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February 22, 2005

「富」と「道」

 「邦に道あるに、貧しくして且つ賤しきは恥なり。邦に道なきに、富みて且つ貴きは恥なり」。
 『論語』(巻第四・泰伯第八)には、このような一節がある。一昨日の当ブログでも言及した渋澤青淵翁の書『論語と算盤』にも、この一節は紹介されている。雪斎は、このところ「フジ・ライブドア」戦争を扱ったエントリーを書いているけれども、それは、経済社会の有り様もまた、公共政策の重要な一テーマであるからに他ならない。
 雪斎は、ホリエモンさんにおける「政治的な賢明さの欠落」には率直に耐え難いものを感じてはいるけれども、ホリエモンさんに類する若手の人々が経済社会の地平を切り拓き、大きな資産を築こうと目指すのは、大いに奨励されるべきであると考えている。

 「邦に道あるに、貧しくして且つ賤しきは恥なり」とは、なかなか凄いことを孔子先生も仰るではないか。というのも、戦後の日本では、「道あるに、貧しくして且つ賤しきは聖なり」とでも呼ぶべき雰囲気があったからである。その典型が松山善三監督の映画『名もなく貧しく美しく』であろう。松山監督自身は、「善意の人」なのかもしれないけれども、若き日の雪斎は、この映画世界を毛嫌いしていた。だから、雪斎は、「豚は死ね狼は生きろ」のコピーで有名になった映画『白昼の死角』のブラックな世界に惹かれるものを感じていた。雪斎は、「貧しくして且つ賤しきは聖なり」というのは完全な嘘だと思っていたのである。だから、雪斎は、世の人々は「貧しくして且つ賤しき」を避けるべく努力をするのが当然なのであろうと思う。
 しかし、その一方で、「邦に道なきに、富みて且つ貴きは恥なり」なのである。ホリエモンさんが何故、批判されているのかといえば、紛れもなく、この「道なきに、富みて且つ貴きは恥なり」の部分が露骨に見えているからではないか。もし、これが「裏の世界」の話ならば、「道」を説く意味などはないのかもしれないけれども、ホリエモンさんは、少なくとも「表の世界」の人物である。この「富」と「道」の双方に対する目配りがなければ、総ての経営者は「虚業の人」になる。
 下掲の論稿は、雪斎が七年前に書いたものである。当時、この論稿は、中谷巌先生〈現多摩大学学長・UFJ総研理事長〉に褒めて頂いた。ただし、この論稿に示した「富裕階級」を名乗る資格を持つのは、現在の日本では誰なのであろうか。

