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March 01, 2005

士為知己者死、女為説己者容。

 雪斎は色々な映画を観てきた。大概の日本人は、2月26日という日付を見れば、「2・26事件」を連想するだろう。篠田正浩監督作品『スパイ・ゾルゲ』でも、「2・26事件」の一日は描かれている。石原良純さん演ずる決起将校が朝日新聞に乱入し、「奸賊、朝日新聞を討つ」と叫んだシーンには、雪斎は、父君である石原慎太郎都知事の顔を思い浮かべながら、苦笑してしまった。しかし、「2・26事件」を扱った映画で忘れられないのが、森谷司郎監督作品『動乱』(出演・高倉健&吉永小百合/東映/1980)年)である。

『動乱』は、丁度四半世紀前の作品である。当時、高倉健さんが四十九歳、吉永小百合さんが三十五歳である。雪斎は、中学生であった。もしかしたら、雪斎は、リアルタイムで観たのではなく、もしかしたら少し長じてから観たのかもしれない。けれども、それは、相当に強い印象を残している。
 「予譲遁逃山中、曰『嗟乎。士為知己者死、女為説己者容。今智伯知我、我必為報讎而死、以報智伯、則吾魂魄不愧矣』」。司馬遷の『史記』の有名な一節である。、「士は己を知る者のために死し、女は己を説(よろこ)ぶ者のために容(かたちづく)る」。即ち、「士は己を知る者のために死し、女は己を愛する者のために化粧する」という意味となる。この件を初めて眼にしたとき、雪斎は、『動乱』劇中の健さんと小百合さんの姿を思い浮かべた。「男が男として生きる様」、「女が女として生きる様」というのは、『史記』の時代以来、二千年の時を経ても尚、何ら変わっていない。雪斎は、そうしたことに気付かされたのである。それにしても、健さんの役柄というのは、何時も、「何かに耐えている」という風情である。「」
 雪斎は、今は「主体的浮動層」たることを要請された知識人である。それ故、「政策担当秘書」時代ならばともかくとして、今後は、「士為知己者死」を実感する機会が訪れるのは、余りないかもしれない。それは、それで寂しいものがある。ただし、渋澤青淵翁も、次のような訓話を残している。「真正の学者と言われる人ならば、常に経世済民の事をかんがえ、国家の隆昌をもって己れの任となす人たるべきはずである」。「士為知己者死」の言葉を吐いた予譲は、仕えた智伯が自らを国士として遇したが故に、国士として智伯に殉じようとしたのである。雪斎のような学者も、「常に経世済民の事をかんがえ、国家の隆昌をもって己れの任となす」国士であるのが当然だということであろうか。
 平成の御世も早くも十七年目である。「昭和」は、雪斎にとっても、もう遠くなった。

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