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April 30, 2005

余は如何にして政治学徒となりし乎

■ ただ今、世はゴールデン・ウィークに突入したばかりである。雪斎は、例年、この時期には、原稿執筆作業に忙殺されるものであるけれども、今年は「暇」である。これを機に、内村鑑三に倣って、「余は如何にして政治学徒となりし乎」を記してみたい。
 1978年に「NHK特集」の枠内で放送されていたものに、『あの時世界は…磯村尚徳・戦後世界史の旅』という九回シリーズの番組があった。後にNHK特別主幹になった磯村尚徳さんがメーン・キャスターを務めていて、戦後国際政治史を彩った事件を検証するという趣向の番組であった。九編の中身は、東西冷戦の発端「ワルシャワの墓標」、原爆プロジェクトの意味「マンハッタン秘密計画」、インド独立運動の裏面「進めデリーへ」、イスラエル建国の経緯「引き裂かれた聖地」、アラブの石油戦略「ファイサル王の決意」、フランスの独自政策「ドゴールの挑戦」、核対決の実相「ケネディ対フルシチョフ」、ロケット開発の真実「フォンブラウンの執念」、ベトナム戦争の帰結「アメリカの敗退」といった具合である。日本のテレビ番組では初めて「国際政治史」を扱ったということで、当時は大きな反響を呼んだ番組であった。

 当時、雪斎は中学生であったけれども、『あの時、世界は…』は熱心に観ていた。雪斎が判ったのは、政治は、色々な人々の「想い」によって動いているという事実に過ぎなかった。けれども、雪斎は、『あの時、世界は…』の書籍版を高校、大学以降も折に触れて参照していた関係上、その番組の「レベルの高さ」を実感する。「NHKアーカイブス」の枠内で是非、再放送してもらいたいものである。
 このシリーズの中で異色であったのは、チャンドラ・ボースとインド国民軍の軌跡を扱った「進め、デリーへ」であった。ボースは、戦時中、日本と提携して反英独立闘争を主導した。日本の敗戦後、ボースは台北の飛行場において不慮の事故に遭い世を去った。続いて約二万のインド国民軍将兵を待っていたのは、反逆罪による軍事裁判(INA裁判)であった。イギリスへの忠誠心を捨て、敵国日本と協力したとして、国民軍幹部三名が軍法会議に掛けられた。この「レッド・フォート裁判」では、被告三名に有罪判決が下ったけれども、結局は釈放された。「レッド・フォート裁判」は、インド独立への重大な一里程になったのである、
 「進め、デリーへ」編では、この国民軍幹部の三十年後の姿が紹介され、磯村キャスターがインタビューをしていたようである。三名の幹部は、それぞれ国民会議派国会議員、農場経営者、絨毯製造会社社長になっていたようである。今なら、「右派」系の人々が喜びそうな話であるけれども、これは別段、特定のイデオロギーに染まった番組でもない。確かに、それは、日本人が関わりを持った「戦後国際政治史の風景」だったのである。
 折しも、目下、小泉純一郎総理がインド訪問中である。『あの時、世界は…』を四半世紀前に観ることができたのは、雪斎には幸運であった。、

■ 雪斎が政治学という学問領域に本格的に関心を向けるようになったのは、高坂正堯先生の『文明が衰亡するとき』を読んだことを契機にしている。『あの時、世界は…』によって触発された現代史への関心が、この書によって一層、深められた。今、自分が書を著す立場を得て、この「読む人々に影響力を及ぼす」仕事の重みを痛感する。
 下掲の原稿は、17日付『産経新聞』読書面の「この本と出会った」欄に寄稿したものである。雪斎は、高坂先生の謦咳に浴すことはできなかったけれども、亡くなる数ヵ月前の先生から書状を頂いたことがある。それは、論壇で活動することなった旨を記した雪斎の挨拶状に対して、先生が認められた返書であった。ただし、返書を認められた時点の先生が既に病がだいぶ、進んでいた段階であったのを後になって知り、雪斎は、有難くも申し訳ない気持ちで一杯になったものである。高坂先生が亡くなってから、もう九年にもなる。

 ○ 高坂正堯著『文明が衰亡するとき』(新潮選書)

筆者は、本書を高校時代に初めて読んだ。そして、筆者は、本書に出会ったことによって、国際政治学という学問領域に関心を抱くようになり、政治学の世界に足を踏み入れた。「人生を決めた書」を問われるならば、筆者は確実に本書を挙げる。本書には、古代ローマ、中世期ヴェネツィア、現代の米国が中心的な題材として取り上げられているけれども、筆者に最も強い印象を与えたのは、ヴェネツィアの軌跡であった。ヴェネツィアは、中世初期、フン族の襲来を避けた人々が干潟の上に建てた弱小の都市国家であったけれども、その後の歳月の中で海軍力を整備し、神聖ローマ帝国と東ローマ帝国の間を巧妙に立ち回る外交を展開することによって、興隆を果たした。ただし、ヴェネツィアは、中世の終焉に至って地中海交易を取り巻く環境の変化やオスマン・トルコ帝国との抗争によって疲弊し、没落する。本書を初めて読んだ頃の筆者は、専らヴェネツィアの「成功」に眼を奪われていた。どんなに条件が悪いところから出発しても、幸運と才能と努力とが揃えば「成功」に至れるものだと考えることは、若き日の筆者には意を強くさせるものであった。しかし、現在の筆者は、過去の「成功」に縛られ、外部環境の変化に上手く対応できないままに衰退したヴェネツィアの姿を気にする。無論、変化に対応していくことは、実際には難しい。「如何ともし難い」局面は、人間の世界には、確かにあるのである。政治学者としての故・高坂正堯教授は、「現実主義の雄」と評された。高坂教授における現実主義は、ただ単に「現状追随」ということを意味したのではなく、「盛者必衰の理」の中で、それでも格闘する人間の姿への眼差しに裏付けられたものであったろう。本書の叙述は、そうしたことを静かに伝えるものであった。
  『産経新聞』(4月17j日)読書面「この本と出会った」欄掲載

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