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November 25, 2005

自民党立党50年記念論文

■ 昨日のエントリーでも書いたけれども、雪斎は、自民党機関誌『月刊自由民主』に「立党50年記念論文」を寄稿した。「それは、どういう論文なのか」という声が聞こえてきそうである。この『月刊自由民主』という雑誌は、結構、中身が面白い雑誌である。ただし、政党の機関誌という性格上、この雑誌は、一般の書店では中々、見かけない。本来は、「雑誌を買って読んでください…」と呼び掛けなければならないけれども、自分の原稿に関する限りは、このタイミングで公開することにする。
 雪斎は、この雑誌では、普段、2000字程度のコラムを書いているけれども、折に触れて5000字くらいの原稿を依頼されることがある。だから、雪斎は、今月号では、記念論文とコラムの二編を寄稿した。「書き過ぎだろう」といわれれば、その通りかもしれない。
 雪斎が『月刊自由民主』に最初のコラムを執筆したのは、2000年4月であったと記憶する。その年6月の選挙で愛知和男代議士が落選し、雪斎も「永田町」を去った。雪斎は、かなり原理的な「構造改革」論者であるけれども、自民党の「底冷え」の時期にも森喜朗内閣に建言するコラムを書いていた。雪斎に関して、「小泉構造改革路線に擦り寄った奴」などという心得違いの評をする御仁がいるけれども、雪斎には、「何を言ってんだか…」という苦笑を禁じえない。
 それにしても、「自民党立党50年」という節目に「記念論文」を寄せることができたのは、雪斎には幸運なことであったと率直に思う。50年前の結党大会には、鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉、岸信介、大野伴睦といった大政治家の姿が壇上にあった。そうした群像が築いた政党の「半世紀」後に、雪斎は関わることができたのである。
 尚、雑誌『論座』来月号掲載予定の論稿は、この「記念論文」を下敷きにして倍近くに書き改めたものである。


