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December 28, 2005

本年最後のエントリー

■ 既に「永田町」は、先週末の時点で「年末モード」に入っている。それにつられて、雪斎も「年末モード」に突入である。明日以降、大晦日まで箱根で温泉に浸かりながら、養生する予定である。従って、このエントリーが本年最後のエントリーである。本年一年、多くのエントリーをお読み頂き、あるいはコメントを寄せて頂いた方々には、謝意を表する。

■ とある占いによれば、雪斎は本年と来年が「天中殺」である。確かに、「天中殺」に入っていることを感じさせる出来事は多い。こういう時節では、偉ぶらず大人しく振る舞っているのが、上策であろう。

■ 箱根に携えるのは、おそらくは読み残しにしていた洋書二、三冊である。多分、ジョージ・F・ケナンがナショナル・ウォー・カレッジ時代に行った講義録を中心に読むことになるであろう。『戦争一歩手前の手段』(Measures Short of War: George F Kennan at the National War College)と題された書は、冷戦史家として高名なジョン・ルイス・ギャディスが「『封じ込め』に関するケナンの合理付けが『X論文』や他の論稿よりも、はるかに完璧になされている」という趣旨の評を与えたものであるけれども、こういうものこそ、腰を落ち着けて読むに相応しい。
 マイケル・ジョセフ・スミスが著した『現実主義の国際政治思想』という書には、マックス・ウェーバー、エドワード・ハレット・カー、ハンス・モーゲンソー、ラインホールド・ニーバー、ジョージ・ケナン、ヘンリー・キッシンジャーの六名の「現実主義者の思想」が考察されているけれども、日本の「現実主義者」に最たる影響を与えたのは、ケナンであったような気がする。最晩年の故・高坂正堯先生は、ケナンの書の邦訳に解説を寄せていたことがあったし、永井陽之助先生の書にはケナンへの言及が見られる。ケナンが次第に「ハト派」として認識されるようになったのと同様に、高坂先生や永井先生は次第に「ハト派」的な色調を指摘されるようになった。砕けていえば、「『封じ込め』の闘士が、何時の間にか平和主義者かよ…」とは、ケナンに投げ付けられた揶揄であった。イラク戦争開戦の折のケナンのジョージ・ブッシュ政権批判は、『朝日新聞』や『しんぶん赤旗』が度々、紹介した。ケナンは、その趣味や信条、価値観において紛れもない「保守主義者」であったけれども、いわゆる「ネオ・コン」と呼ばれる人々とは相容れず、日本では「リベラリスト」とみなされていたのである。自ら「保守主義者」と称する人々に、「保守主義者」はいない。ケナンの言説は、そうしたことを実感させる。
 そのケナンも、本年三月に齢百一で鬼籍に入った。米国では、「最後の賢人」と呼ばれた人物である。

■ 「封じ込め」といえば、来年は、対中関係の運営が、ちょっとした関心事になるのであろう。

■ それでは。皆さん、佳き年をお迎え下さい。

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December 27, 2005

年の瀬の風景

■ 昨日夕刻以降、表参道駅近くのイタリアン・レストランでさくら殿と大手出版社新書担当T氏と懇談する。誠に有意義にして豊饒な時間が過ぎる。T氏は、国際政治学者M先生の新書を手掛けた人物である。雪斎は、M先生と考え方が近いので、こういう「縁」は有り難かった。雪斎にとっては、「政治のリアリティ」をきちんと弁えているという「共通の土俵」の上で議論できるのは重要なことなので、T氏との話は誠に楽しかった。さくら殿、懇談のセッッティングを有り難うございます。
 雪斎の理想とする知識人の「型」は、現在では、阿川尚之・慶応大学教授である。阿川先生は、元々はソニーに入社し、米国で弁護士資格を取得し、弁護士事務所に籍を置きながら慶応で教鞭をとった。その間、ワシントンの日本大使館で公使を務めている。「知米派」というカラーが阿川先生ほど相応しい人物はないかもしれない。学者、ビジネスマン、外交官、言論家という「多様性」を持てるというのは、誠に憧憬に値することである。
 昔日、今は財務官僚になった雪斎の旧友が、大学院進学を告げた雪斎に次のように語ったことがあった。「お前な…。いわゆる学者になるんじゃないぞ…」。その旧友の意図は、要するに、学界、メディア、政界、官界、財界などの世界を「主体的に浮動する」のが、望ましい姿というわけである。そういえば、その旧友は、東京大学時代は一科目の「良」以外は総て「優」であり、世が世なら「銀時計組」になっていたはずにもかかわらず、大学に残らずに官途に入った。「理屈」や「観念」の世界を嫌っていたのである。阿川先生にも、そういう姿から発せられる独特の雰囲気がある。雪斎も、その雰囲気を発せられるようには精進したいと思う。政界や官界とのヴィヴィッドな「接点」を持つに至った年の瀬に、そうしたことをふと思う。

