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February 10, 2005

『中央公論』「時評2005」原稿・#3

■ 今年は、「戦後六十年」である。おそらくは、夏に向けて、「日本の近代」の意味を問い直す気運が盛り上がるかもしれない。
 雪斎が割合、好きな女優の一人に、永島暎子さんがいる。永島さんといえば、今では、「生活に疲れた中年女」といった役柄を演じれば、この人の右に出る者は居ないという感じの味わい深い演技をしているけれども、その彼女が若き日に『桃尻娘』というポルノ系映画(実態は青春映画に含めるべきだと思うが…)に出演したという事実は、今となっては、どれだけの人々が覚えているであろうか。

 今、日本のテレビ・ドラマや映画の脇を固める五十歳代くらいの俳優の多くは、若き日にポルノ系映画に出演していた経歴を持っている。たとえば、石橋蓮司さんは、若い世代には、缶コーヒー「ジョージア」のCMで米倉涼子や矢田亜希子のような若手女優に振り回されるドジな上司という印象が強いかもしれないけれども、四半世紀前には『赫い髪の女』というポルノの傑作に出演している。テレビ朝日系の結構、ふざけたお笑い&お色気ドラマ『特命係長・只野仁』に、さえない課長役で出演している田山涼成さんは、 宇能鴻一郎原作のポルノ・シリーズに出演している。他にも、小林稔侍、大杉漣、風間杜夫、内藤剛志といった名バイ・プレーヤーの名前が、一九七〇年代半ばから八〇年代半ば頃までに制作されたポルノ系映画の出演者リストの中にある。往時、若手の監督や俳優にとっては、資金調達などの点で「成人映画」が主な活躍の舞台であったのである。
 余談であるけれども、雪斎が高校生の頃、こういうポルノ系映画に出ている女優さんの名前をどれだけ知っているかを競う奇妙なゲームが、雪斎の仲間内で流行っていた。雪斎も「負けず嫌いな性格」だったから、「哲学の勉強」と称してポルノ系雑誌を買って、女優さんの名前と顔を覚えようとしていたと記憶している。宮下順子、朝比奈順子、風祭ゆき、志水季里子、山本奈津子、美保純…。今でも割合、よく覚えているものである。
 ところで、このような女優・俳優に対して、「あの人たちは、昔、ポルノに出ていたのよね…」と白い眼を向ける雰囲気が、少し前まであった。こうした「若き日にポルノ系映画に出演していた俳優・女優」に対して白い眼を向けた姿勢は、果たして公平であったのか。
 雪斎は、近代以降の日本の歩みを考えることは、喩えていえば、この「若き日にポルノ系映画に出演していた俳優・女優」への評価を考えるようなものだと思っている。雪斎は、明治以降の日本の姿は、「ポルノ映画に出なければ活躍の場が得られなかった俳優・女優」に近いのではないかと考えている。「ポルノ映画出演は、そうせざるを得なかったが、それ自体が手放しで賞賛できるものでもなかった」。これか、今の名バイ・プレーヤーたちの本音なのであろう。おそらくは、従来の「歴史教科書」論争の中では、そうした「そうせざるを得なかったが、それ自体が手放しで賞賛できるものでもなかった」帝国主義・日本の歩みを否定すべきものと評価したのが、「進歩・左翼」層であったし、肯定されるべきものと評価したのが、「保守・右翼」層であったのであろう。司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、近代日本の「青春の輝き」を描いた傑作であるけれども、「青春の日々」には普通は「苦み」もあるものである。歴史の意味を考えることは、本来は、この「輝き」と「苦み」の双方に向き合う営みなのであろう。そうした「輝き」と「苦み」を知ればこそ、日本は、国際社会における存在感ある名バイ・プレーヤーとして振る舞えるのであろう。。
 下掲の論稿を執筆しながら、雪斎は、そのようなことを考えていたものである。 

