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March 26, 2005

日本メディアが伝えた「ケナン逝去」

■ 歴史用語には、言葉の印象とと事件の実態とが乖離させているものがある。日本では「ボストン茶会事件」と呼び習わされる(Boston Tea Party)は、そうした事例の一つである。この事件は、1773年12月16日、マサチューセッツ州ボストン市で、英国本国からの過酷な税に憤慨した植民地人たちが、アメリカインディアンに扮装して港に停泊中の英国船に進入し、東インド会社の紅茶の船荷を海に投げ棄てたという事件である。この事件は、米国建国史の重要な風景であるし、当然のことながら日本の高校「世界史」教科書にも載っている。ところで、何故、〈Boston Tea Party〉は、「茶会」事件と訳されているのであろうか。事件の実態を考えれば、「茶隊」事件、あるいは「茶党」事件と呼ぶべきではないのであろうか。
 〈containment policy〉に与えられた「封じ込め」というという言葉にも、同じような語弊がある。「封じ込め」という言葉には、外から締め上げるという印象があるけれども、〈contain〉という言葉には元来、そのような意味合いはない。〈contain〉の語は、物資を収蔵する「コンテナー」との連想で、何かが外に溢れ出ないように収容し、塞き止めるというニュアンスがある。要するに、〈containment policy〉の含意とは、共産主義の勢力が自由世界に溢れ出てくるのを「塞き止める」というものであったのである。それ故、「封じ込め」政策は、本来は「塞き止め」政策とでも呼び替えられるのが適切であろう。

■ ところで、日本のメディアは、どのように、「封じ込め」戦略を構築したジョージ・F・ケナンの逝去を伝えたのであろうか。

  ○ 元アメリカ外交官G・ケナン氏死去 日本復興にも関与を重視
    2005.03.19 朝日新聞東京朝刊

 17日、101歳の生涯を終えた米国の対ソ「封じ込め政策」の生みの親、ジョージ・ケナン氏は、米国務省に勤務する外交官として、第2次大戦後の日本の占領や、ヨーロッパの復興にも深くかかわった。
 国務省に入ったのは25年。モスクワの代理大使をつとめていた46年に、本国に送った長文電報の中で、「封じ込め」の考え方を初めて打ち出し、当時のトルーマン政権内で注目された。翌47年には外交評論誌「フォーリン・アフェアーズ」に筆名「X」で、電報とほぼ同じ内容の論文を「ソビエト行動の源泉」の題名で発表、世の中に広く知られるようになった。
 その一方で、同年、国務省に新設された政策企画室長に任命されると、日本の占領政策やヨーロッパの復興政策を取り仕切った。
 米ソの緊張が高まるにつれて「封じ込め政策」は軍事的側面が前面に出るようになったが、もともとは経済、社会面も含めた幅広いアプローチを主張していた。ベトナム戦争には、軍事的な手段では解決は望めないと強く反対。核軍備競争や核兵器を基盤とする防衛政策がはらむ危険性も、50年代から指摘していた。
 日本におけるアメリカ政治外交史の第一人者斎藤眞・東大名誉教授は78年から79年にかけて、プリンストン大の高等研究所に在籍した当時、名誉教授だったケナン氏に、アメリカ外交について質問をしたことがあったという。「大家ぶらず、分け隔てなく、どんな質問にも真摯(しんし)に答えてくれた」と振り返る。当時すでに70歳を超えていたが、「非常に元気だった」という。
 最近のイラク戦争についても、開戦前の02年、米議会専門紙のインタビューに答えて「戦争が良い結果に導くことはない」などと指摘。ブッシュ政権が検討していた武力行使策を批判した。(ニューヨーク=池田伸壹)
 ◆基準押しつけず、経済発展
 <古矢旬・北海道大教授の話> 絶対的な基準を他国におしつけるのではなく、あらゆる政治制度に価値を見いだす、すぐれた外交思想家であり、外交の実務家だった。占領期の日本の民主化でも、現実主義者のケナン氏は、軽武装で経済発展を重視するという政策を選択した。現在の日本のありようは、イラク占領などに象徴されるアメリカ外交政策とは全く異なる、ケナン流の現実主義に負うところが大きいのではないか。