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December 24, 2005

言論における「美しさ」とは…

■ 雪斎が故・高坂正堯教授や永井陽之助教授の影響を受けたことは、既に何度も書いている。ただし、高坂先生と永井先生のどちらも雪斎にとっては、「直接の師」ではない。永井先生には、学生時代以来、度々、お眼に掛かることができたけれども、高坂先生には、直に言葉を交わす機会を持たなかった。
 北大時代に最もお世話を頂いたのは、木村汎教授であった。木村先生は、京都大学では高坂先生と同じく猪木正道教授の門下であり、北大赴任が決まった折には、「永井先生の同僚になれるのか」と喜んだのだそうである。木村先生を通じて、雪斎は、高坂先生と永井先生の思考に間接的に触れていたのである。木村先生のソビエト現代政治の講義で忘れられないのが、「帝国主義打倒」などと書かれた北大構内の左翼過激派の立看板を引き合いに出して、「あれは美しくないのだな…」と漏らしていたことである。この言葉は、外川継男教授が19世紀のロシアの文化的な豊饒さを説いた講義の後では、かなり印象に残った。共産主義の精神は、ただ単に「美しくない」のが問題だと実感した瞬間であった。19世紀に、トルストイやドストエフスキーらの文学世界やチャイコフスキーらの芸術世界を生み出したロシアは、20世紀の共産主義体制下でまともなものを生み出さなかったのである。
 共産主義の体制の「理念」云々というよりも「美しくない」という点が、雪斎が「左翼的なるもの」に馴染めなかった理由であると気付いたのは、その後の雪斎の思想形成にlは大きな影響を与えた。

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December 23, 2005

ブログ開設から一年

■ 昨日午前、読売新聞・S記者の取材を受ける。読売紙面で雪斎の近況を紹介するとの趣旨である。

■ 昨日、とある雑誌から、皇位継承に関わる対談の依頼が入る。この依頼は、断ることにした。雪斎は、この件に関して私見を披露するのを今後、見合わせることにした。雪斎の私見は、既に披露したことが総てである。今後は、何を語っても、今までの議論の繰り返しになる。雪斎は、皇位継承は熱い議論の題材として相応しくないと書いたのであるから、今の雰囲気の中で何かを語っても、議論を熱くする方向にしか作用しないであろう。それは、誠に不本意なことであるという他はない。
 生前の坂本多加雄先生は、皇位継承に関する議論の折の「節度」を強調していた。こうした議論は、皇室の方々の御境涯に影響を及ぼすものである以上、そこでは「節度」が要請されるのは、当然なのである。また、坂本先生は、「男系男子」維持を声高に唱えていたわけではなく、女性天皇容認、女系天皇容認の場合の「条件」を冷静に指摘していた。そうした坂本先生の姿勢にこそ、雪斎は倣いたいと思っている。そういえば、坂本先生は、学習院大学という誠に独特な雰囲気を持つ空間で学者生活を送っていたのである。生身の皇室の方々に身近に接することも稀ではなかったはずの坂本先生の「含み」に、雪斎は惹かれる。

