« 前原誠司・民主党新代表の「主導権」 | Main | 十年一昔 »

September 21, 2005

何時か来た道

■ 後藤田正晴氏が亡くなった。雪斎が最も尊敬していた政治家の一人であった。「朝日」と「読売」は、次のような記事を載せている。

  □ 最後まで貫いた「非戦」 亡くなった後藤田元副総理
 19日、死去した後藤田正晴氏(91)には、二つの顔があった。警察官僚トップ出身で「カミソリ」と恐れられる一方、晩年は、憲法改正や自衛隊の海外派遣に慎重なハト派保守政治家の代表的存在だった。戦争体験を持たず、改憲を志向する若手政治家が与野党を超えて増える中、後藤田氏の死去は政治家の世代交代を改めて印象づけた。
 「国民全体が保守化し、政治家がナショナリズムをあおる。大変な過ちを犯している。アジア近隣諸国との友好こそが大事なことだ」
 今年7月、朝日新聞のインタビューに応じた後藤田氏は、小泉首相の靖国神社参拝を機に近隣諸国との関係が揺らいでいることを危惧(きぐ)した。
 40年に陸軍に入り、主計将校として台湾で終戦を迎えた。戦争体験に基づく「非戦」の思いが、後に安保・防衛政策で穏健な立場を主張する原点だった。
 「戦争の覚悟はあるのか。私はサインしない」。87年には、ペルシャ湾に海上自衛隊の掃海艇を派遣しようとした中曽根首相に、そう迫り断念させた。96年の朝日新聞紙面では「武力によって他国民、他民族を従わせることはできない。ぼくは加害者の立場の経験を持っているから」と語っている。
 復員後、内務省に復職。警察畑を歩み、警察庁長官時代、よど号ハイジャック事件や連合赤軍のあさま山荘立てこもり事件などを処理した。72年、田中内閣で官僚組織トップの官房副長官に就き、その後、政界に身を投じた。
 96年の政界引退後も積極的な発言を続けた。かつて仕えた中曽根氏が会長を務める世界平和研究所が今年1月、独自の憲法改正案を発表すると、「自衛隊の国際活動を認めるならば、海外で武力行使はしないことを明記してもらいたい」と注文をつけた。


  □ 後藤田元副総理が死去
 官房長官や副総理を歴任し、「カミソリ」の異名をとった後藤田正晴(ごとうだ・まさはる)氏が19日午後8時53分、肺炎のため都内の順天堂医院で死去した。91歳だった。
 告別式は21日午前、故人の遺志により、近親者のみで行われた。後日、「お別れの会」を東京と徳島で行う。喪主は妻、松子(まつこ)さん。自宅は東京都渋谷区広尾4の1の17の506。
 後藤田氏は、徳島県生まれで、1939年に東大法学部を卒業し、旧内務省入り。警察庁長官、田中内閣の官房副長官を経て、76年の衆院選で、自民党から旧徳島全県区に出馬し、初当選した。
 79年には、当選2回で大平内閣の自治相・北海道開発庁長官に抜てきされた。82年に発足した中曽根内閣では、官房長官や総務庁長官など、5年間にわたって閣僚に起用された。「戦後政治の総決算」を掲げた同内閣の中枢として、行財政改革を推進した。また、危機管理のスペシャリストとして大韓航空機事件の処理などに手腕を発揮した。
 92年12月、宮沢内閣の法相に就任し、93年4月からは副総理を兼任した。自民党政治改革委員会会長、政治改革本部長代理などを務め、衆院選挙制度の見直しなどを柱とする政治改革の実現に情熱を傾けた。
 また、自民党護憲派の重鎮として、自衛隊の海外派遣などに慎重な姿勢を示した。
 後藤田氏は、警察官僚として培った情報収集力と官僚操縦術に定評があった。当選7回を重ね、96年に政界を引退した。
 引退後は都内に事務所を構え、活発に講演活動などをしていたが、今年夏に体調を崩していた。自民党の後藤田正純衆院議員は、正晴氏の兄の孫。