  ○ 近事片々:17日元米外交官のG・ケナンさんが死去した…
   2005.03.19 毎日新聞東京夕刊

 17日元米外交官のG・ケナンさんが死去した。1世紀と1年1月1日生きた。自称「粗野な中西部人」の孤高、リベラルかつ「ソ連封じ込め」提唱者。実務と思想の批判的愛国者として“現実主義外交”定着に終生努めた。
   ◇
 国務省の要職にあって敗戦日本の「軽武装・経済再建」路線の選択にも深く関与した。また米外交の重鎮として、時々の米政権の核政策を批判し提言し、ベトナム戦争やイラク開戦に反対した。
   ◇
 言葉を引こう。「時は遅いかも知れぬが遅すぎるわけではない。人の困難は抱負を生み意思を働かせるなら和らげられぬわけがない。問題は、何ができるかを見定め、それをやってみるだけの気概と決心を持つことだ」

  ○ 「封じ込め政策」論文のケナン氏死去 ブッシュ政権を痛烈批判も
   2005.03.19 読売新聞東京朝刊

冷戦期の米国家戦略「封じ込め政策」の生みの親で、17日に101歳で死去したジョージ・ケナン氏が最晩年の2002年、同時テロを経てブッシュ現政権が打ち出した先制攻撃も含む新戦略(ブッシュ・ドクトリン)に痛烈な批判を加えた。
「私が『封じ込め』という言葉を使ったときは、ソ連というたった一つの現象への対応を示せばよかった。予想もつかない何十通りもの事態が起き得るテロとの戦いを、ドクトリンという一つの規範で制約してしまうのは間違いだ」
イラク攻撃についても「テロとの戦いとはまったく関係ないものだ」と切って捨て、攻撃に踏み切れば国際社会の共感を得られず、同時テロ後に構築された国際協力体制も台無しになる、と力説していた。
ケナン氏は、自身の代名詞となった「封じ込め」という言葉について、「真意を誤解された」として終生悔やんでいた。
1996年の米誌とのインタビューでケナン氏は「私は、ソ連が米国を攻撃する意図があるとはまったく考えていなかった。それをはっきり説明しなかったのは大失敗だった」と語っている。
ソ連経済、社会のぜい弱さを見抜いていたケナン氏は、ソ連が西側と張り合って膨張政策を続けることは困難と判断。米国は政治、経済的封じ込めを粘り強く続けてソ連の自壊を待つべきだと考えていた。
歴代米政権がソ連による西欧侵攻への恐怖から膨大な核戦力を保持し、準戦時体制を敷いてソ連とにらみ合う構造が出来たのは氏の本意ではなかった。
失意の中で外交の一線を退き、学究の道に入ったケナン氏。だが、冷戦終結とソ連崩壊は、ケナン氏の考えが基本的には正しかったことを証明した。
2004年2月、ケナン氏の100歳を祝うためプリンストン大学を訪れたパウエル国務長官(当時)は「歴史という織物が紡がれて行く様をその目でとらえられる人はめったにない。ケナン氏の予測は真の賢者の言葉だったのだ」と最大級の賛辞で、先達をたたえた。(永田和男 前ワシントン特派員)

