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April 06, 2005

雑誌『論座』に寄稿した対朝政策論

■ 昨日夕刻以降、東京・築地、朝日新聞社内で「『論座』発刊十年記念交流会」が開催され、雪斎もそれに招かれて参集する。結構、多様な人士が姿を見せていた。政界からは、鳩山由紀夫・元民主党代表、武部勤・自民党幹事長、土井たか子・元衆院議長、福島瑞穂・社民党党首、仙谷由人・民主党政調会長、浅尾慶一郎参院議員といった具合である。学者・知識人となると、五百旗頭眞先生、小此木政夫先生、国分良成先生、飯尾潤先生といった方々と言葉を交わす。

 誠に面白い会合であった。雪斎にとって少し驚きであったのは、旧友のK・U女史が福島瑞穂・社民党党首の政策担当秘書になっていたことである。傍らで、新右翼・一水会の鈴木邦男氏が歓談の輪に入っておられていた。中々、凄い空間であった。
 下掲の原稿は、『論座』今月号に掲載されているものである。この原稿は、「北朝鮮制裁論の愚―保守系論客二人の徹底批判」という項目で森本敏先生の原稿に並んで掲載されている。

■ 「暴朝膺懲」の錯誤に陥らないために

 一、はじめに
 北朝鮮に対する経済制裁の発動に関しては、既に国内的な合意が出来上がりつつあるようである。事実、『読売新聞』世論調査(平成十七年二月十二、十三両日実施)では、「期限を切って制裁を発動すべき」と答えた層は七一・一パーセントに達している。また、一週間後の『朝日新聞』世論調査(二月十九、二十両日実施)では、「経済制裁などの強い態度で臨むべき」とした層が六一パーセントを占めている。
 振り返れば、昭和十二(一九三七)年七月、日中戦争勃発直後、我が国政府は「事態不拡大の方針」を決定していたにもかかわらず、近衛文麿は、「暴支膺懲」の気分に浸った世論や軍部に迎合した発言を繰り返し、翌年一月には「爾後、国民政府を対手とせず」を趣旨とする声明を出した。この「第一次近衛声明」は、以後の外交交渉による事態収拾の可能性を潰したという意味で、日本近代外交史における失敗の最たるものと評される。もし、今後、北朝鮮政府の姿勢が我が国の人々の感情を害するものであり続けるならば、たとえ小泉純一郎(内閣総理大臣)が「暴朝膺懲」とも呼ぶべき雰囲気の中で「爾後、金正日を対手とせず」を趣旨とする声明を出したとしても、それが国内からの厳しい批判に晒される光景は、率直に想像し難いであろう。
 しかし、北朝鮮政府は、外交交渉を進める相手であったとしても、懲罰を加える相手ではない。現下の対朝経済制裁論議が、このことを踏まえないものであるならば、実際に導き出される政策は、相当に歪んだものになるであろう。対朝制裁が現実の選択肢として語られれば語られるほど、それが「暴朝膺懲」の錯誤に陥らないようにするための考慮は、大事なものなのではなかろうか。

