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May 04, 2005

「方便」としての謝罪、「術策」としての謝罪

■ 二〇〇一年十月、雪斎は『産経新聞』「正論」欄上に「『謝罪』には危うさありと知れ」と題された原稿を発表したことがある。下掲がその全文である。

 □ 「正論」欄原稿  「謝罪」には危うさありと知れ
 去る九月八日まで南アフリカのダーバンで開催されていた国際連合主催の「人種主義に反対する世界会議」は、先進国と開発途上国の根深い対立を浮き彫りにした。この会議は、今後の一切の人種差別に反対するという当初の趣旨から逸脱し、特にアフリカ諸国がヨーロッパ諸国に過去の謝罪と補償を求めるという図式に変質した。
 結局、この会議では、「政治宣言」と「行動計画」が採択されたけれども、この中では、十五世紀以降、西欧諸国によって行われた奴隷貿易・奴隷制度が「人道に対する罪」であると確認された。「政治宣言」では、奴隷貿易や植民地支配に関して、「深い遺憾の意」が表明され、欧州諸国がアフリカ諸国などに対して経済支援を行うよう求めた一方で、アフリカ諸国が要求していた欧州諸国の明確な謝罪や賠償責任は、言及されなかった。
 そして、我が国では、小泉純一郎総理が、八月十五日、靖国神社参拝に対する中韓両国からの反発を宥(なだ)める形で「村山談話」よりも謝罪の趣を鮮明にした発言を行い、サンフランシスコ講和条約五十周年記念式典に列席するため訪米した田中真紀子外務大臣は、九月八日、戦時中の米軍捕虜の存在を念頭に置き、謝罪の意を表明した。
 近年、私は、諸々の国際報道に接するとき、「謝罪」の文字を眼にすることが多くなっている。「過誤を犯せば率直に謝罪する」というのは、確かに人間が社会生活を営む上での基本的な作法であるかもしれない。しかし、「謝罪」が国際政治の文脈に投げ込まれれば、それは、「謝罪された側」に対して、「謝罪した側」に諸々の要求を行う根拠を与えることになる。
 ダーバンでの会議に際して、欧州諸国が示した対応は、そうした事情を物語っている。「謝罪」は、道徳の次元で論じられるものではなく、それが自らの利益に対して、どれだけの具体的な損失を及ぼさないかという実利の次元で論じられるべきものである。
 その点、たとえ奴隷貿易が人類史上の蛮行であるのは事実であるとしても、そのことに対する加担を事由とした謝罪や賠償の要求を事実上、突っぱねた欧州諸国の対応は、決して非難されるべきではない。
 一旦、「過去の被害」を事由とした謝罪や賠償の要求が是認され正義の域にまで高められるならば、そのような謝罪や賠償の要求は、際限なく、繰り返されることになるであろう。それは、もしかしたら、国際社会に新たな意味での「無秩序」を招く「パンドラの箱」を開けるかもしれない。「謝罪」と呼ばれるものには、そうした危うさが伴っているのである。
 ところで、目下、我が国の唯一の対外政策方針であるかのような印象を与えているのが、「近隣諸国への配慮」であり、我が国の半ば性癖になるに至った「謝罪」もまた、この「近隣諸国への配慮」によって合理化されている。無論、従来、我が国において近隣諸国に対する「謝罪」や「補償」を是と唱えてきた人々は、その「謝罪」や「補償」が、近隣諸国との和解と良好な関係を築く上での前提であると主張するであろう。しかし、そのような主張は、果たして正しいであろうか。
 政治における現実主義の源流と位置付けられるニコロ・マキアヴェッリは、『君主論』の中で次のような記述を残している。
 「新しい恩義を受ければ昔の遺恨が水に流される、などと思うならば、それは大間違いだ」。
 結局のところ、我が国の「謝罪」や「補償」によって、近隣諸国の「昔の遺恨」が水に流されるとは、本来、期待すべくもないものである。人々は、他からの「謝罪」に接すれば、否応なく「昔の遺恨」を思い起こすものなのではないか。とすれば、我が国の度重なる「謝罪」は、近隣諸国との和解を進める方策として位置付けられた場合でも、その政治上の効果を減じていることになるし、却って近隣諸国からの不信を高めることになっている。
 一定の構想と冷徹な国益の計算に裏付けられ「最後の手段」として示される「謝罪」ならばともかく、その場を取り繕うための方便としての「謝罪」は、対外政策を進める上では、何の価値も持たない。現在の我が国にとっては、「謝罪」とは、悪癖と呼ぶべき類いのものでしかなくなっている。近く中韓両国を訪問する小泉総理にはこのことを伝えたい。
  『産経新聞』(二〇〇一年十月六日)「正論」欄

