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September 02, 2005

「9月2日」の風景

■ 今週中は、エントリー更新を控えるつもりであったけれども、前言撤回である。
 丁度、六十年前、1945(昭和20)年9月2日、東京湾上停泊中の米国海軍所属戦艦ミズーリにおいて、日本側を代表して重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長、連合国側を代表してダグラス・マッカーサー連合国最高司令官と関係各国代表が「降伏文書」に署名を行った。、これに伴い、日本の降伏は確定し、「戦後」が始まった。

 ミズーリでのマッカーサー演説は、戦後の日米関係の「起点」になった演説である。今、返してみれば、中々、興味深いものがある。

  □ ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官の演説
 主要交戦国の代表たるわれわれは、平和を回復すべき厳粛なる協定を締結するためこの場所に集まった。相異なる理想とイデオロギーとをめぐる相剋は、世界の戦場においてすでに決定されたのである。従っていまさら改めて議論し討議する必要はない。更にまた全地球上民衆の大部分を代表するわれわれは、相互不信、悪意或いは憎悪の精神をもってここに集まったのでもなく、むしろ戦勝国もまた敗戦国もともに、われわれが関与せんとしている神聖なる目的に添い得るただ一つのより高き威厳に向かって立ち到ることこそ、われわれの意図するところである。
 われわれ各国民のすべては、この場所で正式に引き受けようとする事業の責任をなんらの留保もなく忠実に担当する。この厳粛なる式典を機会として、過去の流血と蛮行からよりよき世界―信頼と諒解との上に築かれる世界―、人類の尊厳並びに人類の最も希求する願い、すなわち自由、寛容及び正義の実現のために捧げられた世界が打ち樹てられることこそ、余の最大の望みであり、まさにこれこそ人類の望みである。
 日本帝国軍隊の降伏の決定さるべき条項並びに条件は、諸君の前にいま提示された降伏文書の中に含まれている。連合国の最高司令官としての資格をもって、余が代表する諸国の伝統のもとに正義と寛容とをもって余の責任を果たし、一方降伏条件が完全急速かつ忠実に遵守されるようあらゆる必要な処置をとることこそ、余の固き意図であることをここに声明するものである。
 余はここに日本天皇陛下、日本政府並びに日本帝国大本営の代表に対して、降伏文書の所定の箇所に調印することを求めるものである。(1945年9月3日・毎日新聞)

 ミズーリ艦上で重光全権に付き添った加瀬俊一は、「私はただただ感動した。呪縛され、電撃にあったように、身じろぎもしなかった。生ける勇士にも、死せる犠牲者にも、この演説こそは、まことに永久に枯れることなき花環であった」と書いた。加瀬は、戦前には松岡洋右外務大臣秘書官を務め、後に初代国連代表部大使に就任し、昨年に鬼籍に入った。当初の「屈辱」の感情が「感動」の感情に変わったという加瀬の述懐は、戦後の「対米認識」の起点にあったものを象徴していて興味深い。
 この公式上の「終戦の日」から六十年目の節目に、雪斎は、『産経新聞』「正論」欄に下掲の論稿を載せた。今から四十年後、「戦後百年」が語られる頃に、雪斎は、この原稿をどのような想いで振り返ることになるのであろうか。

