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April 29, 2006

折々の言の葉 6 中江兆民

■ 「平時閑話の題目に在りては、或は奇を闘はし、怪を競ふて、一時の笑柄と為すも固より妨無きも、邦家百年の大計を論ずるに至りては、豈専ら奇を標し新を掲げて、以て快を為すことを得んや」。
  (ふだん雑談のときの話題なら、奇抜さを争い、風変わりをきそって、その場かぎりの笑い草とするのももちろん結構だが、いやしくも国家百年の大計を論ずるような場合には、奇抜を看板にし、新しさを売物にして痛快がるというようなことが、どうしてできましょうか)。
   ―中江兆民著『三酔人経綸問答』(岩波文庫版)―
 現在、『中央公論』に掲載されている拙稿に関して、Hache殿がわざわざ三つのエントリーを書いておられた。まともなコメントを付したエントリーを書かなければと思いつつ、時間が経ってしまった。その中の一番目に次のような記述がある。
 「私には、あまりに常識的であるように思えます。残念なことに雪斎先生の考えは、論壇では常識的ではないようです。非礼を承知で申し上げると、『こんな当たり前のことを書いている論考ではダメだ』という批判がでてもおかしくないと思うのですが、そんな状況ではないようです」。

 hache殿のコメントは、雪斎には誠に意を強くさせられるものであった。というのも、「邦家百年の大計を論ずるに至りては、豈専ら奇を標し新を掲げて、以て快を為すことを得んや」という『三酔人経綸問答』中の南海先生の言葉は、そのまま言論家としての雪斎の信条でもあるからである。
 『三酔人経綸問答』には、洋学紳士君、豪傑君、南海先生という三人の「酔客」が登場する。現在の思潮でいえば、紳士君は「『世界』系知識人」の先祖ということになるであろうし、豪傑君と南海先生は、それぞれ「『諸君』『正論』系知識人」、「『中央公論』『論座』『アステイオン』系知識人」の源流といったところかもしれない。戦後、暫くは、「洋学紳士君」の議論が優勢であり、「豪傑君」と「南海先生」の議論は、「保守反動」の言葉で一括りにされていたところがあるけれども、近年では、「豪傑君」の議論を叫ぶ声が、かなり大きくなっているようである。先刻の竹島周辺海域調査の件でも、「韓国と衝突してでも…」と叫んだのは、「豪傑君」の再来と呼ぶべき人々であった。しかし、結果は、「日韓双方が矛を収める」という常識的なものであった。それでいいのである。
 ところで、中江兆民は、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』を「民約論』として日本に紹介した「東洋のルソー」として知られているけれども、『三酔人経綸問答』それ自体もまた、ルソー、あるいはフランス的な知の伝統を反映した書である。要するに、「あれかこれか」というニ分法的な議論ではなく、「あれかこれか。否、第三の道は…」という議論を展開するのが、その特徴である。典型的なのは、自身もフランス出身でありレイモン・アロンの弟子筋にもあたるスタンリー・ホフマンである。ホフマンには、初期の業績に「国際政治におけるルソー」と題された論稿があるし、『没落か再生か』、『優越か世界秩序か』という書がある。雪斎は、学生時代には、『ヤヌスとミネルヴァ』という書を読んでいた。懐かしい日々である。
 スタンリー・ホフマンの議論は、高坂正堯先生や永井陽之助先生に代表される日本の現実主義系政治学者に影響を与えた。それは、戦後の平和主義にも傾倒せず、戦前の国家主義の弁明にも走らずといった現実主義系政治学者の流儀が、前に触れた「あれかこれか。否、第三の道は…」というスタイルに近似していたからであろう。
 雪斎は、日本における現実主義系政治学者は、本質的にリベラリストであり、それは、大体、「南海先生」の後嗣なのであろうと思っている。そして、それは、米国思潮における「リベラル」とも欧州思潮における「リベラル」とも異なる意味合いを持つのであろう。日本型リベラリズムは、たとえば清沢洌が昭和前期の国家主義や共産主義の双方に批判的であったことに象徴されるように、既存の「権力」からの圧迫に抗するだけではなく、それに対する「反」の論理にも没入しない。そこでの議論は、確かに、すっきりしない結論に落ち着くものが多いし、それ故に「常識的に面白みのない」ものになることが多い。ただし、それにもかかわらず、「邦家百年の大計を論ずるに至りては、豈専ら奇を標し新を掲げて、以て快を為すことを得んや」なのである。「面白くない」という批判を気にしていては、「邦家百年の計」は語れないということである。

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Comments

雪斎さま
私が貴殿の論考を知り始めてから、ほぼ常に関心を維持しているのは、まさにここで仰っている要因からです。われわれ実業に関わっている一般人は、メディアの人々とたぶん少し違って、現実の判断と行動に、すべての場合にすっきりした模範解答はなく、時間との戦いでそのときどきに少しでもベターな判断、アクションを重ねるものだということを、経験を通じて知っているのだと思います。そうした積み重ねが、長期的に正しい、よりまともな方向に行くよう、そこに知恵の絞りどころがあると思います。

Posted by: 珈琲 | April 29, 2006 at 08:46 AM

拙文にコメントを賜り、恐縮です。長い割には、肝心の部分が抜けておりますので、あらためてあの論文で一番、大切なところを引用させて頂きます。「ケナンが『封じ込め』の対象とした冷戦期のソ連とは異なり、現下の中国は、国際的な相互依存関係の網の中にある。中国と他の国々との間には『鉄のカーテン』に類するものは下りていない。従って、ケナンが『影響力の排除』を想定した対ソ連『封じ込め』の論理がそのまま対中政策にも通用するわけではない」(『中央公論』2006年5月号170頁)。