 ■ 時評2005  「脱亜論」から一二〇年、「協亜」への挑戦

 明治以降、暦の上で今年と同じ乙酉を迎えたのは、明治十八(一八八五)年と昭和二十(一九四五)年の二度である。我が国の近代史の中で昭和二十年の持つ意味の重さは、あらためて指摘するまでもないけれども、明治十八年もまた、我が国の対外思潮を考える上では、なかなか興味深い位置を占めている。
 乙酉明治十八年三月、『時事新報』紙上に「脱亜論」と題された論稿が掲載された。当時、朝鮮半島では、金玉均らに主導された開化運動が進展し、特に福沢諭吉は、そのことを前提とした対朝提携の可能性に期待を掛けていたけれども、前年の甲申事変の帰結は、その諭吉の期待を裏切るものに終わった。一般には、「脱亜論」は、諭吉による落胆の表明であったと説明されている。「脱亜論」以降、我が国の対外政策路線からは、アジア諸国との提携という選択肢は消滅した。我が国は、帝国主義の論理が席巻する十九世紀後半の国際環境の中で、その論理に抗するのではなく乗ずることによって自らの独立を守ろうとした。幕末期、佐久間象山は、「夷の術を以て夷を制す」の言葉で開国の大義を説明したけれども、「脱亜論」以降の我が国の対外姿勢は、この象山の言葉に倣えば、「夷の術を以て夷に伍する」という性格を色濃く示すようになった。事実、日清、日露の二度の戦役を経て、第一世界大戦直後には「一等国」と呼ばれるようになった我が国の軌跡は、そのような姿勢の下での「成功」を物語っていたのである。然るに、乙酉昭和二十年の敗戦は、明治十八年以来の路線の頓挫を意味していた。そして、冷戦期、我が国の対外政策の基本路線は、「西側諸国との提携」であったけれども、その「西側諸国」は、アジア諸国ではなかった。戦後においても、「脱亜」の路線は継続していたのである。その点、我が国が自らの軍隊を派遣してまでも外国の事情に再び積極的に関わりを持とうとした舞台が、「冷戦の終結」直後のカンボディアであったのは、紛れもない「転機」に他ならなかったといえよう。
 近代以降、三度目の「乙酉の年」は、インドネシア、スリランカ、インド、タイといった海洋アジア諸国を襲った未曾有の大津波災害の衝撃の中で幕を開けた。震災発生後、数日の間に、我が国は、国際緊急援助隊や海上自衛隊部隊の急派に始まり、五億USドルの無償資金援助の提供と一〇〇〇名規模の自衛隊部隊の派遣といった施策を矢継ぎ早に打ち出した。また、震災後に相次いで開催された被災国支援緊急首脳会議や国連防災会議での議論では、被災諸国の復興と防災体制の整備に際して、我が国が培った知識を役立てることが提起された。此度の大津波は、我が国に対しては、人材、資金、知識の三つの面で海洋アジア諸国の事情に関わりを持ち続けることを内外に表明する機会を与えた。「冷戦の終結」からも十数年の歳月が経ち、我が国が明確に展開しつつあるのは、もはや「脱亜」ではなく、これらの国々の多様性を前提にした「協亜」とも呼び慣わすべき施策なのであろう。
 現下の海洋アジア諸国には、民族紛争やテロリズムから、貧困、感染症に至るまで、人類が取り組むべき共通の課題が軒並み出現している。我が国が展開する「協亜」の施策は、「亜細亜」という特定の地域のみを相手にする性格のものというよりは、これらの人類共通の課題を対象とする普遍的な性格を持ったものである。目下、我が国の国連安保理常任理事国入りに向けた動きが活発になっているけれども、筆者は、我が国が米国をはじめとする他の有力な国々とも手を携えて「協亜」の施策を効果的に展開するためにも、その地位を得ることは大事であると考えている。
 乙酉明治十八年以降、我が国は、どことなく奔馬のような精気と荒々しさを伴いながら対外関与を進めた。満州、朝鮮半島、台湾、南洋諸島という「帝国の版図」の拡がりは、その対外関与の意味を物語っている。乙酉昭和二十年以降の歳月は、その「アンチテーゼ」として、対外関与を手控える一方で、内に「豊かな社会」を築くことを基調とするものであった。そして、乙酉平成十七年以降の我が国は、「脱亜論」以後の二度の「還暦」を踏まえた「ジンテーゼ」として、「協亜」の発想の下、静かにして手堅い対外関与を進めるのが相応しい。それは、我が国の人々にとっても、なかなか意気を感じさせる展望ではなかろうか。
        『中央公論』(2005年3月号)掲載