 後藤田氏は、雪斎にとっては、「政治の酷薄さ」を最初におしえてくれた人物である。大韓航空機撃墜事件の折、後藤田氏の表情は、「政治とは、これほどまでに厳しい表情でやるのか」と思わせるものであった。そういえば、塩野七生氏は、後藤田氏と親しかったはずである。塩野氏は、後藤田氏を「現代日本に生きるニコロ・・マキアヴェッリ」と思っていたようである。そうした類推は、雪斎には納得のいくものであったのである。。
 後藤田氏は、戦後の政治家の中では、国家の持つ「暴力装置」に手を掛けることの必要性と危険とを熟知した人物として、稀有の存在であった。「カミソリ」と「ハト派」は矛盾しないのである。雪斎は、憲法典第九条が改正された暁には、「ハト派」に転向するつもりでいるけれも、そうした感性を教えてくれたのが、後藤田氏であったのである。目下の威勢の良いだけの「保守・右翼」論客は、「国家の暴力装置」に手を掛ける緊張感とは無縁でいられるという意味において、「平和」の言葉を振り回す「進歩・左翼」論客と大差ないのである。
 後藤田氏の御冥福をお祈りしたい。

■ 愛知和男氏の復活当選に伴い、雪斎もまた、氏の政策担当秘書として「永田町」に復帰することになった。世の中には、「あるはずもないこと」が往々に起こるものであるけれども、雪斎の「永田町」復帰もまた、「あるはずもないこと」の一つである。
 大学での学生の教育を放り出すわけにはいかないので、大学専任講師と政策担当秘書を兼務することになる。今までの二倍の量で働くわけである。
 今日も、午前中大学で授業をやって、昼刻以降、早速、愛知代議士と協議し、具体的な仕事の手順を考える。代議士からは、話の最後に「昔よりも働いてもらうからな」と申し渡される。最初の仕事の中身は、かなり「難物」だな。それでも、いろいろと考える。
 「吹けよ風。呼べよ嵐」。また「激しい日々」の始まりである。

■ 従って、このブログもサブタイトルを「永田町とアカデミアを往ったり来たり」と変更させて頂くことにする。「戯言」を気楽に書いていて済む立場でもなくなったので、書き方も、今までの体裁と同じというわけにはいかないであろうけれども、できるだけ「読む価値のある」エントリーを用意したいと思う。

|

« 前原誠司・民主党新代表の「主導権」 | Main | 十年一昔 »

「学者生活」カテゴリの記事

Comments

いつも興味深く拝見させて頂いております。
政策秘書復帰おめでとうございます。
色々新たなポジションからの新しい視点を楽しみにしております。
二本立ての仕事、激務でしょうから更新頻度を下げてでもどうかご自愛下さい。
愛知氏の参加する造反議員に関する審議、雪斎殿のコメント楽しみにしています。

Posted by: mimiga | September 21, 2005 at 09:22 PM

 大変お疲れさまです。
 我が国をよろしくお願いいたします。

Posted by: 這い寄る混沌 | September 21, 2005 at 09:54 PM

貴blogを拝読させていただいた限りで、σ(^_^;
的に「雪斎先生は永田町に戻るんだろうな....」
と予想しておりましたので、案の定だなぁ、と
思った次第です。
学者として、実際の「政治」なfieldにて何を
見て、何を考えたか、ってなところを、政治
家秘書としてのコメント以上に期待していたり
します。ご健闘をお祈りいたします。

(追伸)という訳で(!?)、弊駄文集からのリンクを
貴blogに張らせていただきたく思うのですが、
よろしいでしょうか?

Posted by: おおみや%NEET | September 21, 2005 at 11:29 PM

それにしても、人ってのは自分の見たいところ
しか見えないもんなんですかねぇ、と両新聞の
訃報を見て思いました。

Posted by: おおみや%NEET | September 21, 2005 at 11:57 PM

「現代日本のマキアヴェッリ」は、亡くなった方への最高の追悼でしょう。「タカ派」と「ハト派」の違いは、あるレベルまでは感情、あるレベルまでは政策論、最終的には価値観なのでしょうか。私の手にはあまる問題で、遠くに薄ぼんやりと見える感じです。

マキアヴェッリは、やむをえず不遇をかこったために、私たちは活字から彼の思考の一端を知るという幸運に恵まれました。雪斎先生の「幸運」が私たちの「不遇」となるのでしょうか。もっとも、マキアヴェッリは自分の考えを言論としてではなく、行動として表現することを望んだのでしょうが。正確な記録とともに。

