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June 30, 2006

『産経新聞』「正論」欄原稿

■ 日本にミリオネアは140万人余り居るようである。人口比で1パーセント強である。これは多いのか少ないのか。『ロイター』配信記事である。
 □ 日本の富裕層、05年に4.7%増の141万人=調査
 [東京 22日 ロイター] メリルリンチ日本証券とキャップ・ジェミニは、日本の富裕層が2005年に前年比4.7%増加の141万人になったとするレポートを発表した。
 発表したのは「ワールド・ウェルス・レポート2006年版」。日本の富裕層(主たる住居を除く純金融資産が100万ドルを超える個人)人口が増えた主な理由として、実質国内総生産(GDP)2.6%の増加、堅調な相場環境、デフレ圧力の沈静化、消費の改善などを挙げている。定率減税の解除などの障害はあるものの、こうしたポジティブ要因は06年も継続するという。
 世界に目を転じれば、富裕層人口の伸びが顕著だったのは韓国の21.3%増やインドの19.3%増、ロシアの17.4%増、南アフリカの15.9%増など。
 米国は、引き続き最大の富裕層人口を誇り、保有資産残高も最も高かった。しかし富裕層人口の伸び率では、前年の9.9%を下回る6.8%と鈍化した。
 全世界で、保有する金融資産が3000万ドルを超える超富裕層の人口は同10.2%増の8万5400人になった。
 世界の富裕層の資産残高は、前年比8.5%増の33.3兆ドルだった。今後、年6.0%づつ上昇し、10年までに44.6兆ドルになると予想している。

 雪斎は、残念ながらミリオネアではない。ただし、なってみたいとは思う。どういう感慨を得ることになるのか。しうした心境の変化にこそ、関心がある、「もっともっと」と思うのか、「ふぅ、だから、どうなんだ」と一抹の虚しさを覚えるのか。
 下掲は、一昨日付『産経新聞』「正論」欄に載った拙稿である。拙ブログで書いた数編のエントリーが元になっている。雪斎にとって、ブログで書くことは、「銭にもならぬ遊び」ではなく、次のネタの仕込みの場である。だから、続ける意味がある。
 □ 富者に求められる振る舞いとは―格差批判を読むもう1つの視点
 「世に銭ほど面白き物はなし」というのは、井原西鶴の有名な言葉である。小泉純一郎総理の執政は、過去十余年の経済停滞からの脱出を「置き土産」にして、幕を閉じることになる。
 小泉総理の執政への批判として頻繁に示されるのは、我が国社会における諸々の「格差」が拡大しているという趣旨の指摘である。
 ところで、現下の「格差」批判の議論は、上層であれ中層であれ下層であれ、それぞれの社会階層にはそれぞれに相応(ふさわ)しい作法があるということを忘れている。
 たとえば、「富」の恩恵に与(あずか)るに至っていない中層、下層の人々の作法とは、「一身一戸を斉治して恒産有りて恒心有り、之を吾人自治の本拠とせん」という濱口梧陵の言葉が示す通りに、自らの恒産を築いて「自尊自立」を達成することである。彼らにあっては、「富」を追求する振る舞いは、「自尊自立」の基盤を築く意味において何ら非難に値しない。
 その一方で、既に「富」の恩恵に充分に与った上層の人々に要請される作法とは、その「富」を広く社会全体の利益のために生かす構想を用意し、その構想を実現に移すことである。そうした作法は、今や適切に踏まえられているといえるであろうか。因(ちな)みに、筆者は、大学に入りたての1年生を相手に課しているリポートの課題として、次のようなものを示したことがある。読者諸賢にも是非、考えていただきたいものである。
 「ある日、ある富豪が貴君に10億円を提供すると申し出てきました。ただし、次のような条件が付いています。(1)貯金に回してはいけない(2)〇〇(住宅、自動車…)を買うという使い方をしてはいけない-。さて、貴君は10億円をどのように使いますか」
 20歳前の若者にとっては無論、多くの市井の人々にとっても、10億円という「富」は、誠に縁遠いものであるけれども、ビジネスの世界で成功を収めれば、そうした「富」は決して手の届かないものではないであろう。
 近年における日本資本主義社会の「梟雄」と呼ぶべき堀江貴文(ライブドア元社長)、村上世彰(村上ファンド前代表)の両氏も、そうした「富」を当初から手にしていたわけではない。
 しかし、堀江、村上の両氏もメディアの世界で頻繁に発言する饒舌(じょうぜつ)な人物であったけれども、筆者は、彼らの口から「自らの『富』をどのように使うのか」という話を聞いたことがない。若き日の堀江、村上の両氏に対して前に触れた「10億円の使い方」の課題を示したならば、彼らが世の人々を瞠目(どうもく)させるような構想を示し得たかは、定かではない。
 我が国で「富」を持つ人々は、その「富」を費やす折の想像力が誠に貧しくなっている。堀江、村上の両氏の姿が象徴したのは、その表面的な言動の華々しさとは裏腹な想像力の貧しさである。
 折しも、当代世界随一の資産家と目されるウィリアム・H・ゲイツ氏(マイクロソフト会長)が経営の第一線から退く旨、発表された。ゲイツ氏は、夫人とともに設立した慈善団体「ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金」の活動に専念するとのことである。
 別段、米国に事例を求めなくとも、昔日の日本には、「富」を自己目的としなかった資産家の肖像は、枚挙にいとまがない。
 江戸時代中期、大阪・堂島での米投機で成功を収めた本間宗久が築いた「富」は、代々、庄内藩の御用を通じて、地域の振興や民生安定のために費やされた。近代以降でも、たとえば渋澤栄一、岩崎彌之助・小彌太父子、大原孫三郎といった資産家は、公益事業への出資によって、後世に名を残したのである。
 このように考えれば、現下の「格差」の絡みで議論されなければならないのは、どのように、「格差」それ自体を均(なら)していくかというよりも、どのように、それぞれの社会階層の人々が、それぞれに相応しい振る舞いをしていく折の「共通の諒解(りょうかい)」を再び作り直していくかということであろう。
 前に触れたように、「格差」論議の文脈の中で相対的に中層や下層に位置する人々にとっては、「富」の追求を通じた「自尊自立」の実現は当然の振る舞いであるかもしれないけれども、一旦、「富」を得て上層に連なってしまえば、同じ振る舞いを続けるわけにはいかない。
 我が国の人々にとっては、そうした事情を確認することが大事であろう。
  『産経新聞』「正論」欄(2006年6月28日付)