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Comments

復活のkenboy3です。さて「協亜」というネーミング、なかなかよいと感心しました。一方で、明治の富国強兵政策意向の流れが一貫して日本の近代国家としてのNation Buildingにあったと捉えるならば、それは「欧米一辺倒」であったわけですが、その過程にはさまざまな「亜細亜論」が展開されていたことは銘記すべきだと思います。韓国併合、満州国建国、南支進駐にしても、当時は独特の「亜細亜論」があったし、そこには石原莞爾のいったような独特の「協亜論」がありました。まがりなりにも大本営は「共栄圏」(co-prosperity sphere)と言っていたわけですね。実態はどうあれ、こうした「意義付け」には留意する必要があると思います。
 戦後も、東アジア諸国の独立(特にビルマやインドネシア)には多くの日本人がかかわり、その後も東南アジアへの大規模な経済援助、「福田ドクトリン」を中心とするASEANの「強靭性」への支援等を考えると、実は日本とアジアとの関わりは現代史を通して、かなり重厚であったとみるべきと考えています。カンボジアへのPKO派遣は、戦後の日本の軍事組織が派遣されたという意味では「転機」ですが、日本との交流という意味では相当根付いているとみるべきだと思います。
 あとは、雪斎さんのいう「普遍的な性格」を「協亜」の基礎にするというのは重要なポイントだと思います。具体的には「東アジア共同体論」がでているときにも、「自由・人権・民主主義」などの要素をerodeしない形になるのかどうか、また日本から見れば「日米同盟」などの安全保障と両立するものとなるかどうか、また世界や他の地域の貿易体制と補完的かどうか、という視点が常に重要です。日本にとってのアジアは、多くの他の「グローバル・アイデンティティ」と相互補完的であって初めて日本にとっての「ISM」の形を取れるというのが私の見方です。まだ論点はありますが、このへんで。

Posted by: kenboy3 | February 10, 2005 at 06:29 AM

拙稿に対する批判があるとすれば、kenboy3殿が指摘されたように、「戦後におけるアジアへの関わりを、どのように評価しているのかが判らない」というものでしょう。
 それは、承知していますけれども、何分、1800字という制限の中では、そこまで書けないという事情があります。あと、国民意識の中で、「アジア」が、どこまで具体的な提携の相手として位置づけられてきたのかは、検証する必要があると思います。戦前の「大東亜共栄圏」構想が、近衛文麿の「英米本位の平和主義を排す」論文のように、「欧米」に対する対抗心を反映したもののであったとすれば、それは、到底、「アジアをアジアとして遇した」構想であるとはいい難いでしょう。雪斎は、従来の対アジア構想が、「対欧米提携路線」に対する「反」であり「補」であったのではないかと思います。

Posted by: 雪斎 | February 10, 2005 at 07:39 AM

それではかんべえからも一言。
東アジア共同体について語るときに、なぜか妙なことを口走ってしまう人が多いような気がします。下記のURLは今週出た経済同友会の提言ですけど、これはヒドイ。日本が円を捨ててアジア共同通貨を作るというのは「トンデモ」だし、変に日本が卑下してアジアに擦り寄るような議論になっています。

日本の「ソフトパワー」で「共進化(相互進化)」の実現を
-東アジア連携から、世界の繁栄に向けて-
http://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2004/050208a.html