 二、対朝制裁論議におけるデジャヴー
 現下の北朝鮮が「悪漢国家」と称される所以は、核やミサイルの開発、邦人拉致に象徴される人権抑圧、さらには通貨偽造や麻薬取引への関与といった事柄に関して国際社会の疑念を払拭していない一方で、余りにも挑発的な言辞によって周囲に相対していることにある。そのような「悪漢国家」としての北朝鮮の現状は、確かに我が国の幾多の人々にとっては我慢ならないものであろう。しかしながら、北朝鮮の現状に関して留意されるべきは、北朝鮮が歴然とした国際連合加盟国であるという事実である。金正日(北朝鮮労働党総書記)麾下の北朝鮮政府は、テロリスト・グループでもなければ、一時期のアフガニスタンを実効支配しつつも国際的な承認を得ていなかったタリバン政権の類のものでもない。金正日体制下の北朝鮮政府が「体制の存続」に躍起になっている事情はともかくとして、国連加盟国としての北朝鮮の非理を糾すためには、北朝鮮政府を交渉相手として適切に位置付けることが、総ての前提となる。我が国の「保守・右翼」「層には、金正日体制の「転覆」の模索や「金正日を対手にせず」といった姿勢を歓迎する向きがあるかもしれないけれども、そのような模索や姿勢は、「外交の失敗」を意味するものでしかないのである。
 ジョージ・W・ブッシュ(米国大統領)麾下の米国政府の対外政策展開は、「悪の枢軸」といった言辞に対する批判や「単独行動主義」の性格を指摘する半ば定型的な評価にもかかわらず、北朝鮮情勢への対応に関しては抑制的な色調を示している。たとえばブッシュは、米国東部時間二月二日夜、連邦議会で行った「一般教書演説」中、「われわれは、アジア諸国との連携を密にして、北朝鮮に核の野望を諦めるように働きかけている」と語った。因みに、『産経新聞』(三月七日付)が報じたところによれば、コリン・L・パウエル(前米国国務長官)は、米国の対朝政策の目的が、金正日体制の「転覆」ではなく「核の放棄」にあると指摘した上で、我が国における対朝経済制裁への動きに関して、「制裁というのは効果があがらない限り、適用すべきではない。北朝鮮に対して、きちんと答えるように働きかけることが重要だ」と語った。また、『読売新聞』(二〇〇五年二月十七日付朝刊)には、ハワード・A・ベーカー(前駐日米国大使)が対朝経済制裁に言及したものとして、「制裁は多国間で行わなければほとんど効果がないと思う」という言葉が紹介されている。米国政府は、北朝鮮政府が要求する米朝直接交渉に応ずるという一方的な選択を下さないであろうし、我が国が関係各国の諒解を得ないで対朝経済制裁を発動することも歓迎しないであろう。北朝鮮情勢への対応には「国際協調」を旨とするというのが、少なくとも日米両国の諒解事項なのである。
 ところで、北朝鮮に絡む多くの問題を「国際協調」の枠組で解決するという一応の諒解を前にして、筆者は、北朝鮮情勢の動向が国際政治の焦点として認識され始めた十余年前の日々を一種の「デジャヴー」の感覚とともに思い起こす。たとえば『読売新聞』(一九九四年四月二十二日付)には、次のような記事が掲載されている。

 米国のウィリアム・ペリー国防長官が二十一日来日、早速同日夜、都内のホテルで愛知和男防衛庁長官と夕食をともにしながら約二時間、会談した。
 愛知長官は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発疑惑に関し、国連安全保障理事会の制裁が実施された場合に問題となる海上阻止行動の支援や、米軍への燃料補給などについて、「憲法の範囲内で責任ある対応をとる。場合によっては法制度を変えることも含めて取り組むことが必要になるかもしれない」と述べ、関連国内法の改正について前向きに検討する考えを明らかにした。
 一方、ペリー長官は「あくまで外交的解決を求めて対話の窓口を開くことが重要」としながらも、北朝鮮が国際原子力機関(IAEA)の追加査察を受け入れない場合は、国連安全保障理事会が経済制裁に踏み切らざるを得ないとの見解を表明した。
 また、両首脳は日米安全保障体制が果たしている役割の重要性を再確認し、安全保障面での連携強化が両国の信頼関係を維持するうえで不可欠との認識で一致した。
 ペリー長官の来日は就任後、初めて。同長官は来日に先だって韓国を訪問し、李炳台国防相らと北朝鮮の核開発疑惑問題をめぐる対応策を協議した。