□ 「戦後百年の精華」への意識を持つ時
 戦後六十年を迎えた。この六十年の歩みは、どのように評価すべきであろうか。昭和二十一年元旦、昭和天皇が発した「新日本建設に関する詔書」では、明治初年に発せられた『五箇条の御誓文』の意義が先ず確認された上で、「須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、舊來ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民擧ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豐カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ圖リ、新日本ヲ建設スベシ」と記されている。戦後六十年の我が国の歩みを評価する際には、この詔書に示された「旧来の陋習の除去」、「民意の暢達」、「官民を挙げた平和主義の貫徹」、「豊かな教養と文化の振興」、さらには「民生の向上」といった方針が、どの程度まで進められたかで判断するのが相応しいと思われる。
 端的にいえば、こうした方針は、総じて首尾良く進められたと評するのが適切であろう。もっとも、三島由紀夫は、生前、「私はこのままいったら、日本はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。日本はなくなって、その代わりに無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、ある経済大国が極東の一角に残るであろう」という有名な展望を示したけれども、三島は、「バブルの狂爛」、「バブルの崩壊」といった没後の風景を眼にしたならばなおさら、自らの展望の正しさを実感していたことであろう。
> しかし、『五箇条の御誓文』には、「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」という一条がある。筆者は、国家の「威信」と何かと問われれば、「NHKが放映する『プロジェクトⅩ』の物語の総和である」と答えることにしている。三島が冷ややかな眼差しを向けた「経済大国」は、結局のところは有名無名の人々の「志」が遂げられた結果の所産である。一九七五年のランブイエ・サミットを機に、我が国が名実ともに備わった「先進国」、「主要国」の地位に列せられたのは、「経済大国」としての立場の故に他ならない。三島のような偉才ならばともかく、我が国の幾多の人々にとっては、身分や貧困といった条件に邪魔されることなく自らの「志」を掲げることのできた戦後の歩みは、それ自体としては肯定すべきものであろう。たとえ、そうした戦後の我が国の歩みが、諸々の「歪み」を抱え込んだものであったのは、紛れもない事実であるにしても、その「歪み」を理由にして、戦後の歩みを総体として否定することはできない。
 そして、岡崎久彦氏は、著書『百年の遺産』の中で次のように書いている。「文化の最盛期というのは、古今東西の歴史で、戦乱の百年後に訪れています。漢の武帝、唐の玄宗の時代、日本の元禄等、皆そうです。…関ケ原の戦い(一六〇〇年)の五十年後といえば、由井正雪の乱(一六五一年)です。関係者は皆、関ケ原戦後生まれですが、まだ戦争の長い影をひきずっています。戦乱の影響のかけらもない、井原西鶴、近松門左衛門、尾形光琳、松尾芭蕉、関孝和など元禄をになう世代が生まれるのは、一六四〇、五〇年代です」。
 岡崎氏の記述に従えば、我が国の文化の最盛期は、四十年後、「戦後百年」の二〇四五年前後に訪れる。そして、その時期に元禄期の井原、近松、尾形のような働きをするのは、現在の子供たちである。この展望は楽しい。ただし、その前提は、今後の我が国が対外政策上の舵取りを誤ることなく、現在の経済上の実力や社会の活力を維持していくことである。イタリア・ルネッサンス期の芸術上の精華が、フィレンツェを統治したメディチ家の「富」なくして考えられなかったように、「戦後百年の日本文化」にも、然るべき「豊かさ」の裏付けが用意されなければならない。目下の現役世代の責務とは、そうした活力を保つ仕掛けを作っていくことにあるのであろう。
 戦後六十年目の夏は、盛夏の衆議院解散・総選挙という珍しい事態に揺れている。此度の総選挙の争点は、明らかに郵政民営化の是非であるけれども、この政策課題の意味を考えるためにも、「どちらが、将来に渉って日本社会の活力を維持することに寄与できるか」という視点を持つことは、大事なことである。戦後六十年の節目において「戦後百年」を考える。そうした姿勢でならば、此度の総選挙の意義も浮かび上がってくるはずである。
  『産経新聞』「正論」欄(2005年9月2日付)掲載

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Comments

今朝はバタバタしていたので、正論欄読むことなく家を出てきてしまいました。帰宅したら改めて朝刊を拝読いたします。

Posted by: 佐倉純 | September 02, 2005 at 04:36 PM

今回のテーマとはズレますが、韓国には「言論の自由」が無いことがはっきりした記事がありました。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/09/02/20050902000062.html
「親日派のための弁明」の著者が敗訴。もと従軍慰安婦ほかに賠償せよ、というとんでもない判決である。

Posted by: 笛吹童爺 | September 02, 2005 at 08:49 PM

1945年9月。

本当の敗戦をいうならば、降伏文書に調印し、肇国以来初めて日本民族が主権を失った9月こそが、民族の記憶にとどめられるべきかと思います。
国際法上では、8.15は「停戦(戦闘行為停止)記念日」でしかありません。

思えばそれから60年。
干支一巡は東洋の歴史単位です。当時の赤子が還暦を迎えた今年、あらゆる意味で「戦後」が清算されつつあります。


そんな折、米国の宿劫を晴らすかのように、巨大ハリケーンが、米本土において日本の本州に匹敵する地域を廃墟にしました。
そしてそれに対し、日本から「災害救助隊」が派遣される話が出ています。

厚木に降り立つマッカーサーよろしく、米本土に日本の自衛隊員が降り立つのでしょうか。何やら象徴的な話です。

歴史は時にイキな演出や味付けをします。
何がいいとか悪いとか言ってるわけではありませんが、60年前に廃滅し国土を軍靴で踏まれたこの国が、「国権の発動として」かの国の救援に赴くというドラマは、なかなか味わい深いものではありませんか。

Posted by: 雪風 | September 03, 2005 at 12:43 PM

三島氏の作品を読んで頭がよくてセンスの点でもおよびもつかないけれども、何かついてゆけないものを感じました。

ふと思うのですが、人間の大切な能力に忘れるということがあるのだろうと。歴史や先人の犠牲への感謝などは忘れてはならないのでしょうが、敗戦にともなって生じた空理空論の類は忘れてもよいだろうと思います。忘れるというのは意識的な努力でできることではないので、よけいなことをしないのが肝要だと考えます。

Posted by: Hache | September 04, 2005 at 05:36 PM

お元気ですか。FRU,永井ゼミの垣上です。永井先生関連のサイトをサ-フィんしていて、こちらにたどりつきました。いろいろご活躍のご様子、冊子等で拝見させていただいております。どうぞ、お元気でお過ごしください。

Posted by: サクライトモコ | September 09, 2005 at 12:28 AM

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