■、本日、拙ブログ「雪斎の随想録」を開設してから、一年目の節目を迎えた。訪問して頂いた方々には、謝意を表する。

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December 22, 2005

「正論新風賞」のこと

■ 一昨日夕刻、自民党本部で国防部会が開催される。議論の焦点は、来年度予算の話である。なかなか緻密な議論である。「これは、頭が疲れるな・・・」と思う。
 部会終了後、党本部の広報担当セクションで『月刊自由民主』担当のN氏と会話する。政権を握った政党の機関誌に、もう六年近くも原稿書いている以上、雪斎は、完全な「御用学者」と評されても、おかしくない。ただし、1930年代以降の英国では、かのハロルド・ラスキですら、「労働党のパンフレット・ライター」と揶揄されたし、ラスキの後任であったマイケル・オークショットは、「俗流バーク」と罵倒された。ラスキせよオークショットにせよ、政治学に触れたことのある人々なら誰でも知っている政治学者である。現実の政治を扱っている政治学者にたいして、「御用学者」云々の批判くらい馬鹿馬鹿しいものはない。村山富市内閣の折、雪斎の師、山口二郎教授は、村山内閣の下に馳せ参じた。山口教授は、雪斎とは政治的な立場を明らかに異にしているけれども、久々の社会党首班政権の「権力」には接近したのである。雪斎は、傍観者たることを潔しとしなかった山口教授の姿勢には敬意を払っている。
 夜、かんべえ殿を中心とする安全保障研究会に加わる。研究会での「中国原論」は誠に有意義だった。後の忘年会では…。「有馬記念」の日の中山競馬場の16万人分前売り券は、既に完売だそうである。これは凄い。

■ 昨日午前、自民党本部で外交部会が開催される。今の時分は、「予算の季節」である。午後、自主憲法制定国民会議の会合に加わる。「憲法改正」を旗印に掲げて活動してきた団体としては、最古参のものである。
 夕刻以降、産経新聞を訪れ、年末の挨拶をする。話題となったのは、やはり、雪斎が「正論」欄に載せた「皇位継承」論であった。あの論稿は、保守論壇の大勢の神経を逆撫でしたには違いないけれども、産経新聞にとっては、「有り難い論稿」であったようである、新聞は、機関紙や同人誌ではないのだから、多様な意見を意見を載せるのが、建前である。「男系男子」維持論一色で塗り固まるのも、その建前からは問題があるので、毛色の違う原稿を待っていたら、届いたのが雪斎の原稿だったわけである。「この毛色の原稿を今までに誰が書かなかったのですか」と尋ねたら、「雪斎さんが初めてですよ…。他の人々は書いてくれないのだから…」だそうである。結局、雪斎は、「保守論壇リングに乱入した「ザ・グレート・ムタ」をやってしまったわけである。他のレスラーは怒り心頭に達し、観客はブーイングの嵐になり、興行主は大いに喜ぶという具合である。
 もっとも、雪斎は、保守論壇には何の義理もないけれども、産経新聞には、過去八年近く「言論の場」を提供してもらった義理がある。「正論」欄原稿は、その産経新聞の論説委員長以下、数名の論説委員の人々の眼を経なければ、紙面に載ることはないのだから、それなりのハードルを経ているのである。こうしたハードルを経て載った原稿が、百十数編である。

■ 最近でも、かなり失望したニュースを紹介する。17日付「サンケイ・スポーツ」が配信した記事である。
 □ 「正論大賞」に藤岡信勝・拓殖大教授…歴史教科書作りに尽力
 フジサンケイグループは16日までに、自由と民主主義を守る最も卓越した言論人として、第21回正論大賞に藤岡信勝・拓殖大教授(62)を選んだ。第6回正論新風賞は該当者がなかった。

 雪斎が失望したのは、藤岡教授のことではなく、「第6回正論新風賞は該当者がなかった」という件である。というのも、雪斎が「第1回正論新風賞」受賞者なのだから、こういう企画の存続を願っているからである。ただし、こういう現状を見ると、「保守論壇」若手の発掘という作業は、難しいことなのではないかと思えてくる。
 産経新聞サイトによれば、 「正論新風賞」は、「2000年(平成12年)に制定され、21世紀の日本を担う新進気鋭、あるいは躍進著しい言論人を見いだし、顕彰するために設けられた年間賞です」と記されている。
 今年は、顕彰するに値する「新進気鋭、あるいは躍進著しい言論人」は、見出せなかったということである。

