« 2005年の阪神優勝 | Main | Where have you gone, Joe DiMaggio, »

October 01, 2005

ドグマティズムという「敵」

■  Apple社CEOスティーブ・ジョブズ氏が、6月12日にスタンフォード大学卒業式で行った卒業祝賀スピーチの全文を記したメールが、雪斎のところにも転載されてきた。同じメールが、かんべえ殿のところにも回っていたようである。
 ジョブズ氏のスピーチの中で、最も気に入ったのが、次の一節である。

 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られては いけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

 ドグマティズム(教条主義)は、人間の総ての知的活動に「弊害」を及ぼすものである。人間の知的活動は、ドグマティズムに染まった瞬間に、狭隘にして異形なものになる。「ドグマという罠に、絡め取られれれば…、自分の内なる声、心、直感が掻き消される」というのは、その通りなのである。
 二十世紀の世界を動かした最大のドグマティズムは、マルクス・レーニン主義であろう。このマルクス・レーニン主義が何故、影響力を持ったかといえば、それが「判りやすい」ものであったからである。世の中にある「貧困」や「不正義」といった矛盾が、「富者が貧者を搾取する」構造に拠るものであり、その構造を打破するためには、「賓者が権力を掌握しなければならない」という議論は、冷静に判断すれば、単純この上ないものである。しかし、世の中の矛盾に義憤を感じ始める頃の年代の若者にとっては、そうした議論は、単純であるが故に食い付き易いものであった。しかも、そうした議論に走る人々は、知的能力が高いと自認していたから、「貧者は無知蒙昧であるから、特定の意識ある人々が『前衛』として指導する」といった発想は、彼らの生硬なエリート意識を満たすのには、うってつけのものであったろう。その意味では、マルクス・レーニン主義は、「一・五流の未成熟な若き知的エリート」には、誠に都合のよい発想だったのである。そして、そうした人々は、「他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていく」羽目になった。1970年代には、そうした若者が、あちらこちらに見られた。
 無論、現在の保守論壇にも、、「他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていいる」人々がいる。そうした人々は、雪斎の観たところ、三島由紀夫や福田恆存といった辺りの昔日の文学者のエピゴーネンに過ぎないことが多い。また、現在の日本の抱える問題の根源にマルクス主義の残滓があると唱え、そうした残滓を一掃しようとすることに熱心な人々もいる。結局のところ、現在の保守論壇は、ドグマティズムの色合いを濃くしているのであり、雪斎は、そのドグマティズムの傾向を嫌ったが故に、保守論壇から距離を置いた。雪斎の見たところ、現下の保守論客の多くは、「裏返しの共産主義者」なのである。
 政治、外交、ビジネスの現場に身を置く人々にとっては、ドグマティズムは、明らかな「敵」である。だから、雪斎は、一般に学者・評論家と呼ばれる人々よりも、そうした実務の世界で活躍している人々の話の方が、多くの知的刺激を与えてくれていると思っている。そこでは、真っ先に問われるのは、レーニンの書名にあるような「何を為すべきか」ではなく、「何ができるか」である。マックス・ウェーバーは、政治に関して、「情熱 と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いて いく作業」と評したけれども、そうした姿勢は、外交の領域でもビジネスの領域でも、当てはまる。雪斎は、「堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いて いく作業」に耐えられない人々こそが、「右」と「左」のドグマティズムに走るのではないかと読んでいる。
 因みに、本多静六は、戦前期に造林学の権威として東京帝国大学教授を務める傍ら、巨財を成した人物として知られているけれども、本多が著わした『私の生活流儀』には、次のような記述がある。
 「どんな小さな理想でもよろしい、それがひとたび実現すれば、もはやそれはその人の人生の現実となる。しかも、その現実を土台として、第二のより高き理想が生まれてくる」。物事を「観念」で語ることをしなかった人物の言葉である。冒頭のスティーブ・ジョブズ氏のスピーチに重ね合わせると誠に味わい深い。

|

« 2005年の阪神優勝 | Main | Where have you gone, Joe DiMaggio, »