Posted by: Hache | September 22, 2005 at 02:47 AM

>「戦争の覚悟はあるのか。私はサインしない」。87年には、ペルシャ湾に海上自衛隊の掃海艇を派遣しようとした中曽根首相に、そう迫り断念させた。
>96年の朝日新聞紙面では「武力によって他国民、他民族を従わせることはできない。ぼくは加害者の立場の経験を持っているから」と語っている。

なんて言うか、いかにも「日本の優秀な国家官僚」の域を出なかったというべきでしょうか。
頭脳明晰だし、政治家としての立ち位置もわかる。しかし「国際社会の中で日本はいかに行動すべきか」という問いは、その彼の思考の範疇に無かった様に思えます。

「被害者/加害者」の二分思考の愚劣さは言うまでもありませんが。

Posted by: ぺパロニ | September 22, 2005 at 09:36 AM

カムバック宣言ですね。ご無理をなさらずに、ご活躍をお祈りいたします。

Posted by: | September 22, 2005 at 09:40 AM

愛読させていただいております。
永田町復帰、おめでとうございます。
小泉学院の新学期は、なんかもう凄いですから、
雪斎先生の目で何がどう変わったのか。いいことなのか悪いことなのかを、発信してください。
お願いします。

Posted by: 副会長 | September 22, 2005 at 09:46 AM

こんにちは。
永田町復帰なんですね!これからのご活躍を楽しみにしております。

Posted by: J2 | September 22, 2005 at 10:35 AM

いつか来た道・・・

これは良く聞く言葉であります。そういった提言をされるかたは貴重な存在と言えます。

ただ小生はこうも考えます。
それはいつか来た道に似ているが微妙に違う道かもしれないし、世の中には違う道と思ったのに同じ結論に達したり、同じ道に見えたのに全く違う結論に達することもあるだろう、と。

なにかというと翼賛政治の復活とか軍国主義復活とか、という路線で「いつか来た道」は語られることが多いわけですが、このへんはよくよく考える必要があると思ってます。

Posted by: 宵の明星 | September 22, 2005 at 12:19 PM

おめでとうございます。
雪斎殿のますますのご活躍と、これからのblogでのコメントを大変楽しみにしておりますが、激務になろうかと思われますので、くれぐれも無理をなさらないようご自愛ください。

Posted by: としひこ | September 22, 2005 at 12:23 PM

雪斎さん、おめでとうございます。
今後とも頑張って下さい。
あとできる範囲で良いですから、これからも興味深いお話を聞かせて下さい。

>宵の明星さん
あの時代と今とで決定的に違うのは、テロやクーデターで政治家が萎縮しているわけでは無いと言うことですね。
暴力で政治を変えられなくなったのは、戦後60年で日本が大きく進歩した点だと思います。

Posted by: Baatarism | September 22, 2005 at 01:13 PM

「永田町」復帰おめでとうございます。
さくらさんのブログなどのおかげで以前よりは身近に感じられるようになったものの、やはり「永田町」は謎の場所です。「往ったり来たり」で「永田町」の中と外から発信される情報を楽しみにしています。
お体に気をつけて頑張ってください。

Posted by: 居眠り中 | September 22, 2005 at 06:17 PM

皆さん、ありがとうございます。
 「勘」が錆び付いてしまっていることに衝撃を覚えていますが、何とかやっていこうと思います。

Posted by: 雪斎 | September 23, 2005 at 01:10 AM

大事の後で「あの時は実は。。。。」なんて言い訳は聞きたくありません。
情報開示は常に(出来る範囲で)お早めにお願いします。。。

Posted by: ご活躍を祈念して | September 23, 2005 at 01:25 AM

雪斎殿、重ねておめでとうございます。まさにサブタイトルの変更通りですね。mimigaさんが書かれている通り、暫くは更新頻度を下げてでも激務へのご対応及び健康管理を優先して下さい。初めて愛知代議士に仕えた頃の雪斎殿のメールマガジンでの決意表明が、リラ冷えの脳裏にも懐かしく思い出されます。政治状況や雪斎殿のご研鑽の道のりも当時と変わりましたが、一番変わったのは雪斎殿へ寄せる周囲の期待ではないでしょうか?私も、陰ながら今後のご活躍に注目しております。

Posted by: リラ冷え | September 23, 2005 at 08:12 AM

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/71618/6048960

Listed below are links to weblogs that reference 何時か来た道:

« 前原誠司・民主党新代表の「主導権」 | Main | 十年一昔 »