■ 「富裕階級」を復活させる意味
 
 ◆中流階層の曲がり角
 現下、経済停滞からの脱出の処方箋として位置付けられているのは、概ね金融機関の不良債権処理と税制改革の二つである。就中、税制改革の有り様については、既に様々な考え方が示されている。具体的には、特に法人税、所得税や相続税の最高税率を劇的に下げる施策が考慮されているけれども、私は、この施策が早急に断行されるべきものと考えている。というのも、私は、この施策には、経済停滞への処方箋としての当座の意義も然ることながら、別の中長期的な意義があると考えているからである。
 我が国において、「富裕階級」が適正に復活する。税制改革の一環として、特に相続税、所得税、住民税を大幅に下げることの中長期的な意義とは、端的には、このことである。振り返ってみれば、戦後、財閥解体や農地解放が行われて以降、我が国は、「富裕階級」の出現を佳しとしてこなかった。高率の所得税、住民税や相続税によって、「富裕階級」の登場する余地は、事実上、封じられてきたのである。結果として、我が国には、経済発展の成果に併せ、「一億総中流化」と呼ばれる現象が定着した。そのことは、確かに我が国の社会の安定を担保するものであったろう。しかし、中流階層とは、自らや家族の将来の生活設計を心配しなくとも済む程には富裕ではない一群の人々のことである。昨今、金銭的な価値に過剰に執着する実利主義思潮が支配的になる一方、個人消費を刺激するための諸々の施策が期待された効果を挙げていないのは、中途半端に富裕であるに過ぎない中流階層の性格を踏まえれば、何ら不思議なことではないかもしれない。昭和恐慌の頃、高橋是清は、資産家の「茶屋遊び」を奨励したと伝えられているけれども、そのような散財を率先して行い得る一群の人々は、現在、我が国には存在しない。中流階層の創出と定着を狙った戦後の我が国の政策路線は、今や、明らかな限界に突き当たっているのである。
 ◆篤志家と呼ばれた人
 無論、戦後の平等主義思潮の席巻の後では、「富裕階級」を復活させるという私の議論には、受け容れ難い想いを抱く人々も少なくないであろう。現在、検討されている税制改革の方向には、「金持ち優遇」という批判があるのも事実である。しかし、われわれは、次の二つのことを確認する必要がある。一つは、大多数の人々は富裕になることを望んでいるということであり、二つは、それにもかかわらず、富裕な人々は富裕であるという一事を以てしては誰からも尊敬されないということである。
 昔日、我が国には、「篤志家」と呼ばれた人々が存在した。誰であっても、自ら資産を築き上げ「富裕階級」に成ったという事実それ自体によってではなく、どのように「富裕階級」として自ら手にした資産を基にして公益のために貢献したかという実績によって、周囲の社会から敬意が払われた。たとえば、「日本資本主義の父」と称される青淵翁・渋澤栄一は、公侯伯子男の五つの爵位から成った戦前の華族制度の下、子爵という財界人士としては異例の地位に列せられた。渋澤が自著『論語と算盤』の中で残した次の言葉は、この渋澤に与えられた名誉を前にするとき、改めて振り返られるベきものであろう。
 ◆「富」と「道」の両立
 「もし富豪が社会を無視し、社会を離れて富を維持しうるがごとく考え、公共事業社会事業のごときを捨てて顧みなかったならば、ここに富豪と社会民人との衝突が起る、…だから富を造るという一面には、常に社会的恩誼あるを思い、徳義上の義務として社会に尽くすことを忘れてはならぬ」
 戦後、我が国は、「富豪」を消滅させたのに伴い、渋澤が「徳義上の義務」と呼んだものをも退場させたのではなかったか。とすれば、現在、われわれが模索すべきは、「富裕階級」を適正に復活させるとともに、その「富裕階級」には「徳義上の義務」を要求するという社会的な了解を再生させることなのではないであろうか。自ら「富裕階級」と認識しない人々は、「徳義上の義務」を感ずるはずはないからである。
 十余年前、世が「バブルの時代」の狂瀾の最中にあった頃、多くの企業は、「メセナ」という名の公益事業に続々と乗り出した。けれども、その後の経済失速に伴って、この種の事業を続ける気運もまた、おおかた、萎えてしまったようである。実は、諸々の公益事業は、個人の信条、関心、あるいは趣味といったものに支えられない限りは、中々、持続しないものである。しかし、同時に、自らの資産を基に何かを行う際には、その際の見識や経綸(けいりん)が問われるという意味においては、誰に対しても相応の真摯さが求められている。我が国にとって、「バブルの時代」の教訓とは、このようなものであったのではなかろうか。
 「邦に道あるに、貧しくして且つ賤しきは恥なり。邦に道なきに、富みて且つ貴きは恥なり」。
 渋澤栄一は、先に触れた『論語と算盤』の中で、この『論語』(巻第四・泰伯第八)の一節を紹介している。迷ったときには原点に戻るべきだとは、しばしば指摘されることである。「富」と「道」を両立させるための社会上の仕組を構想することは、危機の最中にある我が国の経済社会の今後を展望する上では、看過できない意義を持つことになるのではなかろうか。
   『産経新聞』「正論」欄(1998年7月16日付)掲載

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Comments

素晴らしい!!この文章を拝読して、心から共鳴しました。ホリえもんを見ていて感じる違和感は、ひらたく言えば人間としての徳が感じられないからなのですよね。「向上心」は物質的に豊かになることだけでなく、精神的な徳を身に付けることにも同じだけ発揮されなければ、尊敬は得られないですものね。

Posted by: さくら | February 22, 2005 02:38 PM

では問います。
ホリえもん氏の相手方のフジの経営者諸兄に対して、同じ問をはっせられた時、いかがなのでしょうか?現経営陣のトップが備えられている「徳」とはいかに?

Posted by: 小規模投資家 | February 22, 2005 09:56 PM

>さくら殿
どうもありがとうございます。
そちらに訪問させて頂きましたので、よしなに。
〉小規模投資家殿
フジサンケイグループ経営陣に「道」を説く資格はあるのか。貴殿は、どのようにお考えですか。
貴殿の御質問のニュアンスからすれば、ホリエモンさんには「道がない」と批判するのに、フジ経営陣には何故、同じ批判を向けないのかという疑念が伝わってきたのですが、それでよろしいでしょうか。結論からいえば、フジサンケイグループの活動には、「道」の観点から首をかしげる要素が多々あるのは事実でしょう。拙者は、特にフジテレビの「軽チャー」路線を率直に毛嫌いしています。ただし、フジサンケイグループの活動の中で「道」への考慮が完全に無視されているかといえば、必ずしも、そうではない。このような事情を、どう考えるかだと思います。