「学者生活」カテゴリの記事

Comments

イズムに限らず、偉い先生の言ったこと、
何かの本に書いてあったこと、ドグマに
なりうるものは様々あると思います。
でも、こう考えてみると、σ(^_^;のいる
分野でも、ドグマにとらわれてしまう、
ってなことは十分ありうるので、よくよく
気をつけねばならんなぁ、と思います。

Posted by: おおみや%バイト君 | October 01, 2005 at 09:16 PM

70年安保のころイデオロギーを振りかざして学生運動をしている同級生に違和感を感じていた。世の中そんなに単純ではないかろう、と。正義と悪という2元対立構造を認めてしまうと、行き着く先はフランス革命と同じく殺し合いにまで発展してしまう。
ところで、こういうのはドグマになるのでしょうか?
「生命憲章」
http://www.goipeace.or.jp/japanese/declaration/index2.html

Posted by: 笛吹童爺 | October 02, 2005 at 12:54 AM

15年ほど前の話です。
三浦半島の小さな新興住宅地に住んでいた私は、子供が1歳を過ぎた頃、加入のお誘いを受け、「生活クラブ生協」に入りました。
今は知りませんが、食品等、各自自由に購入希望を出せるわけではなく、必ず班会議に出席し、例えば牛肉でも豚肉でもバラ肉、ヒレ肉は、班員がその希望のある無しに関係なく、順番に買っていく約束でした。豚でも牛でも「一頭買い」をすると言う原則があったので、一つの班からヒレばかり何人も購入希望者が出たり、バラを希望する人が皆無ということではいけなかったからです。

全てがこういう感じでした。
品質の良い安全な食品を買い、また市場原理を度外視してまでも、その意志を尊重してくれる生産地を応援するために、頑張って買い支えなければ…という強い意志、これも一種の「教条主義」ではなかったでしょうか。

しかし生産地はしたたかでした。
一般よりも高値で販売していた国産無農薬レモンの生産地が、より良い条件で普通の市場へ流すことを決めたのです。
「私たちはどんなに価格が納得できなくても買い支えたのに、一体どういうことなの」と、いきり立ったのは、当人も高学歴で、一流企業勤務の夫を持ち、「金妻」の様な洒落た一戸建てに住む、団塊専業主婦です。殆んどのメンバーが、そういう感じの主婦でした。

地元の公立小学校の栄養士を招き、「食の安全」勉強会を主催して、その栄養士を激怒させて帰らせたこともありました。
決まった予算、スタッフ、設備の中で、日々努力している栄養士を「学校給食は安全なのか?添加物や農薬についてはどう考えているのか」などと無邪気に詰問し、勉強会なんだか吊るし上げなんだか判らなくした彼女達は、浮世離れした典型的な「教条主義者」だったと、そう思います。
「安心した食を手に入れるためには、政治を変えなければ無理」と、衆院選に候補者を出したのも、生活クラブです。
今、神奈川ネットと言われているのは、そこから出発している団体でしょうか。

団塊から10歳ほど若い私は、とにかく何も出来ず、話せず、傍観していました。
「小さい子供がいるお母さん達、誘って」と言われ連れて行った公園仲間がいたのですが、生活クラブの、「高学歴、高収入、何か社会参加したい」という空気に馴染めず、出て行きました。
ある程度小金持ちでなければ、あんな高い食品を買い続けることは出来ません。
私も生活クラブとは最小限のお付き合いで、近所の「安い生協」(スーパーより安かった)で、補強してました。

70年代の、イデオロギーに振り回されて挫折した女子大生達が、こういう形で社会参加してたわけですね。パートに出るでもなく一生懸命「学習」すること、子供の教育にエネルギーを使うことで発散していた彼女達、今はどうしているでしょう。
「改革」「規制緩和」「小さな政府」「市場原理」等について、意見を聞いて見たい気もします。