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December 20, 2005

冬の日に…

■ 寒い一日であった。都心でも氷点下寸前まで気温が下がったようである。もっとも、雪斎は、十数年前までは札幌に居たから、この寒さは、まだまだだろうと平然と構えるつもりであったけれども、流石に今日の寒さには、「オヨヨ」と思った。
 真冬になれば、部屋を真っ暗にしてグリーグのピアノ・コンチェルトを聴いていた「札幌の雪の日々」0のことを思い出す。当時の雪斎の「夢」は、故・高坂正堯教授や永井陽之助教授のように、自分の「政治評論」を発表する立場を得ることであった。もっとも、「夢は後ろ姿が美しい」という言葉にもあるように、夢は追いついて素顔を覗いてしまえば、かなり複雑な想いをさせられるものである。言論の世界は、難儀なことが多いものだと思う。
 ただし、雪斎は、自分の存在証明を賭けて文章を書いている。雪斎に直接に会った人々ならば判るけれども、、雪斎は、文章を書かなければ、社会的にはまったく活躍の余地のない存在である。大体、日々の日常生活にさえ色々と不都合を感じているのだから、困ったものである。
 だから、「文章は自分の血で書け」というフリードリッヒ・ニーチェの言葉には、かなり共感を覚えてきたものである。今は、ブログや活字媒体など書く舞台が色々とあるから、総ての文章を「血で書く」ことにはならないのであろう。それでも、活字媒体に出すものには、「血で書く」構えでやっている。ブログと活字媒体は、異なる舞台である。

■ 下掲は、『中央公論』「時評2005」欄に一年間、連載したものの最終原稿である。過去には北岡伸一、田中明彦、白石隆、渡辺昭夫、飯尾潤といった各先生が担当されていた同欄「政治」コラムを引き継いで執筆した日々は、誠に愛しき日々であった。先日、雪斎とともに同欄を担当した玄田有史・東京大学助教授と言葉を交わした折、雪斎からも玄田先生からも、「いやあ。大変でしたね…」という同じ言葉が漏れてきた。玄田先生といえば、「NEET」の言葉を日本に紹介した人物である。「終わってみると寂しい…」という認識でも一致した。
 最後の原稿は、雪斎の言論家としての立脚点を表明したようなものである。この立脚点を他の人々が共有しようとしまいと、雪斎には与り知らぬことである。生きていれば、おそらく三十年後も、こうした文章も書いているのであろう。

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December 18, 2005

静かな一日

■ この土曜、日曜両日は、「静かな時間」が流れている。金曜日に実に久方ぶりに産経新聞「正論」欄に原稿を寄せた。「正論」欄に初めて原稿を書いたのは、もう八年近く前である。それから書いた原稿は、既に百十編を超えた。「正論」欄に書いた多くの原稿の中でも、金曜日に載せたものは、えらく緊張度の高いものであったことは告白しておく。原稿を依頼されたのが、11月末のことだから、原稿提出までに二週間を費やしたことになる。この原稿執筆の過程では、事前に「産経の社論の基調と相容れない中身になると思うが、それでいいのか」と産経サイドの諒承を取り付けておいた。
 実際に書き始めてみれば、「ここまでは書いていいのか…」、「いや駄目だな。もう少し筆を抑えないと…」、「これで、いいでしょう…」、「いや…。かなり不安が残るな。この文章には…」、「…」、「…」という自問自答の過程が延々と続く。途中、高熱を発して機能停止に追い込まれながら、そうして二週間が過ぎた。コスト・パフォーマンスの観点からすれば、「最悪」の部類に属する原稿であった。皇位継承のことは軽々には論じられない。そうした想いがあれば、筆も口も重くなる。それでも、書いた。
 原稿それ自体に対する評価は、今のところ様々である。予想された筋からは予想されたような批判が飛んできている。この「想定の範囲内」の批判は、雪斎には率直に面白みを感じさせない。保守層にも、何時の間にか、定型的な議論がはびこるようになったということか。
 さる人物から告げられた。「読んだよ…。随分と微妙な書き方をしているな…」。雪斎は、「判りましたか…」と応じた。