Posted by: 雪斎 | February 22, 2005 11:37 PM

匿名での書き込みにもかかわらず、丁寧にご対応いただきましたことに、改めてお礼申し上げます。
ご質問いただきました件、私は、お察しのとおり現経営者に「義」なしとの感想を持っております。ao@株式マーケットさんが別にコメントされているよう、フジテレビ現経営陣は既存株主の利益を毀損する形で、「利益や目的が無いエクイティファイナンス」による地位保全の戦いを選ばれました。この点をもってしても、現経営者に対する「徳」を説くことはできないと考えます。
ただこれは、ご質問いただきました時点では予想できなかった(可能ではあったとは思いますが)、少なくとも織り込まれていないお話ですので、この事実をもって徳の如何を論ずることは、いささか衡平を欠いているとは思います。
そこで出発点に戻り、雪斎さんと私の立場の違いは再確認させていただきます。私が受けてきました教育は経済学の新古典派をベースにするものです。新古典派では、規範的な議論は嫌われます(とはいえ、規範的な議論から、新古典派が完全に自由だとは思いません)。しかし予め、個々人に高い行動規範(徳)を想定しません。あるべき姿(個々人が高い公共性の意識に基づく意思決定をする)から論を説き起こされる雪斎さんと、個々人はあくまで自己の利益の極大化を求めるものと想定する新古典派的な考え方をする私は、正反対の出発点に立つのではないかと愚考します。
私とて公共性の意味、意義は否定いたしません。雪斎さんとの違いは、それぞれ想定する、あるべきところ(均衡点とでも申しましょうか)に至るまでの経路の違いではないでしょうか?ナイーブな議論ではないか、という気はしますが、私は、多数の参加者が存在する市場の分配機能を通じて、いずれはあるべき均衡点(望ましいところという意味で使いました)に達するのではないか、と期待します。個々の市場参加者は、必ずしも高い教育や知見を持つわけではなく、自己の利益の実現を最優先に、時としておろかに行動する。しかし市場全体としては、「神の見えざる手」により、社会的に望ましい状況が実現される-短期的、ミクロ的には悲観的ですが、長期的、マクロ的には大きくは間違えないと、ナイーブな期待を持っております。
それゆえ、今回の件はあくまで市場の中で決着をつけられるべきもの、単なる経済現象の一つとして、成り行きを見守りたいと考えます。ホリえもん氏がフジ・サンケイグループのあり方にどのようなお考えを現時点でお持ちであれ、市場(一般大衆、ひいては社会)の望むものから大きくはなれて経営を維持することはあるまい、との想定を持っております。
それ以上に、(やや感情に流れる議論になりますが、)現在のメディア全体を眺めますと、彼らが自身の公共性を主張することには、苦笑を禁じえません。ただこの点は私の専門領域ではありませんので、後日ご予定の雪斎さんの議論を楽しみにしております。
いくつかの論点での相違にもかかわらず、軽チャーへの雪斎さんの感じられ方をはじめとして、雪斎さんの感性の多くを私は強い共感を持って支持いたします。

Posted by: 小規模投資家 | February 24, 2005 01:30 AM

>小規模投資家殿
1980年代後半、フジテレビが夕刻に流していたのは、『夕焼けニャンニャン』という番組で、そこでは「おニャン子クラブ」と称する女の子たちが『セーラー服を脱がさないで』という歌を歌っていました。当時、拙者などは、「こういうのは『秘すれば花』だろうが…」と怒っていた訳です。この世界から「援助交際」の世界までの垣根は然程、高くはない。アイドル発掘を目指したものにしては、これは「害」が大きかったと思います。因みに、フジテレビの名誉のために申しますと、拙者は、『カノッサの屈辱』や『ワーズワースの庭で』といった番組が好きでした。ちょっとマニアックかもしれませんね。

Posted by: 雪斎 | February 25, 2005 03:40 PM

私はどうも溜池通信氏と同年代のようなので、少し嗜好が変わりますが、名前を思い出せないものの、ミポリンのドラマなど、フジの作品に心を寄せてきたことは何度もあります。しかしこれは、あくまでエンターテイメント、という意味なのですよね。
「義」、といわないまでも、公共性の問題ではないのでしょう。TDLの持分を外資が過半を握ったとて、公共性の問題となるのでしょうか?
しつこくて申し訳ありませんが、私の問いかけは、今回の問題は資本市場におけるイベントなのか、公共性を絡めて考えるべき事象なのか?という一点です。
私は資本市場における一つのイベントに過ぎない、との思いを強くいたしております。
これを機に、私の少々疎い、公共性に関する観点からの雪斎さんの問題提起は、愉しみにしております。
なお、ホリえもん氏の戦いぶりと渋沢翁の足跡を絡められた議論、なかなか興味深く拝見しましたが、ホリえもん氏に焦点を絞るなら、劇場型M&A(泥酔論説委員氏日記)という視点は、刺激的な問題提起かと思います。渋沢翁の時代には、大衆的な資本市場は存在せず、また、インターネットもありませんでした(ただ、先々週は拝見したものの、先週の日曜日は番組を見ませんでしたので、少し正確を書いた評価かもしれません。)

Posted by: 小規模投資家 | February 26, 2005 12:03 AM

〉小規模投資家殿
有り難うございます。
この点に関しては、あらためてエントリーを書きたいと思います。

Posted by: 雪斎 | February 26, 2005 11:41 PM

愉しみにしております。

漢書のお話、門外漢の私にもわかりやすく勉強になりました。

Posted by: 小規模投資家 | February 27, 2005 12:58 AM

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