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Comments

戦前のお姫様方の追想録を、暇な時間に「箸休め」のようにして読むのが好きなのですが、口を揃えて、「日常生活は大変質素であった」とおっしゃるのが、印象的です。
秩父宮勢津子妃(会津松平家)、榊原喜佐子さん(徳川慶喜家)、梨本宮伊都子妃(佐賀鍋島)、それから「花葵」を上梓された水戸徳川家の三人のお姫様方…みなさまそう書き残していらっしゃる。
水戸徳川家に至っては、頂き物をことごとく納戸にしまいこむため、羊羹から煎餅から全部、あるものは干からび、あるものは湿気てしまい、よその家で頂いて、初めてこんなおいしいものと知った…と三人で笑っておいででしたよ。

この方々、全員武家の出なので余計そういう傾向なのでしょうね。

「子供に贅沢させない」こういう家訓が家訓としてあった時代です。
マナー研究家で有名だった酒井美意子さん(ああ、うろ覚え)も
家に伝わる宝石類は、あくまで前田家のもので個人のものではない。
嫁に出たら、身につける資格はない、と書いてました。

ちょっと、思い出した次第です。

Posted by: るびい | June 30, 2006 at 04:20 PM

一昨日付『産経新聞』「正論」は一昨日拝見しました。
日経で今日私の履歴書遠藤実氏が終了、大半が苦労の連続に終始していました。また同じ面でやはり今日終了の日本人の品格についての連載がありましたが、品性品格のある生き方に留意したいものです。しかし夜になり暑さが増ししてきており今日で6月が終わり7月が到来することを強くかんじます。日本で公共哲学がより多くの人に親しみがあるようになると良い方向に進むと思うのですが。明日からタバコが値上がりしますが新聞に千代田区等で条例違反のマナーの悪い喫煙者が増えている記事がでていました。電車はじめ公共の意識が強くない人を散見する現代の日本が少しでも改善することを期待します。

Posted by: 星の王子様 | June 30, 2006 at 09:07 PM

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