努力しなければならなかったのではないかと一日中煩悶した。米国の戦力と、世界の情勢を知っていたからだ」といった。
-昭和18年7月9日
清沢洌著『暗黒日記1』(ちくま学芸文庫)
雪斎にとって、清沢洌の言論は、「鑑」の一つである。
清沢が一貫して批判を加えたのが、昭和初期に、『米国怖るるに足らず』『宿命の日米戦争』といった著作を書いて一世を風靡していた池崎忠孝である。池崎は、満州事変以後の日米関係の悪化に乗じて、数々の「日米戦争論」を書いた。池崎は、近い将来の日米戦争が宿命であり、それに備える覚悟を持つことが大事だと論じた。これに対して、清沢は、「自然災害じゃあるまいし…。避けられないものではあるまい」という趣旨の批判をしたのである。
因みに、清沢は、昭和十八年九月八日に次のよう書いている。
「今朝の『読売』に池崎忠孝の「ドイツは不敗なり」との長論文あり。(一)軍力、(二)軍需生産力、(三)食料需給力、(四)戦争の犠牲と恐怖にたえる国民の精神力の四つに訳、いずれもドイツのほうが優れていると論断」。
しかし、この翌日九日、日本にイタリア降伏の報が伝えられた。清沢が批判した池崎の「質」が浮き彫りになるような話である。
昨日のエントリーとの関連でいえば、雪斎が「日本が無理矢理、米国に戦争に引きずり込まれた」という議論に批判的であるのは、そこに「日米戦争は必然である」と煽った池崎の議論に通じる匂いを嗅ぎ取るからである。「結局、何をしても避けられないのだ…。だから俺を責めるな」という感情が、そこには見え隠れしているのである。それに比べれば、「戦争を止められなかった」という「煩悶」を示した清沢の姿勢にこそ、雪斎は共感する。
「戦争と平和」を扱った研究をしていて何時も実感するのは、人間の歴史は、「こんなはずではなかった…」という嘆きの声で充満しているということである。イラク戦争を始めたジョージ・W・ブッシュですら、イラク戦争後の占領統治が上手くいかずに米兵が次々と落命していた時期には、「こんなはずではない」と焦っていたであろう。世の中には、人々が「してやったり…」と思うような結果が出てくるなど滅多にあることではない。
そういえば、来月、雪斎は「永田町」に戻って一年である。比例二十六位という常識的に当選圏外の位置から当選した愛知和男代議士に付いて、「永田町」に戻ったのだから、雪斎は、人間の世界の「必然」を個人的な信条の上でも余り信じることができない。もっとも、「永田町」に戻ったので、雪斎は、学者としては「助教授」の称号を獲得し損ねた。「こんなはずではなかった…」というべきであろうか(苦笑)。
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Comments
長谷川毅「暗闘」につづいて、偶然いま北岡伸一「清沢冽」を読んでいたところです。印象深い人物ですね。
Posted by: 珈琲 | August 27, 2006 09:03 AM
安倍晋三さんは、あの年代ではめずらしく政務次官になり損ねた過去があるのだそうです。今となっては笑い話ですけど、笑えなかった時期もあったでしょうね。
雪斎どのも、助教授のポストは誰かに譲ったと思って、永田町の道を極めてくださいまし。
Posted by: かんべえ | August 27, 2006 09:54 PM
珈琲殿
清沢洌は、戦後まで存命であったならば、石橋湛山、緒方竹虎のような存在になっていたでしょう。吉田茂が評価していた人物ですから…。
かんべえ殿
そういえば安倍氏は内閣官房副長官、官房長官を務めただけで宰相になろうとしているのですな。「首相支配」時代の申し子みたいな人物人物でしょう。
「助教授」なり損ねの件、何とも複雑な気がしますな。次は、どういう「偶然」があるかなと思います。
Posted by: 雪斎 | August 28, 2006 12:56 AM