 一九九四年春、ウィリアム・ペリー(当時、米国国防長官)が李炳台(当時、韓国国防相)や愛知和男(当時、防衛庁長官)と相次いで会談した後、愛知が李と会談した結果、現在に至る日米韓三ヵ国協調の枠組の「原型」が出来上がることになる。しかし、現在の時点から振り返るならば、愛知がペリーとの会談の席で言及した「法制度の変更」は、展開すべき政策の方向性を示すものであっても、実際の施策の根拠を示すものではなかった。もし、十余年前に国連安保理での議論の結果としての制裁が発動されていたとしても、我が国が実際に手掛けられることは、極めて限られていたのである。日米両国の安全保障に関わる人々の中に往時を振り返って「地獄を見た」という評があるのは、そのような我が国の「限界」が特に日米関係に致命的な亀裂を生じさせかねなかったという事情を指している。その意味では、同年六月、ジミー・カーター(元米国大統領)が北朝鮮を訪問し、金日成(当時、北朝鮮国家主席)との会談に及んだ結果、事態が急転直下の収束に向かったのは、制裁の発動を免れた北朝鮮にとってというよりも、そのような「無為」を白日の下に晒すのを避けられた我が国とっての僥倖に他ならなかったのである。
 結局のところ、愛知が言及した「法制度の変更」は、橋本龍太郎内閣期に「日米安保共同宣言」が発表された後、小渕恵三内閣期の「日米防衛協力指針(ガイドライン)」関連三法案成立や小泉純一郎内閣期の有事関連三法案成立といった出来事を経て、一応の成就となった。我が国は、そのために実に九年余りの歳月を費やしたのである。
 従って、現下の「六ヵ国協議」での対朝説得が不調に終わった結果、十余年前と同じように北朝鮮問題の国連安保理付託、安保理での経済制裁決議採択、制裁発動という流れができたとしても、我が国政府は、それほど右往左往することもなく対応できるのではないか。というのも、現在の我が国政府は、十余年前とは異なり、愛知の言葉にある「憲法の範囲内で責任ある対応をとる」ための法制上の枠組を既に手にしているからである。逆にいえば、湾岸戦争以来、過去十数年の我が国の安全保障努力は、そのような「国際協調」の枠内で我が国が「無為」を示さないための準備であった。我が国の「普通の国」への脱皮に向けた動きには、既に様々な評が示されているけれども、確実に指摘できることは、そのような動きが「日本が他国の事情に構うことなく独自の判断で何でも手掛けられる立場」の獲得を目指したものではないということである。それは、「国際社会の中で許容される権利を適切に行使し、要請される義務を着実に履行できる立場」の獲得を目指したものでしかない。そのような「冷戦の終結」以後の安全保障政策の原点は、忘れ去られてはなるまい。

