« 静かな一日 | Main | 「正論新風賞」のこと »

December 20, 2005

冬の日に…

■ 寒い一日であった。都心でも氷点下寸前まで気温が下がったようである。もっとも、雪斎は、十数年前までは札幌に居たから、この寒さは、まだまだだろうと平然と構えるつもりであったけれども、流石に今日の寒さには、「オヨヨ」と思った。
 真冬になれば、部屋を真っ暗にしてグリーグのピアノ・コンチェルトを聴いていた「札幌の雪の日々」0のことを思い出す。当時の雪斎の「夢」は、故・高坂正堯教授や永井陽之助教授のように、自分の「政治評論」を発表する立場を得ることであった。もっとも、「夢は後ろ姿が美しい」という言葉にもあるように、夢は追いついて素顔を覗いてしまえば、かなり複雑な想いをさせられるものである。言論の世界は、難儀なことが多いものだと思う。
 ただし、雪斎は、自分の存在証明を賭けて文章を書いている。雪斎に直接に会った人々ならば判るけれども、、雪斎は、文章を書かなければ、社会的にはまったく活躍の余地のない存在である。大体、日々の日常生活にさえ色々と不都合を感じているのだから、困ったものである。
 だから、「文章は自分の血で書け」というフリードリッヒ・ニーチェの言葉には、かなり共感を覚えてきたものである。今は、ブログや活字媒体など書く舞台が色々とあるから、総ての文章を「血で書く」ことにはならないのであろう。それでも、活字媒体に出すものには、「血で書く」構えでやっている。ブログと活字媒体は、異なる舞台である。

■ 下掲は、『中央公論』「時評2005」欄に一年間、連載したものの最終原稿である。過去には北岡伸一、田中明彦、白石隆、渡辺昭夫、飯尾潤といった各先生が担当されていた同欄「政治」コラムを引き継いで執筆した日々は、誠に愛しき日々であった。先日、雪斎とともに同欄を担当した玄田有史・東京大学助教授と言葉を交わした折、雪斎からも玄田先生からも、「いやあ。大変でしたね…」という同じ言葉が漏れてきた。玄田先生といえば、「NEET」の言葉を日本に紹介した人物である。「終わってみると寂しい…」という認識でも一致した。
 最後の原稿は、雪斎の言論家としての立脚点を表明したようなものである。この立脚点を他の人々が共有しようとしまいと、雪斎には与り知らぬことである。生きていれば、おそらく三十年後も、こうした文章も書いているのであろう。