Posted by: かんべえ | February 10, 2005 at 09:28 AM

若輩者で畏れ多いのですが、失礼致します。
私も昨年のASEAN+3首脳会議直後に、東アジア共同体に関するエッセイを書きました。
実務家的見地からのプラグマティックな論考で、目新しい点もなく、底が浅いですが、よろしければご一覧下さい。現実的な政策の観点からすれば、ポイントはやはり経済面での連携を中心とする機能的アプローチと米国・中国との関係かなと思います。
http://blog.goo.ne.jp/junyastone/e/2e35ca879134a13e0bd101c7fa209e17
このページ、アクセスされることが妙に多いので、思ったより世間の関心は高いようですね。
私も背伸びして、観念論的な話に参加すると、昔の思想家の中には、岡倉天心のようなアジア主義者だけではなくて、津田左右吉のように、中国と日本の文化の異質性を強調して、アジアの同質性に懐疑的だった「進歩的」知識人もいたことを指摘しておこうと思います(東亜新秩序への批判というポリティカルな文脈もあったかと思いますが)。
戦後60周年は重要な年になると思います。私もそのうち自分のブログで書いてみたいと思います。もしかしたら過去の問題絡みで戦後XX周年と言われるのはこれが最後かもしれませんね。
雪斎さんのポルノ趣味、しぶいですね。私も雪斎さんほど深くはないですが、かなり興味深くフォローしてました。「荒野のダッチワイフ」とか若松孝二の作品とか本当に名作も多いですよね。

Posted by: やじゅん | February 10, 2005 at 11:06 AM

雪斎さん、かんべえさん、やじゅんさんの議論を興味深く読みました。同友会の文章は「思い」が先行して理が情を制していない感じですね(^-^;)。やじゅんさんのブログ面白そうなので、今度議論に加わらせてください。

Posted by: kenboy3 | February 10, 2005 at 11:35 AM

東アジアについて語るとき、感情過多の議論が多いなあ(親亜、親米とわず)と感じてます.結局のところ東アジアとは中国文明圏のことですね.それと日本の関係をどうするかになる.日本の歴史は中国文明への思い入れと日本の独自性主張の間を行ったり来たり.戦後はそれに贖罪論がからんでクールでドライな議論は難しい.私は日本は脱米入亜にはなれないと肝に銘じたうえで、協亜、親亜すべきとおもいますがねえ.常識的ですけどそれしかない.

Posted by: M.N生 | February 10, 2005 at 11:44 AM

)かんべえ殿、やじゅん殿、M.N生殿
コメントを有り難うございます。
日本人の世界観というのは、平安の昔から、「本朝・唐・天竺」なのではないかとおもいます。普通の日本人にとっては、「天竺」というのは多分に想像上の世界であったかもしれないけれども、「天竺」を意識することによって「唐」を相対化することができたのではないかと思います。だとすれば、ヨーロッパやアメリカは、「天竺ニ号」、「天竺三号」という位置付けであり、それ自体が既に「唐・中国」を相対化させるものとして機能しています。件の同友会レポートは、「唐」にのめり込み過ぎている故に、却って奇異なものになっている。日本人というのは、良くも悪くも「バランス感覚」の民族なのでしょう。

〉かんべえ殿
昨日は、拙論の紹介に与り恐縮です。
お陰さまで今日は午後8時時点でアクセス数が、1600を越えております。

Posted by: 雪斎 | February 10, 2005 at 08:54 PM

>kenboy3さん
かんべえさんのご推薦で、kenboy3さんのブログを拝見しておりました。東アジア地域協力の話とか、私なんか及びもつかない深い考察で、感銘を受けました。これからも拝読させて頂きます。よろしくお願いします。
(何だかkenboy3さんのブログに書くべきような話ですね。雪斎さん、すみません。)

Posted by: やじゅん | February 11, 2005 at 11:21 AM

〉やじゅん殿
「友達の友達は、皆友達だ。世界に広げよう。友達の輪」。

Posted by: 雪斎 | February 12, 2005 at 07:34 AM

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