 三、対朝「国際協調」の具体的な手順
 我が国が対朝経済制裁の発動に本腰を入れて乗り出そうというのであれば、それを「国際協調」の一環として粛々と進めるという体裁を整えることが大事になるであろう。現下の「六ヵ国協議」での対朝説得が不調に終われば、我が国が手掛けるのは、この問題を国連安保理に付託すべく関係各国に働き掛けることである。折しも、コンドリーザ・ライス(米国国務長官)は、三月二十一日、訪問先の中国で問題の国連安保理付託の可能性を示唆したけれども、我が国もまた、そうした動きに足並みを揃えていくべきであろう。そして、筆者は、我が国が対朝経済制裁を発動する時機とは、国連安保理での協議の結果、対朝経済制裁決議が採択された瞬間であると考えている。我が国は、対朝「圧力」の手順を進めようとするならば、このような「国際協調」の枠組を構築することに意を用いるべきであろう。その折には、次に述べる二つの事柄が考慮される必要がある。
 第一に、我が国は、北朝鮮に絡む諸々の問題が「国際社会の共通の問題」として定義し直されるように、意を用いなければなるまい。前に触れたように、北朝鮮が「悪漢国家」として位置付けられる事由は、核やミサイルの開発、邦人拉致に象徴される人権抑圧、通貨偽造や麻薬取引への関与といったように、多岐に渉っているけれども、これらの事柄に対する関心の度合いには、「六ヵ国協議」関係各国の中でさえ相当な落差がある。たとえば核やミサイルに絡む問題への取り組みに際しては、「六ヵ国協議」関係各国には、一応の諒解が出来上がっているかもしれないけれども、同じような諒解が邦人拉致のような問題にも出来上がっているのかは、定かではない。また、そもそも現下の「六ヵ国協議」の場に席を占めていない幾多の国々にとっては、北朝鮮情勢の動向などは、関心の外にある事項であるかもしれない。こうした現状が克服されない限りは、経済制裁発動を含む施策を我が国が単独で打ち出したとしても、その結果は我が国にとって決して芳しいものではないであろう。
目下、我が国の国連安保理常任理事国入りに向けた動きが加速している。振り返れば、一九七〇年九月、愛知揆一(当時、外務大臣)は、第二十五回国連総会における一般討論演説の中で、「現在の安全保障理事会の常任理事国の構成は、…再検討される必要があると考えます。現常任理事国の大部分は核兵器国でありますが、常任理事国の資格を考慮する際、核軍事力は決定的な要因となるべきではありません」と述べ、将来の安保理常任国入りへの意向を示唆していた。近年でも、橋本龍太郎、小渕恵三、小泉純一郎といった歴代の宰相が、常任理事国入りへの意志を表明している。近い将来、我が国の安保理常任理事国入りが実現すれば、それは紛れもなく我が国外交の大願成就であろう。ただし、その大願成就の暁に何を手掛けるかということは、普段から説明される必要がある。北朝鮮に絡む諸々の問題を「国際社会の共通の問題」として定義し直した上で、それに取り組むと表明しておくのは、我が国には誠に相応しいものなのではないか。
 第二に、我が国は、「国際協調」の下での対朝制裁の発動を模索するならば、特に中国との関係を考慮しないわけにはいかないであろう。確かに、小泉純一郎の靖国神社参拝への中国政府の反発、AFCサッカー・アジアカップ中国大会の折の「反日」騒動、中国海軍所属原子力潜水艦による日本領海侵犯といった出来事に暗示されるように、「政冷経熱」と形容される近年の日中関係は、だいぶ緊張感を伴ったものである。また、南沙諸島領有や東シナ海海洋権益に絡む摩擦、中台関係を念頭に置く「反国家分裂法案」の採択といった一連の出来事は、我が国だけではなく他の国々の人々の対中「共感」を著しく削ぎ落としている。しかし、このような対中関係の現状にもかかわらず、中国が北朝鮮に対しては「抗米援朝戦争」と称される朝鮮戦争以来の影響力を持っているという事情は、決して無視できない。我が国の人々は、その対中「感情」がどのようなものであれ、対朝政策を展開する際には、中国の対朝「影響力」による「協調」を期待しないわけにはいかないのである。
率直にいえば、「ソフト・パワー」の意義が強調される今後の国際政治の場裡では、一つの国家の「声望」や「威信」を支えるのは、他国の人々から向けられた「畏怖」ではなく「共感」である。たとえ「愛されるより怖れられよ」というニコロ・マキアヴェッリの言葉が示すように、「共感」よりも「畏怖」の感情の方が人々の行動を決定的に左右するものであるとしても、「畏怖」の感情を露骨に周囲に植え付けるような振る舞いは、現在の国際社会では受け容れられない古色蒼然の代物である。そのような古色蒼然とした流儀で自らの「威信」を示そうとする現下の中国の対外姿勢は、自らの中長期的な利益に明らかに相反するものであろう。そうであればこそ、中国に対しては、周囲の国々の「共感」を得る意識的な努力が要請される。中国が自らの対朝「影響力」を発揮し、北朝鮮が「震源」となっている諸々の「国際社会の共通の課題」への取り組みに実質的な貢献を為すことができれば、それは、幾多の国々に対中「共感」を積み増すものになるであろう。無論、現下の「六ヵ国協議」の枠組が中国によって主導されている側面があるにしても、たとえば国連安保理のような場でも、そのような中国の努力が求められるのは、間違いない。そして、我が国が対中外交の文脈の中で繰り返し説くべきは、そのような国際社会での「共感」の価値なのである。
 筆者は、仰々しい言辞を排した「静かな外交」の展開を歓迎する。無論、我が国における対朝感情が悪化すればするほど、「日本の怒りを示せ」といった言辞の下に対朝政策が展開されることを期待する声は、高まる一方なのであろう。筆者は、たとえば拉致被害者の家族の人々が、そうした期待を表明すること自体は、「情」において理解できると思っている。ただし、実際の対外政策は、そのような「日本の怒りを示せ」といった姿勢によって展開されるわけにはいかない。というのも、そのような姿勢の下での対朝政策は、北朝鮮政府の「意図」を動かし、他国の政治指導層の「共感」を得られるものであるとは限らないからである。兵法書『孫子』にも、「辞の卑くして備えを益す者は進むなり。辞の強くして進駆する者は退くなり」という記述がある。対朝政策は、その結果が我が国にも甚大な影響を及ぼすものであるが故に、その「実質性」こそが、何よりも問われなければならないのである。