 ○ 湯浅博の世界読解】封じ込め戦略は死なず
  2005.03.23 産経新聞東京朝刊
 
 米国のトルーマン政権で対ソ冷戦戦略を発案した元駐ソ大使ジョージ・ケナンが亡くなった。享年、百一歳である。自ら構築した「封じ込め」の戦略によって半世紀の後に、ソ連の崩壊を見届けた稀有(けう)な人生であった。
 実は一九九七年十二月の寒い日に、ワシントンでケナンと言葉を交わしたことがある。このとき、すでに九十四歳だったから、米外交界の巨人に会えるのは「これが最後か」とその姿を頭に刻んだ。
 ケナンに会うべく、晩年を過ごしていたプリンストン高等研究所に何度も手紙を書いた。一時は同じ地域に住んだこともあって、不作法ながら高等研究所に直接、訪ねたこともある。彼の秘書には、高齢を理由にインタビューを断られていた。
 ところが、米外交アカデミーの受賞のためワシントンのホテルに来ることを偶然に知った。つえをつき、補聴器に頼ってはいたが、背筋をしゃんと伸ばして健康そうに見えた。ケナンと並んで写真を撮っていたのは、国務省で朝鮮半島問題の担当大使だったロバート・ガルーチだった。彼はケナンが在モスクワ米大使館の代理大使だったころに生まれた「冷戦ベイビー」である。
 ガルーチが生まれてわずか十一日後の四六年二月、ケナンはモスクワから米外交の政策転換を促した「長文電報」を打っている。この電報でケナンは、トルーマン政権の対ソ戦略の理論的な裏づけを提供し、やがて有名なX論文で「封じ込め戦略」を打ち出した。
 その彼が言葉少なではあったが、冷戦後の外交官の役割がいかに後退したかの嘆きを語ってくれた。
 あれから八年。彼は冷戦後の世界までも見届けて息を引き取った。しかし、外交戦略家としていまの米国を納得して逝ったかは分からない。「封じ込め戦略」に見るケナン理論のすごさと、その後、政府中枢から疎外されていくそのギャップがあまりに大きかったからである。
 それはつい先ごろ、ライス国務長官が東京到着後に出したケナンへの追悼声明に表れている。長官はまず、「米外交史に残る偉大な戦略家の一人」としてたたえた。しかし、国務官僚としての冴えを見せたのは、ライス声明の通り「長文電報からマーシャル・プランまで」なのである。
 以後は、米国外交界の主流派からは、疎んじられていく。ケナンはベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と主要な米国の軍事行動のすべてに反対してきたからだ。
 さて、マーシャル・プランは欧州復興によって共産主義の膨張を阻止する意味で、ケナンの構想を反映していた。しかし、政権が採用した北大西洋条約機構(NATO)の設立など軍事が中心になったことに幻滅する。
 キッシンジャー元国務長官は著書『外交』で、ケナンの理論こそが「対ソ防護壁に兵員を配置したことに貢献した」と皮肉っている。ライス長官も、ケナンと同様にロシア研究者ではあったが、レーガン政権時には対ソ強硬論を進言している。
 同じ現実主義の外交に立ってはいても「封じ込め」の手段が異なっていた。だから、ソ連の崩壊はケナン「理論」の正しさの証明だったと同時に、レーガン政権による対ソ強硬「政策」の正しさの証明になった。
 その「封じ込め戦略」がいままた、イスラム原理主義過激派のイデオロギーに対抗する理論としてよみがえっている。ケナン死すとも、理論は生き続けている。(東京特派員)

 これらの記事に加え、一昨日の「読売新聞」夕刊文化面に五百旗頭眞先生が、「ジョージ・ケナン氏を悼む」として原稿を寄せておられる。五百旗頭先生は、ご自身が好きなケナンの言葉として次のようなものを紹介している。「もし私が外交官としてよい仕事が出来たことがあるとすれば、それは私が歴史を好み学んだからだ。もし私によい歴史が書けたとすれば、それは私が現実の外交に取り組んでいたからだ」。このケナンの言葉は、「永田町」と「大学」という二つの世界を経た雪斎にとっても、ずしりと胸に響く。五百旗頭先生は、このケナンの言葉について、「学者が実際の政策に関与することを堕落と決め付ける気風の強い戦後日本の学界にあって、一条の光のように感じられた」と述懐されているけれども、それならば、雪斎は、戦後日本の学界の常識では、「堕落した世界から来た部外者」であろう。しかし、雪斎が自分の手掛けることに自信を持てるのは、「レベルは及ばないが、やっていることはケナンと同じである」という意識があるからである。
 雪斎の「ケナン追悼」の原稿は、雑誌『中央公論』来月号「時評2005」欄に掲載される。この原稿は、現時点では公開できない。この原稿も日本における「ケナン理解」の幅を拡げるものであることを願っている。

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