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May 22, 2005

『漢書』が示す日本の安全保障・各論三

■ 政党の機関紙や機関誌に原稿を寄せることは、政治学徒にとっては、どのような意味を持つのであろうか。それは学徒としての「堕落」を意味するという声は、まだまだ根強いかもしれない。しかしながら、一九三〇年代の英国で活躍したハロルド・ラスキは、英国労働党の政策立案に深く関与し、一部から「労働党のパンフレット・ライター」と揶揄されたこともある。しかし、だからといって、ラスキが「堕落した政治学者」などとは、誰も言うまい。結局、政治学徒にとっては「何を語ったか」が大事なのである。
 自由民主党の機関誌『月刊自由民主』「論壇」欄に毎月、原稿を寄せるようになってから、既に五年余りの歳月が経っている。この間、編集部からクレームが付いたのは、田中康夫長野県知事が再選を果たした選挙の折、長野県連の対応に噛み付いた原稿が、唯一の事例である。自民党という政党にとっては、「政策」に幅があるのは全然、構わないけれども、選挙の折に「同士討ち」みたいなことになるのは、困るのであろう。逆にいえば、「政策」に関した原稿であれば、何を書いてもオーケーである。それは、自民党の「度量」を象徴しているような雑誌である。

 尚、同じ「論壇」欄では、森本敏先生も毎月、原稿を寄せておられる。昨月の小泉総理の「バンドン演説」に関して、雪斎は、評価する私見を示したけれども、森本先生は、「この演説によって事実上、靖国参拝の道は封じられたことになるであろう」という見方を示しておられる。
 今月号には、増田弘先生、五味俊樹先生や村田晃嗣先生が寄稿されている。かんべえ殿は、村田先生の『アメリカ外交』の書評を寄せておられる。石破茂前防衛長官と小川和久氏の対談も載っている。雪斎は、「中々、豪華なライン・アップだ」と率直に思う。

  □ 『漢書』が示す日本の安全保障・各論三/「忿兵」の愚昧

 「小故を恨んで争い、憤怒して忍ばざる者、之を忿兵と謂う。兵が忿る者は敗れる」。この『漢書』「魏相丙吉傳」中の言葉は、特に「戦争と平和」が絡む国際政治場裡において振る舞う際、人間の「感情」を介在させることの危険を示している。無論、古今東西、人々の「感情」が世を動かしてきた事例は枚挙に暇がない。ただし、兵法書『孫子』「始計篇」にも「怒にしてこれを撓し」という件があることが象徴的に示すように、そうした「感情」に裏付けられた政策は、早晩の破綻を免れない。
 四月上旬以降、中国各地では「反日」を標榜する民衆デモが頻発し、その一部は暴徒と化して、日本の在外公館や民間店舗を損壊する事態に立ち至っている。また、島根県議会での「竹島の日」条例制定を機に沸騰した韓国国内での「反日機運」は、扶桑社刊歴史教科書の検定合格という事実を経た結果、収束の難しいものになっている。中韓両国は、民衆に植え付けられた観念としての対日「感情」に半ば乗じながら、対日関係での優位の確保を狙っている。中国での「反日」騒動の発端が、我が国の国連安保理常任理事国入りに反対する体裁を採るものであり、民衆の切実な要求に根差したものではなかったことは、民衆の「感情」を利用しようとした中国政府の意図を暗示している。
 しかしながら、このような中韓両国での「反日」騒動を前にした我が国政府の対応は、抑制的にして冷静なものであった。中国政府は、「反日」騒動の折に日本の在外公館の保護を徹底できなかったことによって、国際法上の重大な疑義を残した。我が国政府は、確かに中国政府に対して「謝罪と補償」を要求したけれども、それ以上の対中要求は行われなかった。我が国の対中要求は、国際法上、常識的な範囲に留まるものであり、大使召還といった一段上の強硬姿勢が採られることはなかった。
 その一方、四月二十二日昼刻、インドネシアで開催されたアジア・アフリカ会議五十周年首脳会議における小泉純一郎総理の演説は、対日「感情」で眼が曇った中韓両国の現状を国際社会の衆人環視の下に晒すものであった。このことは、対日「感情」という要件を持ち出すことによって自らの対日政策の有効性を担保してきた中韓両国の実態を国際的な検証や議論の渦の中に投げ込むものであった。中国政府は、一連の騒動の遠因が歴史認識に絡む日本政府の対応にあると主張し、騒動の責任を回避する態度を示したのであるけれども、そうした態度が国際的に通用するものであるかが、議論されたのである。結果は中国政府の意に沿わないものであったろう。というのも、中国政府が対日批判を続ければ続けるほど、チベット侵攻や大躍進政策の評価を念頭に置き「そういうお前は、どうなのだ」という声が欧米系メディアを中心にして噴き上がって来たからである。韓国政府に比べれば遼かに実利的な中国政府のことであるから、こうした論調が拡がることの不利益を察知したことであろう。中国政府が一転して対日姿勢に「軟化」の兆しを示し始めたのは、故なきことではない。それは、「小故を恨んで争い、憤怒して忍ばざる者、之を忿兵と謂う。兵が忿る者は敗れる」の光景であったのである。
 また、現在の国際政治の世界では、「ソフト・パワー」の意義が強調される傾向が進み、他国の人々の「共感」をどれだけ獲得できるかが、それぞれの国々の「国力」や「影響力」を増進させる重要な条件になる。小泉演説は、植民地主義の論理に一旦は走った「旧宗主国」が旧殖民地の国々に「反省とお詫び」の意を表明したという点では、稀有な事例であろう。これは、アジア・アフリカ諸国にとっては、誠に歓迎すべきものであったろう。小泉演説は、中韓両国を除く大方のアジア・アフリカ諸国に対しては、「日本は、莫大な資金援助してくれるだけではなく、植民地主義の誤りも堂々と認めてくれる国である」という印象を植え付けるのには大きく与ったといえるであろう。それは、アジア・アフリカ諸国の「共感」を一挙に獲得するものになったのは、間違いない。
 筆者は、いかなる場合においても「静かな外交」を歓迎する。我が国には、民衆の「感情」に裏付けられた仰々しい外交を展開しなければならない理由はないのである。
雑誌『月刊自由民主』(二〇〇五年六月号)掲載

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Comments

 私達は、「他愛も無いゲームからスポーツ・ビジネスに到るまで、勝負事においては、たいていイライラした方が負ける」ということを経験的に漠然と認識していると思われますが、中国においてはすでに2000年近くも前に、このことを理論化していたことに、深い感銘を受けました。
 それと同時に、現在の日中関係において、その中国が「忿兵の愚」を犯しかけている(あるいは犯した)というのは、一つの歴史の皮肉でしょうか。
 現在、対北朝鮮政策において、経済制裁の声が高まっておりますが、小泉首相をはじめ外交に携わる人々は、あくまで「経済制裁が本当に効果があるか、他国の理解が得られるか、経済制裁によって本当に被拉致者が帰ってくるのか」ということを冷徹に計算しながら慎重に行動すべきということも、「漢書」は教えてくれているのでしょうか。

Posted by: 藤田 | May 22, 2005 at 07:48 PM

・藤田殿
 ここの記述は、かんべえ殿の教示の賜物なのですけれども、読み進めれば「深遠な世界」がそこにあると気づきました。漢籍の素養を乏しくした現代日本人は、だいぶ知的に損をしているかもしれません。

Posted by: 雪斎 | May 24, 2005 at 02:39 AM

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