『中央公論』「時評2005」/ケナン追悼
■ 雪斎は拙ブログでもジョージ・F・ケナンに関するエントリーを何度も書いた。ただし、雪斎は、活字メディアの上で正面切って「ケナン論」を展開したことはなかった。
下掲の論稿は、『中央公論』今月号に寄せたジョージ・F・ケナンの「追悼原稿」である。「ケナン追悼原稿」は、五百旗頭眞先生が既に『読売新聞』に書いておられているので、拙稿が、それに続く原稿となる。本来ならば、こうした「追悼原稿」を『中央公論』に書くのは、故・高坂正堯先生や永井陽之助先生、細谷千博先生のような「重鎮」こそ相応しい仕事であったと思うけれども、ケナンが長命を保ったお陰で、ケナンにとっては孫の世代にあたる雪斎が、それを手掛けることになった。これもまた、「縁」の為せる業であろうか。
■ 『中央公論』「時評2005」欄 追悼 ジョージ・F・ケナン
三月十七日夜〈米国東部時間〉、ジョージ・フロスト・ケナン(プリンストン高等研究所名誉教授)が百一年の生涯を閉じた。米国のメディアはケナンの逝去を「巨星墜つ」といった趣きで伝えている。事実、対ソ「封じ込め」政策の立案を通じて、ハリー・S・トルーマン政権期からロナルド・レーガン政権期に至る米国の対外政策の大枠を構築したケナンの事績は、それだけでも「米国対外政策史上、最も傑出した戦略家の一人」といった評に相応しいものであろう。ただし、ケナンは、大統領や国務長官として米国外交を最も高い次元で統括したわけでもなければ、後年のヘンリー・A・キッシンジャー、ズビグニュー・ブレジンスキー、さらには最近のコンドリーザ・ライスのように、大統領に対して直接、意見を具申できる立場を得ていたわけでもない。しかも、ケナンが外務官僚として世の注目を浴びていたのは、在モスクワ大使館在勤時に有名な「長文電報」を打って以降、ソ連大使在任時に「舌禍」で辞任に追い込まれるまでの六年程に過ぎない。
にもかかわらず、ケナンが米国外交を語る上で「偶像」とも呼ぶべき扱いを受けているのは、国務省退官以後に手掛けた歴史研究や外交評論の故でもある。ケナンの外交評論は、たとえばヴェトナム戦争批判や核戦略批判は往時の政権に受け容れられなかったかもしれないけれども、その「洞察や博識」は賞賛を以て迎えられた。ケナンは、齢九十九に達しようとした頃、ジョージ・W・ブッシュ政権の対イラク政策を批判し、その「先制攻撃」戦略を「原則上、大いなる誤り」と一蹴したことによって、世の反響を呼んだ。ケナンは、一九二五年に国務省に入って以来、実に八十年近くの間、「現役の存在」として米国外交に関わりを持ち続けたのである。
特に歴史家としてのケナンには、「われわれの時代のギボン」という評が与えられた。エドワード・ギボンは、大英帝国の興隆期に生を送りながら大著『ローマ帝国衰亡史』を執筆したけれども、ケナンは、第二次世界大戦を機に「超大国」として国際舞台に登場し近年は「超絶大国」、「帝国」として語られるようになった米国の歩みに寄り添いながら、「外交」の意味を考究し続けた。ギボンとケナンの歴史認識に共通していたのは、一見して強盛や磐石を誇る自らの「帝国」や既存の「秩序」の有り様に対する懐疑の眼差しであった。
因みに、大学院生時代の筆者は、ケナンが十九世紀末期のロシア外交に題材を採った研究書二部作を熱心に読んでいた。オットー・フォン・ビスマルクが構築したドイツ、オーストリア、ロシアの三ヵ国提携の枠組に拠る欧州秩序の「安定」は、ビスマルク引退後、バルカン半島情勢に絡んだロシアと独墺両国の確執が深刻になるに及び急速に失われる。ケナンは、そのような流れの中でロシア帝国内で外務大臣として対独提携を模索したニコライ・カルロヴィッチ・ギールスを「彼の時代の欧州では、ビスマルクに次ぐ政治家」と評し、共感を隠さなかった。バルカン半島情勢がロシア国内の反墺、反独の感情を刺激し、そのような感情に皇帝を中心とした宮廷勢力も引っ張られていく中で、独墺両国との穏便な関係を守ろうとしたギールスの姿は、ケナンには、「外交に携わる者の孤独」を実感させるものであったろう。
ケナンの国際政治認識は、煎じ詰めれば、「思慮、中庸、成熟の現実主義」とも表現すべきものであるけれども、その本質は、自らの「弱さ」や「限界」への鋭敏な感覚である。実際のところ、我が国の人々がケナンの事績から教訓を導き出すとするならば、それは、自ら身を置く「秩序」の脆さへの認識であり、自らの「限界」を踏み越えて何事かを為さないという感覚である。「冷戦の終結」以後、我が国は、様々な国際秩序の構築と維持に積極的な役割を果たすように要請されている。目下、進行する国連安保理再編の結果、我が国が常任理事国入りを果たせば、そうした局面は頻繁に訪れることになる。しかし、我が国が、どのような「秩序」の構築と維持に関わろうとも、そのような「秩序」それ自体は、本質的に脆く微妙なものであろうし、我が国が憲法典改訂を経て「普通の国」としての立場を得たとしても、実際の対外行動は慎重を旨とせざるを得ないはずである。ケナンは逝去したけれども、その思想上の影響力は、これからも続いていくのであろう。
雑誌『中央公論』(二〇〇五年五月号)掲載
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Comments
雪斎さんが書かれた追悼文を読んで改めてケナンは"20世紀の賢者”であったことを認識させられました。
先日、ヨハネ・パウロⅡ世という冷戦時代の"影の役者”も亡くなりましたが、世界は未だ冷戦後の秩序を模索中です。
現代の国際政治における新しい賢者の登場が望まれますが、同時に現在の日本外交にも賢者の助言が必要に思われます。
Posted by: yu_19n | April 09, 2005 03:34 PM
頭のよい人をたくさん見てきましたが、尊敬できる人物は本当に少ない。私自身が頭が悪いから、ひょっとしたら目が曇っているのかもしれませんが。ケナンと直接、話をしたわけでもなく、読んだ文献も限られているのですが、尊敬できる数少ない人物です。
常識というのは本当に難しい。人の数だけ常識があるといってもよいぐらい。しかし、人間性への洞察と知的誠実さがやはり常識を形成するのだろうと思います。ケナンは偉大な常識人だったと思います。
異分野から学ぶことが多いことを実感いたします。現行の締め切りを控えていながら、このようなコメントを書いている言い訳も兼ねているのですが。
Posted by: Hache | April 10, 2005 04:11 AM
>yu_19n殿
>Hache殿
余り知られていませんが、ケナンは、18世紀前半の植民地時代に渡米したスコットランド人を祖とする中西部人で、古き良きアメリカの価値観を大事にし続けた人物です。彼は、「賢人」ですが「常識人」だったのです。
Posted by: 雪斎 | April 11, 2005 12:25 AM