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May 14, 2005

「建前」の効用

■ 昨日午前、久しぶりに「永田町」に足を運ぶ。自民党T・Y議員を訪ねる。Y議員は本当に手堅い政治家だと思う。その後、民主党A・N議員と自民党I・0議員の事務所に立ち寄る。アポイントなしで立ち寄ったので、両議員とも不在。事務所のスタッフの方々に歓迎してもらう。ありがとうございます。

■ 福沢諭吉は、『福翁自伝』で次のようなエピソードを紹介している。幼少期の福沢は、迷信の真偽を確かめるため、神社の祠から御神体を持ち出し代わりに道端の石を入れたり、祈祷札でお尻を拭って罰が当たるかを試してみたりしたのである。また、坂本龍馬と妻が「日本発の新婚旅行」の折に霧島山頂上の逆鉾を抜いて逆に刺す悪戯をしたエピソードは、有名である。

 この福沢と坂本のエピソードは、両人が迷信や因習といった前近代の「建前」を受け容れない近代人であったことを強調する意味合いで、しばしば言及されている。しかし、そのような前近代の「建前」を否定することから始まった近代とは、「ナショナリズム」という壮大な「建前」を必要とした歳月である。大体、全く会ったこともない人々を同じ「国民」として括れるという発想は、実態の乏しいものである、しかし、人々は、そうした「仮構」なり「建前」を受け容れながら、生活してきたのである。
 問題は、人々が、その「建前」に、どのように向き合ってきたかということである。「…であることにしておく」という気の持ち方と「…だということでなければならない」という気の持ち方とは、互いに似ているようであっても、その実態には相当な開きがある。前者の気の持ち方には、「建前」を「建前」と自覚した上で確信犯的に振る舞う余裕が感じられるけれども、後者の気の持ち方には、「建前」に固執しようとする余裕のなさが感じられる。そして、余裕のなさは、「偏狭さ」を生むのである。
 さらにいえば、前者の姿勢は、政治家のものであるけれおども、後者の姿勢は、宗教家のものである。政治家は、「建前」を打ち立てる存在なのであれば、その「建前」の実態が往々にして「…であるというjことにしておいた」結果の産物に過ぎないことを知っている。
 無論、政治の世界には、「何でもあり」という様相が多分にある。鄧小平が残した「白猫であろうが黒猫であろうが鼠を捕るのが良い猫である」の言葉にもあるように、「鼠を捕る」という目的の前には、「白」であろうが「黒」であろうが問われないという事情は、確かにあるわけである。こうした事情は、周囲には無節操に映る。「白」か「黒」かという正義にこだわる人々には、我慢ならないものであろう。もっとも、正確にいえば、政治は「何でもあり」の振る舞いを容認しているわけではなく、そこには依拠されるべき一定の原則がある。鄧小平の言葉に従えば、「鼠は猫で捕る」というのが、ここでいう「原則」なのである。鄧小平が断行した実際の政策に関していえば、「国民生活を向上させる」という原則が守られてさえいれば、それが「社会主義的手法」に拠るものであろうと「資本主義的手法」によるものであろうと、問題はなかったということなのである。加えて、ここでいう「原則」は「例外」を伴うのが当たり前なのであるから、話は複雑になる。というのも、「鼠を捕るのは猫である」とは限らないし、「鼠を捕らない猫は良い猫ではない」」とは限らないからである。
 政治には、「教義」も「理念」も必要ないけれども、「原則」は要る。ただし、「原則」には何時も例外がある。これが現実主義者の政治認識である。

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Comments

例外がいつの間にやら惰性で…、ということもよくありますね。赤字国債も最初は福田蔵相の英断による「例外」だったと記憶してます。

「例外は常に例外であらねばならない」という「原則」も必要かも知れませんね(笑)

結局のところ、法治国家であっても人間社会である限り、核心の部分は(元来の語義とは違うでしょうが)人治が担っているように思えます。

Posted by: 中山 | May 15, 2005 at 04:59 AM

・中山殿
「例外」は所詮、「例外」であるはずなのですが、いつのまにか「例外」でなくなっていることがあります。禁酒していた男の「一杯ぐらいなら…」が、「一杯」で終らなくなるのと同じ理屈ではないかと思います。「原則」は「原則」として持っておくことが大事なのは、いうjまでもないことのようです。

Posted by: 雪斎 | May 15, 2005 at 09:16 AM

 鄧小平の政治姿勢には、もっと大きな「原則」があると思います。それは、「中国共産党政権を維持すること」です。「国民生活を向上させる」ことも、すべては「中国人民の共産党に対する支持を繋ぎ止めんがため」だと思います。
 白い毛皮をまとおうが、黒い毛皮をまとおうが、生物学的には、「猫」であることに変わりが無いのと同様に、資本主義的政策をとろうが、社会主義的政策をとろうが、政策を担う(鼠を捕る)のは、あくまで共産党(猫)であるということが、この言葉を通じて鄧小平が言いたかったことだと思います。
 しかし現在、中国経済の発展に伴って状況は大きく変わり、「何故、共産党(猫)だけが政権(鼠を捕る事)を独占できるのか?」という正統性の問題が、胡錦涛政権に突きつけられていますね。
 今後「白い猫だろうが、黒い猫だろうが、所詮猫は猫。鼠を捕る効率が悪すぎるのではないのか?何故殺鼠剤やその他鼠捕りの機器を用いてはいけないのか?」という疑問をぶつけられた時、胡錦涛政権はどう答えていくのでしょうか?彼等にとって頭の痛い問題だと思います。
 エントリーの主題とは、ずれてしまったかもしれません。お耳汚し失礼しました。

Posted by: 藤田 | May 15, 2005 at 03:50 PM

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