 士やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして ― 山上憶良

 □ 自由民主党結党五十年記念論文 
  ― 「自由な民」を「主」とする政党への飛翔 ―

  一、高揚感の中で迎えた「節目」
 自由民主党は、未曾有の高揚感の中で結党半世紀の節目を迎えることになった。「九・一一」総選挙の結果は、衆議院全四八〇議席中二九六議席という圧倒的な勢力を自民党に与えた。「失われた十年」と呼ばれた一九九〇年代以降の経済停滞の時期は、既に終わろうとしている。結党以来の党是であった憲法典改訂も、具体的な中身を議論する段階に至っている。ただし、現下の情勢は、小泉純一郎(内閣総理大臣)が「自民党をぶっ潰す」と世に訴えながら、諸々の施策を進めた帰結である。小泉が潰した「自民党」とは、何であったのか。今、われわれの眼の前に登場している「自民党」とは、どのような政党なのであろうか。戦後未曾有の勢力を付与され、従来とは比較にならない程の国政上の責任を負託された今であればこそ、自民党には、このような省察が大事であろう。
  二、自民党の「過去」と「現在」の意味
 昭和三十年十一月十五日、当時の自由党と日本民主党とが合同して自由民主党が成立した。自民党は、「五五年体制」と呼ばれた保革対立の政治構図の中では、一貫して保守勢力」の利害や価値観を代弁する政党と位置付けられてきた。この「保守勢力」には、概ね次に挙げる三つの層が混在していた。
 第一は、「明治体制『正統』層」と呼ぶべき層である。明治以降、「富国強兵」の大義のもとで近代化を進めた層にとっては、「富国」を実現する経済活動の要請から、経済活動の自由や国際協調の確保は、当然の与件であった。従って、「明治体制『正統』層」にとっては、経済活動に統制が加えられる事態は、決して歓迎されることではなかった。実際、吉田茂は、一九三〇年代以降の日本の状況を「一時の変調」と認識した。「ミキモト・パール」の令名を世界に知らしめ、宮内省御用達の立場を得ていた御木本幸吉は、終戦直後、「これで真珠商売ができる」と喜んだ。ジョン・ダワーによれば、吉田が布いた戦後の「経済発展優先路線」ですらも、経済を軸とした「帝国」の再生と考えられたのである。こうした路線にあっては、国富の増大は、政策の目標になり得るけれども、後に触れる社会的な「格差」の是正は、一義的な関心を呼ばなかった。現在、小泉純一郎が推し進める「構造改革路線」には、「格差」の拡大を招くという批判が向けられるけれども、特に一九三〇年代以前の日本の社会は、一定の水準の「格差」を当然のように存在させていたのである。
 第二は、「『一九四〇年体制』寄生層」と呼ぶべき層である。一九三〇年代以降、戦争に伴う「国家総動員」の必要に応ずる形で、国民生活の平準化と国家管理が進められた。野口悠紀雄は、そうした社会の様相を「一九四〇年体制」と呼んだ。「一九四〇年体制」は、実は戦後に至っても存続し、「世界で最も成功した社会主義国家」と揶揄された戦後・日本の様相を形作っていたのである。日本の国家予算一般歳出の中で最たる位置を占めてきたのが、社会保障関係費であり、それを所管していた厚生省という官庁それ自体が、一九三〇年代以降の戦時体制下の所産であったという事実は、戦後に存続した「一九四〇年体制」の磐石さを象徴的に示しているのである。田中角栄は、戦後に特徴的な政治家であるという印象を与えられているけれども、その政治手法は、「一九四〇年体制」が構築した「大きい政府」の存在を前提としていた。田中は、戦時中から進められた社会階層の平準化を戦後の「中央―地方」関係においても推し進めようとしたのである。こうした田中の手法は、確かに「地方」には受け容れられた。そうであればこそ、田中以後の政界においては、「富の還流」を通じて「中央―地方」関係の平準化に携わることを自らの主務と位置付ける政治家が続々と登場した。このことは、確かに「地方」での自民党の支持基盤を固めるのには寄与したけれども、その反面では、「自民党は『中央』、あるいは都市部では勝てない」という状況を出現させたのである。
 第三は、「民族主義者」層である。日本の戦後は、米国による占領に始まり、日米安保体制の下で終始一貫して米国の「ジュニア・パートナー」としての歩みを刻んだ歳月であった。こうした歳月は、戦前期に「親英米派」と呼ばれた人士の多い「明治体制『正統』層」にとっては、然程、違和感を覚えるものではなかったかもしれないけれども、「民族主義者」層には、内心、忸怩たる想いを抱かせるものであった。特に国家基本法典たる日本国憲法の制定に米国の関与があったという事情は、それが明治憲法の改正という体裁を採ったにせよ、国家や民族の「威信」や「自立」といった要件を重視する「民族主義者」層には誠に芳しからざるものとして認識されていたはずである。久しい間、自主憲法制定が「民族主義者」層の悲願と位置付けられてきたのは、その辺りの事情を踏まえると何の不思議もない。そして、自由党と民主党による「保守合同」の大義の一つが、自主憲法制定であったという事実は、自民党を彩った民族主義の性格を物語っているのである。
 この三つの層は、「五五年体制」の下では誠に幸福な共存関係を成していた。これらの層にとっては、共通の脅威として認識されたのは、ソヴィエト共産主義体制であったけれども、その消滅以後には、三つの層の差異が白日の下に晒されることになった。
 小泉純一郎が過去四年半近くの執政の中で推し進めたのは、結局のところは、自民党を「明治体制『正統』層」主体の政党に模様変えすることであった。小泉が「抵抗勢力」と呼んで批判を加えた層は、特に田中角栄以後に自民党の主流を占めた「『一九四〇年体制』寄生層」に他ならなかったのである。道路公団分割民営化や郵政民営化といった施策の展開は、戦後も存続した「『一九四〇年体制』寄生層」の拠る基盤を切り崩すことを意味していた。このように考えれば、「九・一一」総選挙に至る「郵政政局」の過程とは、「明治体制『正統』層」と「『一九四〇年体制』寄生層」の相克の過程であったといえるであろう。小泉は、神奈川・横須賀出身という出自の上でも、大蔵官僚出身の福田赳夫の書生から出発したという政治的な来歴の上でも、「明治体制『正統』層」の系譜に連なり得たとしても、「『一九四〇年体制』寄生層」たり得なかった。というのも、小泉の政策志向は、多分に「独立自尊の気風」を反映するものであったからである。こうした自民党内における二つの層の相克に一応の決着を付けたのが、「九・一一」総選挙の意義である。それは、自民党という政党の性格の変容を示すという意味においては、二九六議席獲得という表面的な事象以上に着目されるべきことであろう。