  □ 「永田町」と「アカデミア」の架橋
 「一人の身分の卑しい男が、大胆にも君主の政治を論議したり、指図したりすることを出過ぎたことと取らないでいただきたいのです。それは、…民衆の性質を熟知しようとするには、君主の身になってみることが必要であり、君主の性質を熟知するには、民衆に身をおいてみることが、どうしても必要だからです」。
 政治学の古典である『君主論』は、二コロ・マキアヴェッリがロレンツォ・デ・メディチに献呈した書であったけれども、これは、その献辞の一節である。この『君主論』献辞の一説は、政治、あるいは統治と呼ばれる営みを語る際の作法を示唆している。「時に君主、時に民衆の立場に身を置く」というのが、その作法の一つなのである。
 因みに、過去四年半、筆者が本欄に寄せた十二編を含む自らの論稿を最も真面目に読んでもらいたいと願ったのは、小泉純一郎(内閣総理大臣)であった。しかし、それは、筆者が小泉に特段の期待や思い入れを持っているということではない。筆者は、前任総理の森喜朗の執政時には、森にこそ自らの論稿を読んでもらいたいと思っていた。筆者は、諸々の政策を論ずる際の基本的な姿勢とは、マキアヴェッリの例に倣うまでもなく、自らの構想なり政策を「君主」(宰相)に献言するというものでなければならないと信じている。「時に君主、時に民衆の立場に身を置く」というのが作法の一つたり得る所以は、そうした献言に際しては、「君主の立場」を理解しつつも、それを相対化できる感性が要請されるからである。
 実際のところは、政策の立案と遂行、あるいは広い意味での政治や統治という営みは、登山と趣きが似ている。登山の目的は、「山頂到達」(政策実現)であるけれども、それに至るまでには、登るべき山(政策目標の設定)の選定から始まり、登頂ルート(政策遂行の手順)の選定、装備(資金・スタッフ)の調達といった過程を経なければならない。そして、登山家(政治家)は、一合目から地道に体力(政治的な実力)と足許〈支持勢力・反対勢力の強弱〉に気を付け、気象変化(国際環境・世論動向)に注意しながら登っていかなければならない。「君主」が直面する「登山」の現実は、誠に地味にして気苦労の多いものなのである。
 しかしながら、そうした「登山」の現実は、中々、適切に世に伝えられない。しかも、「床屋政談」の言葉が暗示するように、政治を語る際には、特段の資格や見識が必要とされるとは意識されていない。また、特に日本では、学者やジャーナリストを初めとして広く論壇と呼ばれる空間に身を置く人々ですらも、その多くは、「登山」の現実を知らないし、知ろうともしない。そして、その「登山」の現実に耐えられない人々こそが、イデオロギーや観念を弄ぶようになる。そうであればこそ、「頂上まで一気にヘリコプターで乗り付けてしまえ」といった類の粗い議論が、往々にして横行する。こうした人々は、喩えていえば、テレビ画面を通じて「登山」の様子を観察しながら、気楽な論評を加えているのである。国際平和の実現のために「核兵器廃絶」を唱えた昔日の「進歩・左翼」知識層も、北朝鮮に絡む問題の解決のために「即時の対朝経済制裁の発動」を唱える現下の「保守・右翼」知識層も、その点は何ら変わりがない。我が国における政治評論の質が貧しいのは、それが「君主」への批判を専らにすると錯覚したことによって、「時に君主、時に民衆の立場に身を置く」という作法が踏まえられていないからである。「君主」は、「何でもできる存在」ではなく「できないことのほうが多い存在」であるけれども、そうした事情を無視し、専ら「民衆の立場」の感情を「君主」に向けること自らの「存在意義」としてきたのが、従来、「政治評論」を担った人々の大勢であった。
 一国における政治評論の質は、その国の「民主主義の成熟」の度合に影響を及ぼす。そうであればこそ、「時に君主、時に民衆の立場に身を置く」という作法を身に付けていくための条件は、整えられなければならない。「永田町の住人は永田町に、アカデミアの住人はアカデミアに」という諒解それ自体が、丸山真男によって「蛸壺社会」と呼ばれた様相の反映であり、「民主主義の成熟」の妨げになるのだということは、この際、指摘されてもよいであろう。
雑誌『中央公論』(2005年12月号)「時評2005」欄掲載

|

« 静かな一日 | Main | 「正論新風賞」のこと »

「学者生活」カテゴリの記事

Comments

民主主義の成熟,社会の成熟ともに現在の日本に必要なものです。今後もご活躍を。寒くて起きてしまいなかなか寝れません。名古屋は58年ぶりの大雪といいます。夏頃から寒波到来観測を聞きましたが、大変な冬です。

Posted by: 星の王子様 | December 20, 2005 at 02:28 AM

・星の王子様殿
とんでもない寒さになっていますね。
時節柄、御自愛の程を。

Posted by: 雪斎 | December 20, 2005 at 02:51 AM

10数年前の札幌時代の夢は、まさにかなえられつつありますね.素晴らしいことではないですか.私がお世話になった故高坂教授の名前が出ましたので、高坂先生が言われたことを、ちょっと思い出しました.「新聞や雑誌に評論を書くことはいいんだけど、テレビはなあ・・・.あれは気をつけなあかんなあ(京都弁).いろんな番組から声がかかるけど、何でも出てたら自分を見失うなあ.」
 雪斎さま、ご参考までに.