■ 『月刊自由民主』への寄稿も、来年三月で七年目に突入である。雪斎は、小泉純一郎総理の「構造改革」路線を一貫して支持してきた。しかし、小泉総理の登場以前、自民党の勢いが地に堕ちていた時期から、雪斎は、自民党の「今後」を展望する原稿を寄せていた。雪斎への批判として、「小泉の権勢に擦り寄った奴」などという言葉を並べる向きがあるけれども、小渕恵三総理や森喜朗総理の執政期から自民党政治に寄り添ってきた雪斎にとっては、それは片腹痛い批判と評する他はない。
 対外政策の展開という観点からすれば、小渕恵三総理の「先見性」は、あらためて指摘するに値するであろう。雪斎にとっては恩師にあたる佐々木毅・東京大学総長(現学習院大学教授)が「読売論壇賞」を受賞した折、わざわざ授賞式会場に駆けつけて祝辞を述べていたのが、小渕総理であったのである。小渕総理は、「学者」を大事にした宰相である。小渕総理は、「シルク・ロード外交」の展開に際して秋野豊・筑波大学助教授の議論から示唆を受け、「太平洋フロンティア外交」の展開に際して川勝平太教授の議論に依ったとされている。この二つの対外政策機軸は、「対中牽制」の意味合いを含んでいたけれども、それは、小渕総理の急逝によって「未完の構想」のままに終わったのである。
 小泉総理の過去五年近くの対外政策は、それ以前から断絶しているわけではない。小渕総理の時代の外交機軸を若干、デフォルメしながら引き継いでいるのが、小泉外交の基調であろう。
 下掲は、『月刊自由民主』(12月号)に載せた今年最後の論稿である。今年一年の出来事は、折々に「人間万事、塞翁が馬」の故事を思い起こさせた。来年の年の暮れには、どのようなj時間が過ぎているのであろうか。

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December 17, 2005

産経「正論」欄原稿/皇位継承論

■ 世の中には、書く度ごとに、「もう、これ以上は…」という気にさせられる話題がある。雪斎にとっては、皇位継承もまた、そうした話題の一つである。「これは、吾輩の論ずる話題ではない」と思う。
 何故、雪斎がそのように思うのかといえば、雪斎が「何処ぞの馬の骨」に過ぎぬ身上であるからである。雪斎は、摂関家や清華家といった朝廷上流公卿層の末裔ではなく、近代宮中重臣層に連なるわけではない。そうした身上の分際で皇室の有り様を論ずるとは、率直に畏れ多いという想いがある。今、皇位継承の有り様を巡って色々な議論が成されているけれども、考えてみれば、「有識者会議」答申に反対する「男系男子」論者もまた、その多くが「何処ぞの馬の骨」に過ぎないのは、明らかである。雪斎は、そうした「何処ぞの馬の骨」に過ぎぬ人々が、何故、偉そうに振る舞っているのかと訝る。
 下掲の原稿は、昨日付『産経新聞』に掲載されたものである。この原稿には幾分かの原稿料が支払われるはずであるけれども、皇室をネタにして稼いだ原稿料それ自体も、自分の懐に入れてしまってよいものかと迷ったりする。

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December 15, 2005

通える夢は崑崙の高嶺の此方ゴビの原

■ 昨日、モンゴルについて書いたけれども、実際の動きは、かなり速く進んでいるようである。『読売』記事である。
 【クアラルンプール=尾山宏】小泉首相は13日、インドのシン首相とニュージーランドのクラーク首相とそれぞれ会談し、14日の第1回東アジア首脳会議(サミット)で議論される東アジア共同体の実現に向け、連携していくことで一致した。
 小泉首相はシン首相との会談で、「世界最大の民主主義国家のインドとの協力は、日本にとってプラスだ」と述べ、シン首相も「日本とは歴史的に争いがなく、国民も高く(日本を)評価している」と応じた。
 シン首相はまた、「日本との包括的な経済連携協定(EPA)を考えたい。海賊対策でも協力していきたい」と述べ、小泉首相も前向きな考えを示した。
 小泉首相はまた、カンボジアのフン・セン首相、ラオスのブンニャン首相、ベトナムのファン・バン・カイ首相との4者会談に臨み、3か国に対し、総額約220億円の新たな円借款と無償資金協力を約束した。