 四、おわりに
 広く政治は、工学、化学や物理学のような自然科学の研究室で行われる実験とは本質的に様相を異にするものである。自然科学の実験であるならば、試薬の混合の失敗が後にノーベル化学賞授与の事由となる発見を導いた田中耕一(化学者)の事例に示されように、絶え間ない「試行」(trial)と「錯誤」(error)の繰り返しが、何よりも大事な作業として要請されるのであろう。しかし、人間の社会を対象とした政治という営みにおいては、政治家による何らかの政策上の「試行」には、少なくとも一国の命運が賭されざるを得ないし、その政策上の「錯誤」は、途方もない数の人々に甚大な惨害を及ぼすことになるであろう。二十世紀の人類は、ロシア革命期の「富農」撲滅、中国における「大躍進政策」や文化大革命、あるいはクメール・ルージュ統治下のカンボディアにおける「自国民大量虐殺」といったように、この「試行」と「錯誤」が織り成す陰惨な光景を度々、出現させてきた。そして、「戦争と平和」が絡む国際政治の場裡では、慎慮を伴わない「試行」によって招かれた「錯誤」の帰結は、人々の想像を超えるものになるであろう。そこでは、「結果として、どのような状況を出現させるのかが判然としない」施策は、最も厳しく排除されなければならないのである。
 既に指摘したように、我が国単独での早々の対朝経済制裁発動を求める声は、特に「保守・右翼」層においては喧しい。筆者は、そのような声には一貫して批判の眼差しを向けてきた。それは、一般に語られるように、「制裁の効果が薄い」とか「北朝鮮暴発の契機になる」といった制裁発動の結果を何よりも懸念する故にではない。筆者が懸念するのは、紛れもなく、「制裁発動の結果、どのような状況が我が国周辺に出現するかが判然としない」という事実の故である。北朝鮮に絡む政策は、北朝鮮一国だけを対象にしたものではなく、特に中国や韓国との関係への影響も考慮した上でのものでもある。我が国単独の制裁発動は、それを決して歓迎していない中韓両国との関係には、どのような影響を及ぼすことになるのであろうか。そうしたことの予測は、実際には決して容易ではない。我が国にとっては、そうした予測の難しさを敢えて引き受けた上で、単独制裁発動によって出現する「未だ視たこともない光景」への対応を迫られるのは、決して賢明なものではない。人間は全智全能の存在ではないのであれば、対外政策の構想、立案や遂行に際してこそ、「自らは決して総てを見通せるわけではない」という謙虚さが、誰にでも要請されよう。我が国単独での制裁発動を求める議論に欠落しているのは、その「謙虚さ」なのではなかろうか。
    雑誌『論座』(2005年5月号)掲載

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Comments

あえて素人がコメントさせていただきます。単独制裁は論外ですし、北の体制がいかに特異とはいえ、交渉相手であって軍事的オプションが事実上、排除されている(アメリカが北朝鮮に抑止されている)状況では解決の手段は外交、それも一方的な制裁ではなく、交渉が必要だということは自明だと思います。