■ 雪斎は、この原稿を再読しながら苦笑する。この原稿は、たとえば先月の小泉純一郎総理の「バンドン会議記念演説」を批判する論理と全然、変わらないもの映るであろう。しかし、その一方で、雪斎は、この原稿で展開した議論に訂正を加えるべきところは何もないと理解する。雪斎は、「一定の構想と冷徹な国益の計算に裏付けられ『最後の手段』として示される「謝罪」ならばともかく、その場を取り繕うための方便としての『謝罪』は、対外政策を進める上では、何の価値も持たない」と書いたけれども、小泉総理演説は、果たして「一定の構想と冷徹な国益の計算に裏付けられた術策」であるのか、それとも「その場を取り繕うための方便」であるのか。小泉演説への評価は、「方便」と見るか「術策」と見るかで割れるのだろう。
 雪斎は、目下、日本が総ての精力を費やして取り組むべき課題は、国連安保理常任理事国入りの実現であると思っている。これが実現できれば、国際政治の様々な局面で日本は自らの「意志」を通すことができる。しかも、この機会は、此度に頓挫してしまえば、次に訪れるのがいつになるかは判らない。それは、「今、取り組まなければならない課題」なのである。『読売新聞』は次のように報じている。
 

小泉首相は2日夜(日本時間3日未明)、アムステルダム市内のホテルで記者会見し、国連改革の焦点である安全保障理事会の拡大について、加盟国の全会一致にこだわらず、9月の国連首脳会合までに結論を出すべきだとの考えを表明した。
 日本の常任理事国入りの実現を目指し、多数決による決着も辞さないとの強い決意を示したものだ。
 首相は、安保理拡大に慎重な中国などが「総意による決定」を主張していることについて、「全体の総意ができたうえでの改革は望ましいとは思うが、各国の意見や立場は違う。全会一致は困難ではないか。今まで十分議論してきたし、意見が違うから(決定を)延ばそうと言って、果たしてできるか疑問だ。9月の首脳会合までに結論を出すことが望ましい」と述べた。

 この件に関して、『読売新聞』は、国連総会議長を務めるジャン・ビン氏(ガボン外相)の動静を報じている。
 
ピン国連総会議長(ガボン外相)は2日、国連本部で読売新聞など一部報道機関と会見し、安全保障理事会の拡大問題について、「合意が不可能で、表決を求める声が出たら、最大限避けようと努めるが、止めることはできない」と述べ、最終的には表決による決定もやむをえないとの認識を示した。
 安保理常任理事国の拡大を目指す日本、ドイツなど4か国グループと、これに反対するイタリア、韓国などのグループが対立している点については、議長の呼びかけで5日に両者の話し合いを行うと表明。中国などが改革の期限設定に反対していることに関しては、「論議は11、12年も行われている。このままでは永遠に続く」として、「国連全体の改革を今年、行うべきだ」と強調した。
 一方、イタリアなどのグループは2日、非常任理事国10か国を新設し、理事国を計25か国とする案を議長に提出した。ただ、同案は、非常任理事国の任期などについて複数のモデルを提示しており、グループ内で意見が完全には一致していないことを露呈した。

 小泉総理とアフリカの有力政治家たるビン議長との間には、認識の一致が見られる。アフリカ諸国には、植民地主義に走った国々の中で最初に「明確な謝罪」を成した日本に対して、明らかな「共感」が示されている。この「共感」こそが、日本を具体的に常任理事国の座に押し上げてくれる「力」なのではないか。小泉総理の「バンドン会議記念演説」は、そうした「共感」を得るための「術策」としては、かなりの効果を挙げたのである。
 国家の「威信」を大事にする保守層の中には、小泉演説に批判的な声が根強いけれども、それは、国連安保理常任理事国入りに向けた現下の政府の努力に無責任に茶々を入れる真似である。そうしたことの積極的な効用とは、何であろうか。雪斎は、率直にそのように思う。

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Comments

常任理事国入りが最重要課題の一つと言うことに関しては同感です。また、謝罪に関してはこういう男らしさもあってよいのかなと思います。「分担金をたくさん払っているから入れろ」というのでは内心、それを認めていても他国の賛同をとりつけるのは難しいでしょう。「術策」としての謝罪は、他国の共感をえるだけでなく、今回の国連改革に敗戦国にさらに発言権を与えることによって集団安全保障の機構の国連の立場を強めるという側面を与えるでしょう。もちろん、集団安全保障に幻想に抱くのは危険ではありますが。

日本の場合、ドイツやイタリアと異なって戦争を始めた政府(内閣は変わっているとはいえ)がポツダム宣言を受諾して敗戦を受け入れています。日本人は他の枢軸国とは異なって自らの運命を自らの手で決めたのだ。その遺産を育てるのは、戦後の責務だと思います。集団的自衛権の行使を認めれば、中国の選択肢は非常に狭くなり、東アジアは中国も含めて安定し、繁栄を享受できるでしょう。わが国が敗戦国としての立場から脱することは、まずは自国の利益からくるものですが、他国にとってもけっして損ではない。ただし、これらの利害関係は、国際的な信用がなければ顕在化させることは難しいでしょう。常任理事国入りは、この点でも意義があると考えます。

あとは日本人には名から入って実に至るのがよいのかもしれません。

Posted by: Hache | May 06, 2005 at 04:54 AM

・hache殿
 日本の「得」が他の国の「損」にならないようにする配慮は、日本が今後何をやる上でも大事になるでしょう。

Posted by: 雪斎 | May 07, 2005 at 12:14 PM

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