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December 12, 2005

復活したものの…

■ 一時の「絶不調」状態から復活したら、片付けなければならない原稿が、あちらこちらにある。とりあえず、二つを片付けて、まだ二つが残っている。
 ① 産経新聞「正論」欄
 ② 『月刊自由民主』「論壇」欄
 この内、①は、皇位継承に関する原稿である。「有識者会議」答申提出以降、この案件に関する議論は、明らかに仰々しいものになっているので、「そもそも、この案件は『熱い議論』の対象として相応しいものであろうか」という趣旨のことを述べておいた。
 ②は、日本の対モンゴル戦略に関する論稿である。モンゴルといえば、日本では、横綱・朝青龍の印象がかなり強くなっているけれども、モンゴルとの関係は、対中関係や対露関係をにらんで、重要な意味合いを持つことになるであろう。

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December 09, 2005

行く川の流れは…

■ 行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし。世の中にある人と住家と、またかくの如し。
 玉敷の都の中に、棟を竝べ甍を爭へる、尊き卑しき人の住居は、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年破れて今年は造り、あるは大家滅びて小家となる。住む人もこれにおなじ。處もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人二人なり。朝に死し、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。また知らず、假の宿り、誰がために心をなやまし、何によりてか目を悦ばしむる。その主人と住家と、無常を爭ひ去るさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花殘れり。殘るといへども朝日に枯れぬ。或は花は萎みて露なほ消えず。消えずといへどもゆふべを待つことなし。
       『方丈記』より

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December 05, 2005

高熱を発して…

■ 昨日、今日と高熱を発する。意識朦朧とした状態である。インフルエンザの予防接種を受け、「この冬は、もう安心であろう」と油断したが故の結果であろう。今日は、このあたりで。

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December 03, 2005

安倍晋三内閣官房長官の「進化」

■ 昨日、ホテル・オークラで株式会社文藝春秋の忘年会に加わる。雑誌『諸君』現編集長・元編集長、その他文藝春秋の経営幹部と言葉を交わす。他にも、筑摩書房編集者、産経新聞論説委員長と話をする。
 雪斎が「いやはや。最近は私も左傾化したといわれていまして….」と話したら、文春幹部から「そうかい。世の中全体が、右に寄っただけで、雪斎さんは全然、変わっていないけどな…」という言葉が返ってきた。そして、「もっとも、おかげで『諸君』はだいぶ、売れているけどな・・・」と止めの一言である。いやはや、有難うございます。お陰で、忘年会では旨いものをゴチにいなりました。

■ 安倍晋三内閣官房長官に関する二つの記事が、雪斎の関心を惹く。『共同通信』と『毎日新聞』が伝えたものである。

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December 01, 2005

『坂本多加雄選集』刊行

■ 「有識者会議」が「女子・女系による継承」の容認を打ち出したことは、特に「保守」層の反発を招いている。場違いな批判の中には、座長を務めた吉川弘之先生が機械工学専攻であることを指して、「ロボット工学者に皇室制度の何が判るのか」というものがある。しかし、吉川先生の肩書きは、「日本学術会議会長」であり、吉川先生は、全国の総ての学者を代表する形で「高度な常識」に基く所見の披露を要請されているのである。その点は、他の「有識者会議」メンバーについても同様である。たとえば、奥田禎・トヨタ会長は、経営上の専門知識ではなく、日本経団連会長として財界を代表する形で「高度な常識」の披露を期待されたわけである。逆にいえば、二、三の例外を除けば、「有識者会議」の人選は、そうした「高度な常識」の披露という意味において、かなる理にかなったものなのである。
 こうした事情は、「保守」層が、こうした場に人材を送り込めなかったことの意味を示唆している。 「保守層」の意見は、最近は、「学識に基く見解」というよりは、たんなる「プロパガンダ」や「アジテーション」の色彩を色濃くしている。これでは、「保守」層は尊敬されないし、その言説の影響力が狭まるのも当然である。
 もっとも、保守論壇の中でも、「有識者会議」に名を連ねるに相応しい人物の一人が、故・坂本多加雄教授であったのは、間違いないであろう。坂本先生のような人物が「有識者会議」にいなかったのは、残念なことであった。坂本先生ならば、政治的な立場を異にする人々ですらも、その学識には敬意を払っていたはずである。
 そうした坂本教授の論稿を収録した『坂本多加雄選集』が先頃、刊行された。下に紹介したのは、『産経新聞』に掲載された同署の書評である。雪斎にとっては、坂本先生は、知識人として憧憬の存在であった。

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