« 戯言050602 | Main | 「A級戦犯」か「A種戦犯」か »

June 03, 2005

「五箇条の御誓文」を読み解く・参

■ 只今、三ヵ月ぶりに産経新聞「正論」欄に寄せる原稿を仕上げて提出する。前回の原稿は、「ホリエモン騒動」を扱ったものであった。今となっては、随分、昔の話のような気がする。

■ 以前にも書いたけれども、雪斎が北大同期の連中と盛り上がったときには、寮歌「都ぞ弥生」の斉唱と「札幌農学校、万歳」の掛け声で宴を閉じるのを約束にする。
 「都ぞ弥生」の最終第五節の歌詞は次のとおりである。

朝雲流れて金色に照り 平原果てなき東の際
連なる山脈冷瓏として 今しも輝く紫紺の雪に
自然の藝術を懐みつつ 高鳴る血潮のほとばしりもて
貴とき野心の訓へ培ひ
栄え行く 我等が寮を誇らずや

 歌詞中にある「貴とき野心の訓へ」とは、初代教頭W・S・クラーク博士の〈Boys, be ambetious !〉の言葉である。札幌農学校は、日本で初めて「アメリカニズム」が移植された場所といえなくもない。「野心」「大志」とか「夢」といったものに価値を置きたがる精神は、アメリカ人にあって典型かもしれないけれども、日本人もまた、そうした精神を強く持っているはずである。。
 そこで、原稿の「蔵出し」第四弾である。下掲の原稿は、丁度五年前に『月刊自由民主』に書いていたものである。

 □ 「五箇条の御誓文」を読み解く・参

 本誌前号において、私は、「五箇条の御誓文」(以下、「御誓文」と略)第二条を現代の観点から読み解き、その意義を考察した。本欄では、「御誓文」第三条の意味を考えることにしよう。
 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス。
従来、我が国では、教育、民生安定、国土開発、産業振興といった領域で様々な「内治」の施策が行われてきた。その施策の多くは、国家による「富の還流」の推進という体裁に依るものであった。問題は、その「富の還流」が、どのような方針に基づくものであるかということである。
特に戦後、我が国で行われてきた諸々の「富の還流」の施策は、「弱者」の救済という色彩を濃厚に帯びたものであった。しかしながら、ただ単に「豊か」ということだけでは、「人心をして倦まない」ということの条件にはならない。他から救済されているという意識によっては、人々は、自らの「矜持」を保てないものである。人々が倦むことなく日々を過ごすためには、人々の「志」が遂げられていなければならない。少なくとも近年までの「福祉」に関る諸々の政策の誤りは、この「志」という前提を見落とした点にあるのである。
 加えて、 「志」という観点を踏まえるならば、現下の我が国の教育、特に義務教育以後の教育の有り様を巡る議論の際にも、冷静な視点が提起されよう。教育の目的は、人々が「志を遂げる」際に、その「志」の見極めを付ける機会を提供し、その「志」を実現させていくための手段を身に付けさせることである。近代とは、人々が、その社会的な出自とは無関係に、自らの「職分」を選べる時代のことである。近代以前ならば、武士、職人、商人などは、その「志」の範囲は予め限定され、その教育は属する共同体の中で行われたものであるけれども、近代以降は、国家が「学校」という仕組を通じて教育の枠組を用意するようになったわけである。この点、われわれが問わなければならないのは、現下の教育の有り様が、人々の多様な「志」に応えるものになっているかということである。
 たとえば、私は、来世紀の我が国の人々のあるべき姿は、国際舞台で通用する「個人」という意味において、イタリア・サッカー・リーグ〈セリエA〉、ACローマで活躍する中田英寿、あるいはハリウッド映画で主役を張った女優・工藤夕貴といった人々に体現されていると信じる。ところで、中田選手に続きたいという「志」を抱いた少年ならば、彼らに必要な教育とは、サッカーの技量の練磨も然ることながら、イタリア語の修練、地理や歴史の知識の取得であるかもしれない。ハリウッド女優になりたいという少女の「志」に応えるには、英語、文学、映像その他の幅広い知識の取得が必要になるであろう。現行の教育は、そのような多様な「志」には即応できていない。
反面、本来、社会の「選良」の養成を目的として構築された義務教育以降の教育は、戦後、「選良」を目指しているわけでもない人々を大勢、迎え入れた結果、今では、そのような人々の「志」に形を与えるには、不十分なものになっている。そして、そのことは、義務教育以降の教育が、「選良」の養成という機能に不全を来しているという事情にも関っているのである。その意味では、高等学校進学率九割というのは、異常事態とよぶべきものなのではないか。
 人々の「志」に配意できない「内治」の施策は、結局のところは施策としての意義を決定的に減じたものにしかならない。国家とは、幾多の人々に様々な「志」によって支えられるものである。その点、「御誓文」第三条は、「御誓文」が近代国家・日本の宣言書であることを最も鮮明に表した条項である。「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス」。われわれは、この「目標」を依然として貫徹させてはいないのではなかろうか。
  『月刊自由民主』(二〇〇〇年五月号)掲載

|

« 戯言050602 | Main | 「A級戦犯」か「A種戦犯」か »

「『月刊自由民主』「論壇」欄」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/71618/4391101

Listed below are links to weblogs that reference 「五箇条の御誓文」を読み解く・参:

» They look just like two Gurus in drag ! 西のグル、北のグル [いか@ :インドで働いたこと(7/4-19)。]
グルとは英語のguruで日本語訳は「導師」が当てられる。普通のガッコのセンセとはちょっとちがう。 ひとりの人間のもとに後世名を残す人物が同時に集まり、輩出されることがある。          ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 吉田松陰、松下村塾。幕末のテロリスト学校。生き残ったテロリストたちは後に宰相などになる。 高杉晋作、久坂玄瑞....桂小五郎...ずー... [Read More]

Tracked on June 06, 2005 at 10:09 PM

« 戯言050602 | Main | 「A級戦犯」か「A種戦犯」か »