  三、自民党の「未来」の課題
 もし、今後の自民党が「明治体制『正統』層」主体の政党として存続するならば、その政策展開の際に留意されるべきは、次の二つである。
 第一に、今後の自民党の展開する政策は、人々の自由な活動を奨励し、それを支援することに主眼が置かれなければならない。無論、既に触れたように、こうした性格の政策展開には、「格差」の拡大を招くという批判が向けられるものである。けれども、何時の時代においても、諸々の国内施策の本質は、その時々の経済上の実力や社会上の活力を、どのように保つかということに他ならない。そうした社会上の「活力」を前提にしてこそ、どのように対外的な影響力を発揮し対内的な「公正」を確保するかという議論が、始められるのである。特に二十世紀初頭以降、マルクス・レーニン主義の影響力を意識される中では、多くの国々で「平等」を念頭に置いた施策が半ば強迫観念の如く行われたけれども、それは、実際には無理を伴うものであった。マーガレット・サッチャーが喝破したように、「富める者を貧しくすることによって、貧しい者を豊かにすることはできない」のである。
 第二に、自民党の展開する政策は、人々の自由な活動を奨励し、それを支援することに主眼が置かれるものである以上、そこにイデオロギーや観念が紛れ込む弊は、避けなければならない。
 一般論としていえば、政策の立案と遂行、あるいは広い意味での政治という営みは、登山と趣きが似ている。登山の目的は、「山頂到達」(政策実現)であるけれども、それに至るまでには、登るべき山(政策目標の設定)の選定から始まり、登頂ルート(政策遂行の手順)の選定、装備(資金・スタッフ)の調達といった過程を経なければならない。そして、登山家(政治家)は、一合目から地道に体力(政治的な実力)と足許〈支持勢力・反対勢力の強弱〉に気を付け、気象変化(国際環境・世論動向)に注意しながら登っていかなければならない。特に日本では、学者やジャーナリストを初めとして広く論壇と呼ばれる空間に身を置く人々の多くは、「登山」の現実を知らないし、知ろうともしない。つまり、その「登山」の現実に耐えられない人々こそが、イデオロギーや観念を弄ぶようになる。そうであればこそ、「頂上まで一気にヘリコプターで乗り付けてしまえ」といった類の粗い議論が、横行する。彼らは、「登山」の様子をテレビ画面を通じて見ながら、気楽に論評しているのである。国際平和の実現のために「核兵器廃絶」を唱えた昔日の進歩・左翼知識層も、北朝鮮に絡む問題の解決のために「即時の対朝経済制裁の発動」を唱える現下の保守・右翼知識層も、その点は何ら変わりがない。
 自民党が何らかの政策展開に行き詰った折に用心しなければならないのは、そうしたイデオロギーや観念の「罠」にはまらないことである。従来、自民党は、保守層の利害や価値観を代弁してきたけれども、それが教条主義的な色彩を帯びるようになれば、人々の「自由」の条件を損ねることになるであろう。そして、イデオロギーや観念に囚われた政党の末路が、どのようなものであるかは、指摘するまでもないことである。
  四、「『自由な民』を『主』とする政党」への疾走
 自由民主党は、自由党と日本民主党の合同によって成った来歴が暗示するように、政治上の価値としての「自由」と「民主主義」を標榜する政党であった。ただし、ここで陳腐な言葉遊びを弄するならば、今後の自民党は、その「自由と民主主義の政党」というよりは、「『自由な民』を『主』とする政党」(party based on free people)としての相貌を鮮明に打ち出すべきであろう。
 現代日本の多くの人々は、昔日とは異なり、血縁や地縁が絡んだ濃密な人的ネットワークの中で生を送っているわけではない。社会学の古典と位置付けられる『孤独な群集』を著わしたデーヴィッド・リースマンの議論に倣えば、「九・一一」総選挙に際して大挙して自民党に票を投じた都市居住層は、本質的に「自由にして孤独な人々」なのである。さらにいえば、「九・一一」総選挙の結果は、「自由にして孤独な人々」の「乾いた選択」の招いたものなのである。
 「自由にして孤独な人々」の姿を念頭に置いて政策を展開することは、実際には難しい。というのも、こうした人々は、「情」によって動かせる類の人々ではない以上、些細な政策展開の失敗が支持の離反に結び付く怖れは、多分にあるからである。そうであるならば、「九・一一」総選挙の大勝は、自民党にとっては、「試練の始まり」を意味するかもしれない。イデオロギーや教条主義、あるいは観念に寄り掛かった「粗い統治」ではなく、こうした「自由にして孤独な人々」の要請に沿った「繊細な統治」こそが、自民党に期待される。それは、取り組むに値する作業である。
  『月刊自由民主』(2005年12月号)掲載

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Comments

筋違いのコメントですが、先日久しぶりに彼の朝日新聞を目にする機会がありました。国際面を見ると、スイスが常任理事国の拒否権の無力化を訴えたところ、思いがけない支持が集まりそうな見込みとか。
民主的な選挙のプロセスを経ない政権が支配するかの国が、常任理事国として覇を振るう国連の在りようを見ると、些か興味深いものを感じます。壁に当たっている日本の常任理事国入りと絡め、何か戦術的な対応を取れると面白いなどと愚考いたします。素人考えにすぎませんが・・・

Posted by: 小規模投資家@何とか含み益 | November 26, 2005 at 11:36 AM

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