Posted by: M.N.生 | December 20, 2005 at 09:06 AM

σ(^_^;も夢をあきらめずにがんばらないと
ダメですね----田舎でその道のドンになる(笑

Posted by: おおみや%バイト君 | December 20, 2005 at 05:41 PM

>雪斎は、自分の存在証明を賭けて文章を書いている。
心に染みる言葉です。ご活躍を期待しております。
「登山」の現実をわかってもらうことは難しいのですが、蛸壺でブツクサ言っていても始まらないので、小生も微力ながら、という次第です。

Posted by: 副会長 | December 20, 2005 at 07:42 PM

私の場合、文章として考えを表現してしまうと、考えが死んでしまいます。死体を見ながら、自分の力量を思い知らされます。他方で死ほど確実なものはない。どんな稚拙な文章でも次の世界が見えてくるので不思議なものです。私は、死んで生きるみたいな感覚で文章を書いています。自分でも変てこな感覚ですが。まあ、「負けたから、休んでから次に行こうか」みたいなもんです。

雪斎先生が、「自分の存在証明を賭けて」文章を書く、あるいは「文章は血で書け」という感覚をもたれていることは深く理解できます。雪斎先生のお話を伺いながら、深く感銘を覚えた日を思い出します。もし、これほどの方が、「自分」や「血」を意識することなく、秘めている才能を自然にだされたら、どれほどのことになるのか、想像もつきません。天籟は、その資質のある方からしか発せられるものではありません。私が最大限、努力して人籟までゆけるかどうかということを自覚させてくださった方に託す思いはかくの如しです。

Posted by: Hache | December 20, 2005 at 11:56 PM

最後から2文目が変です。天籟は、その資質のある方からしか発することはできません。美しく、逞しく、のびやかな精神を発していただくことが、私の願いです。

Posted by: Hache | December 21, 2005 at 12:05 AM

・M.N生殿
 高坂先生は、「一度もお眼にかかることのできなかった師匠」でした。高坂先生のお言葉を紹介頂き、有難うございます。胸に刻みます。
・おおみや殿
「見果てぬ夢」…ですかな。
・副会長殿
よしなに。
・hache殿
原稿用紙一枚分を書くのに、二時間近くは掛かるという按配になれば、どうしても「血」で書く風情にはなってしまいますね。ありがとうございます。

Posted by: 雪斎 | December 21, 2005 at 03:22 AM

 体調、大丈夫ですか。心配してました。「正論」は特定の方向にかたまらなくてもいいと思いますよ。みんな同じだと、なにやら政治結社の機関紙になってしまいます。保守陣営の内部でなにかが起きていますな。その実態を客観的にみきわめるのは、これまた難事業。自身があるスタンスに立たないと、ものも書けないわけですから。「雪斎批判」を耳にはしますが、気にすることはありません。要は書いたもので勝負すればいいわけですから。評価は歴史が決めます。なーんて、かっこつけましたが、また。

Posted by: 花岡信昭 | December 21, 2005 at 05:19 AM

>しかも、「床屋政談」の言葉が暗示するように、政治を語る際には、特段の資格や見識が必要とされるとは意識されていない。

このところ、ずっと感じていたことでした。
「語る」だけなら、どんなに不勉強でも、見識がなくとも、それなりに格好が付いてしまうのが「政治のあり様を語る」ことではないかと思っておりました。

私には高校二年の息子がおります。
これからの時代を担う彼には、是非とも若いうちに、しっかりと勉強してもらいたいと、そう思っております。例えば経済、例えば法律(息子は文科系なもので)等、基礎がしっかりと学んでなければ大きく積み上がっていかない分野を、そして自分の専門分野をきちんと形作っていって欲しいと思うこの頃であります。

Posted by: るびい | December 21, 2005 at 07:01 PM

・花岡さん
お久しぶりです。
どんな原稿を書こうとも、「私は私」です。
・るびい殿
御子息には、「格好良い大人」に成られることを期待します。知識だけではなく、感性も意志も大事だと思います。

Posted by: 雪斎 | December 22, 2005 at 02:33 AM

>知識だけではなく、感性も意志も大事だと思います。

ありがとうございます。
この言葉、さりげなく「座右の銘」となる様、愚息に伝えて行きたいと思っております。

「寒波」と言う言葉を久々に聞いたような気がするこの冬ですが、御身、お大切に。

Posted by: るびい | December 22, 2005 at 06:13 AM

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/71618/7703520

Listed below are links to weblogs that reference 冬の日に…:

« 静かな一日 | Main | 「正論新風賞」のこと »