問題は、中国の役割は大きいけれども、彼らが北への影響力を行使する見返りが今ひとつ明確ではないという点です。「共感」が大切だということは理解できるのですが、中国の指導者が理解できるのかどうか。指導者の理解力が問題なのではなくて、共産党内の保守派、国内世論を説得する材料があるのかどうか。お時間がありましたら、ご検討ください。

論壇のことは不案内なのですが、世論の反応が私でもびっくりするぐらいなのはかならずしも悪くないと思います。「暴支膺懲」と重なる部分もあります。しかし、平壌宣言の誠実な履行を求める上で不利に働くことはないと思います。ただし、単独制裁などは交渉の枠組みを根本から崩し、わが国の孤立を招きかねないでしょう。国民を説得するに、まずは情から入るのがよく、最後に打算に訴えるのがよいと思います。この点に関しては日本人をもっと信頼してよいと思います。

私のような市井の人間が安全だということを認識できる「安心」の問題についてややもすると、政府や良心的な外交・安全保障の専門家は関心が薄かったのではないかと思います。説得が非常に難しい作業であることは承知した上で申し上げたい点です。

門外漢が長々と失礼いたしました。的外れな点が多いと思いますが、ご検討頂ければ幸いです。

Posted by: Hache | April 07, 2005 at 03:48 PM

「論座」の方でも拝見しました。大変表現に気を遣われた、適切な内容と存じました。私も各国の連携と安保理決議採択に力を注ぐのが適切と強く感じております。
しかしながら、現時点までの経過を見るに、個人的予想としては外交での解決を悲観的に見ております。このままずるずると時間が経過するような気がしてなりません。6月あたりまで米国は待つとか、風の噂に聞きますが確たるものではないでしょうし。
最後、これは勘に近いものですが、最後はロシアカードのように思います。自分の歴史観ではそんな感じです。根拠はないのですが。

Posted by: カワセミ | April 07, 2005 at 10:57 PM

>Hache殿
中国の扱いは、今まで以上に「実利」を旨としたほうがいいかもしれませんね。他国の「共感」を得たほうが自らの「実利」に照らし合わせて好都合である。そういう姿勢で話を持っていくべきと思います。

>カワセミ殿
 少なくとも日本には「六ヵ国協議」の枠組に固執しなければならない理由はありません。埒が開かなければ、安保理付託に持ち込むのみです。イラク戦争に反対した米国の政治学者の中にも、国際合意を図った上でなら、北朝鮮核施設に限定空爆を加えても構わないという評があります。


Posted by: 雪斎 | April 09, 2005 at 09:41 AM

わざわざリプライ有難うございます。

説明が足りずに申し訳ありません。私は安保理行きでの外交もうまくいかないと考えております。結局北朝鮮のような政権を動かすには切迫した軍事力の裏付けが必要と思っていますが、そこで安保理が機能しないのではと危惧しています。いずれにせよ国連改革との絡みもありますから短期には動きづらい状況でしょう。六ヶ国協議は成功すれば良し、破綻しても一定の手続きを踏んだという価値ありで、この付近は議論の無いところでしょうね。

まぁ、現段階での予想としては悲観的に過ぎるかもしれませんが、相当強引なアプローチが必要そうに思えます。

Posted by: カワセミ | April 10, 2005 at 12:12 AM

>カワセミ殿
貴殿の仰る「相当強引なアプローチ」が具体的にどのようなものかは、考えておく必要があります。朝鮮半島に全面的な軍事部隊の展開は無理だが、各使節を狙った限定空爆ならば大丈夫という見方もあります。

Posted by: 雪斎 | April 11, 2005 at 12:36 AM

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北朝鮮の核実験に関する報道が増えている模様。予想するに、核実験が行われてしまった後に、六カ国協議が決裂し、国連安保理付託の道を進むのではないか?と予想する。 [Read More]

Tracked on May 12, 2005 at 01:15 AM

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