当たり前のことではあるのですが、このような冷静な現状認識をけれんみなく、述べられること自体が「非道」だなあと感心しました。「極悪」さんも同類ではありますが。告白してしまえば、対中「強硬」論も、日中友好論者も現実を見ないで「情」の世界で生きているように私には見えます。どちらも私の目からすれば、中国にやさしい。かまい方は、乱暴か卑屈かという程度の差でしかないように見えます。

「極悪非道」の面々は、情がないわけではないけれど、「理」(ことわり)をまず基礎にすえる。確実な事実を見て目的を明確にし、使えるリソース、その手段を行使した結果が利益になるのかどうかを情を交えずに評価する。非礼ながら、「俗人」こそが、信頼に値する。そういうことを感じる論文でした。

Posted by: Hache | April 29, 2006 at 09:05 PM

甘いなあ。
中国に対する見方が甘い。

Posted by: 反中派 | April 30, 2006 at 12:34 AM

「常識的で面白みがない」ものばかりじゃ商売にならない、パ~ッと、派手な花火を打ち上げて「格差社会の閉塞感」とやらをブッとばそうぜいっ!
…という言論ばかりでは、世の中、道を誤りますね。

私も最初は「世の中に風穴を開ける」が如き、威勢のよい言論を大いに面白がった時期もありましたが、直に飽きました。
飽きました、というのも無責任ですが、どれもこれも言いっぱなしで非・現実的。営業左翼ならぬ営業右翼の、数を頼みのいざとなれば神風頼み。「高等遊民」の能天気なお遊びで、国家百年の大計をマスメディアを使って語られるのは勘弁、であります。

中国等ネット上で言うところの「特定アジア」の手強さを始めとする、日本を取り巻く状況の難しさなんざ、煽られなくても多くの日本人は判ってます。
過激な言葉とアイディアでそれが解決するなら、官僚も政治家も不要でしょう。

1億2000万の人間を食わしながら、なおかつ国際社会の中で孤立することなく、独立国としてまともに立っていくためには、常識を忘れたらアウトではないでしょうか。

Posted by: るびい | April 30, 2006 at 06:48 AM

皆様が既に同様のコメントを寄せていますが、私も、このエントリと志を同じくするものです。

巷には過激な言論が溢れています(私もそんな言論に熱狂した時期がありました)。しかし、「現実に何を為すか」を考えたとき、答えは自ずと狭まってきます。
言論界ではなるほど確かに過激な言論が好まれるようでありますが、好んで語ろうとしない一般の人々は、自然のうちに現実を見据えた中道を選び取っているのではないでしょうか。
だからこそ、「殊に奇ならずして、今日に在て、児童走卒も之を知れるのみ」と思われようとも、果敢に言論を立てる雪斎先生のお姿が立派に見えるのかも知れません。
当たり前のことをしっかり理屈付けて言える人間になりたいですね。

また、私が論客の言説を見るときに指標にしているのは、「但し書き」の多さです。
口が酸くなるほど「ただし、」を繰り返す論者こそ、読者に誤解を与えない配慮が備わっている、誠実な方であると考えています。子を思う母が、しつこいほどに注意を繰り返す様に似ていますね。

Posted by: 熊助 | April 30, 2006 at 05:35 PM

現実主義の考え方は全くごもっともなのですが、「特亜が合意などを守らない可能性がきわめて高い」という現実も無視できません。
特亜が国際法の常識や対話によってなされた合意を守るのであれば問題ない。しかし守らないことがこれまでにもたびたびあり、
「現実的な対応」が裏切られた結果、かえって国民の怒りをエスカレートさせかねません。

強く懸念されるのはこの点で、「現実主義」の識者がどうこの点を論じるか興味を持っています。
このパターンの典型が拉致問題ではないでしょうか。「交渉を一歩でも進める」ということでコメ支援したり、「拉致」を「行方不明者」と言い換えたり。それはそれで、現実的な対応ともいえなくもありませんが、結果的にそれがかえって国民の怒りをエスカレートさせ、それに縛られて身動きできなくなってしまった。

ついでに、私は中韓両国語を操って仕事していますが、
「リベラル」
これはちょっと通訳に困る単語でした。辞書には「自由主義」と出ていますが「現実主義」と訳しています。

Posted by: フムフム | April 30, 2006 at 05:59 PM

私は、実は「デタント」をアナロジーとして用いることに強く違和感を感じました。

 「デタント」とは、両者が敵対関係にあることを前提とした平和共存関係を指す、極めて「近代圏」的な関係です。したがって、結論部分の「新中世圏」にある我が国が構築すべき対中関係を指し示す指針とはなり得ません。「ケナンが『影響力の排除』を想定した対ソ連『封じ込め』の論理がそのまま対中政策にも通用するわけではない」とおっしゃっているにしても、根本的に前提が異なる以上、実は類似点よりも相違点の方が大きいのではないのでしょうか。

 特に、「デタント」をアナロジーとして用いた場合、米中関係を的確に把握できないように思えます。米国は、中国がresponsible stakeholderとなることを望み、そのためにshaping the choice (of China)を図ろうとしているわけで、NSC-68以降の冷戦的政策とも、ケナン的冷戦政策とも全く異なる政策を持って中国と接しています。「対中デタント」として将来の日中関係を規定しようとするなら、それは米国よりもはるかに「幅の狭い」政策選択肢しか示してくれないのです。

 もちろん、軍事的脅威としての潜在的危険性には十分に手当をしておく必要があります。しかし、中国との政治外交的な「競争」や、利害を共通するイシューにおける「協力」も同時並行的に進めなければなりません。

 そのためのベースとなる認識枠組みとして「対中『デタント』」が適当であるとは思えないのです。

Posted by: shunss | May 03, 2006 at 02:03 PM

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Tracked on April 30, 2006 at 01:49 AM

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