Posted by: るびい | October 02, 2005 at 10:57 AM

・おおみや殿
祝、「バイト君」昇格。更なる精進を。
・笛吹童爺殿
ご指摘の「憲章」は、それだけではドグマティズムを呼ぶことはないと思いますが、それを絶対視しはじめると、途端にドグマティズムの色合いを濃くする。そういうものでしょう。
・るびい殿
 おめでとうございます。貴殿が通算1000件目のコメント入れて下さいました。といっても、何も差し上げられませんが…。
 ところで、ロシア革命の指導層がインテリであったことに垣間見られるように、教条主義に走る人々の特徴は、「生活に余裕がある」(貧しければ、背に腹は換えられないの論理でなんでもやる)、「真面目で知的能力が高い」、「善意はどこでも通用すると考える」、「その反面、偏狭、傲慢である」というものだと思います。貴殿が昔、見た人々のイメージそのままですね。
 因みに、拙者は授業中に「レーザーラモンHG」や「インリン・オブ・ジョイトイ」をネタに話をするぐらい、不真面目な「大学の先生」をやっていますので、余り誉められたものではないかもしれません。ただし、こういう不真面目さは、「教条主義」への防波堤になり得ます。「遊ばなければ…」と思うのですよ。

Posted by: 雪斎 | October 02, 2005 at 06:01 PM

まさか雪斎先生の口からHGの名が出るとは、と驚きました。PCの画面の前で、フォォー!と叫びました(笑)

Posted by: やすゆき | October 02, 2005 at 06:44 PM

「ドグマ」を警戒しなければならないのは、真剣に物事に取り組んでいる方の世界の話だと思います。私みたいにもう少し真面目に行きなさいと自分で自分に言い聞かせないとまずい人間の世界で警戒しなければならないのは「マンネリ」です。よってジョブズ氏みたいな偉い方の話はあまり参考にならなかったりします。

もう10年以上も昔でしょうか、ケインジアンでならした先生に「君のイデオロギーはなんだ」と問われて閉口しました。「うーん」となりながら思わず「私は私です」と答えたら、大笑いされてしまいました。私としては真剣に答えたので不服ではありましたが、それ以来、お世話をしていただいて恐縮しました。ドグマに囚われて不自由になる人もいれば、ある理想に奉仕することで自由になる人もいるのでしょう。人生いろいろです。

正直に言って保守論客の文章の多くは読んでおもしろいとは思わないのですが、「郵政民営化よりももっと重要なことがあるから異論はあっても賛成すべし」というなんとも薄情な文章に接する機会があるので保守論壇は捨てがたい魅力があります。もっとも、真剣に考えなければならな問題に肩の力を抜いて答えるには個人の素養・鍛錬が不可欠で「保守」、「リベラル」という枠ではどうにもならないのでしょうが。

Posted by: Hache | October 02, 2005 at 07:49 PM

政治学的にいえば、「個の共鳴」を待つということでしょうか?個から離れたある程度公的な諸問題に対してわざわざ想いを馳せる人々が、ある程度の共通意思を形成することは、実は単純なことだと思います。コミュニケーションがあればいいことですから。しかし、その媒体たろうとする「もの」が必ず主導権を握ろうとしますね。

Posted by: ちびた | October 03, 2005 at 05:25 PM

雪斎 様
先日はコメントありがとうございます。
「ドグマティズムという敵」大変面白く拝見いたしました。私は「対抗**」である限りは、その相手を超えることはできない、と思いますので、私なりご説は腑に落ちるような気がしつつ読ませていただきました。

ただ、私は「ドクマティズム」として否定されている存在として、特定の「主義」より「官僚主義」を感じていました。
正邪の定義も頭の使い方(考え方)も物事の進め方も、「あらかじめ定められた」通りに行う、行わねばならないという官僚制度とそれに人間を適合させる仕組みたる「受験型教育・選抜制度」へのアンチテーゼとしてのジョブス像が頭に浮かんでいました。
世界は、「あらかじめ定められた通り」に進められることなんかないし、「あらかじめ定められている」と我々が思っていることなんて殆ど無意味だよ、と若者に呼びかけるジョブス像です。

Posted by: KU | October 03, 2005 at 09:56 PM

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/71618/6153028

Listed below are links to weblogs that reference ドグマティズムという「敵」:

« 2005年の阪神優勝 | Main | Where have you gone, Joe DiMaggio, »