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January 11, 2005

『中央公論』「時評2005」原稿・#2

■ 昨年末、『溜池通信』では、「憤兵は敗れる」という言葉の出典に関する議論が行われていた。この議論の中で出てきた「かんべえ」氏の「戦争は『勘定』でやるものであって『感情』でやるものではない」の言葉は、確かに名言であった。雪斎は、この議論の中で「憤兵を敗れる」の出典が『漢書』であると知ったので、その前後の記述を確認してみた。「魏相丙吉伝」の「相、上書して曰く…」で始まる一段落は、誠に多くの示唆を与えるものであった。それ故にこそ、雪斎は既に一編の原稿を書いた。そして、雪斎は、これを機に、『漢書』(ちくま学芸文庫・全八巻)を購入し、読み始めている。ただし、『漢書』は、中国二十四史書の中の一つで、『史記』と双璧を成す作品と称されている。これは読み通すには相当な時間が掛かりそうである。
 此度の「時評2005」原稿は、再び「魏相丙吉伝」の記述に依拠したものである。雪斎は、似たようなネタを使い回して原稿を書くのを好まないけれども、このネタで突き詰めて原稿を書こうとすれば、少なくとも七編の原稿が用意できそうである。東西両洋の古典は、様々な思索の淵源である。此度の原稿は、「兵が忿る者は敗れる」の記述を現在の日本国内の対中国感情や対北朝鮮感情の有り様に投射させて論じたものである。外交は相手のある営みなのであれば、「毅然とした外交」という言葉が一人歩きを始めるようならば、実際の外交展開を歪めることになるであろう。「毅然」という言葉は、物事に臨む姿勢を表すものであっても、その方針を表すものではないからである。
 尚、『中央公論』今月号に掲載された様々な論稿の中でも興味深かったのは、渡邊昭夫先生の論稿「『吉田ドクトリン』の遺産と誤算」と伊豆見元先生の論稿「国際的制裁の道を閉ざすな」の二つであった。特に渡邊先生の論稿は、戦後日本外交の軌跡の意味を考えさせる。こういう論稿を読めるのは、何時も嬉しい。

■ 時評2005 「毅然とした外交」に潜む不安

 昨今、我が国の外交を語る言説の中で頻繁に耳にするのは、「毅然」の言葉である。たとえば邦人拉致問題に絡む北朝鮮政府の対応は、「悪漢国家」としての印象を定着させた感がある。また、AFCサッカー・アジアカップ中国大会の折の「反日」騒動や中国海軍所属原子力潜水艦による日本領海侵犯といった事件は、我が国の人々の対中印象を悪くしている。世のの人々が「毅然とした外交」を要請するのは、故なきことではない。
 このような対中関係や対朝関係の風景が筆者に思い起させるのは、史書『漢書』「卷七十四・魏相丙吉傳第四十四」の中の次の一節である。
 「人の土地貨寶を利する者、之を貪兵と謂う。兵が貪る者は破れる。国家の大なるを恃み、民人の衆きを矜り、敵に威を見さんと欲する者、之を驕兵と謂う。兵が驕する者は滅ぶ」。
 『漢書』の記述を援用すれば、「強盛大国」を標榜する北朝鮮は、その国情の内実はともかくとして「驕兵」の彩りを鮮やかに示している。そして、中国は、南沙諸島の領有や東シナ海海洋権益の扱いを巡って「貪兵」の姿勢を露わにしているし、近年の劇的な経済発展は、その対外姿勢に「驕兵」の趣きをも与えている。この中朝両国の「貪兵」と「驕兵」の姿勢は、それが自らの「破」や「滅」に結び付くという意味においては、先々の破綻を免れまい。特に「政冷経熱」を指摘される現下の日中関係を前にして筆者が訝るのは、胡錦濤(中国国家主席)や温家宝(中国首相)を初めとする中国共産党政府指導層が、どのように「兵貪者破、兵驕者滅」の文言を遺した自らの先人の警告を受け留めているのかということである。少なくとも周恩来、華国鋒、鄧小平といった過去の指導層は、「イデオロギー」よりも「実利」を優先させた柔軟な政策の展開を通じて、日本国民各層の「共感」を繋ぎ止めてきた。我が国の人々が長きに渉り大々的な対中政府開発援助の提供を是認してきたのは、そのような対中「共感」の故に他ならない。然るに、江沢民以降の中国政府指導層は、「日本国民の『共感』」という名の資産を無分別に食い潰している。たとえ「政冷経熱」関係の責任を小泉純一郎(内閣総理大臣)の靖国神社参拝などに帰する中国政府の姿勢に理があったとしても、そのことによっては、スポーツ・イヴェントでの騒動や領海侵犯といった無礼や無作法が正当化されるわけではない。二〇〇四年の中国は、「反日」の論理で国際常識に悖る行為を繰り返した結果、却って国際社会での信用の低下を招いた。中国が直面する「破」や「滅」の危険とは、そのようなものなのである。
 その一方、我が国の人々が留意すべきは、既に触れた『漢書』の件の前には、次の文言が記されているということである。「小故を恨んで争い、憤怒して忍ばざる者、之を忿兵と謂う。兵が忿る者は敗れる」。無論、ジョージ・F・ケナンが「民主主義国家は平和愛好的ではあるが、怒り狂って闘う」と喝破したしたように、民主主義体制下での政策展開は、世の人々の「怒り」の感情に裏付けられた際には最も劇的に進むものである。けれども、『漢書』は、そのような「怒り」の感情に裏付けられた政策展開が、結局は自らの「敗」を招くことを教えている。中朝両国の「貪兵」と「驕兵」の姿勢が、前に触れたように「破」や「滅」という先々の破綻に行き着くものであるならば、そのような姿勢に煽られた結果、我が国が自ら「敗」を呼び込むような振る舞いに走るのは、愚かなことではなかろうか。
 筆者は、現下の「毅然とした外交」を求める声が「忿兵」の姿勢への傾きを持つものである限りは、それを肯んずることはしない。北朝鮮情勢への対応に関していえば、経済制裁発動を迫る議論が沸騰しているけれども、実効性を伴った対朝「圧力」の具体的な施策として先ず模索されるべきは、北朝鮮に絡む様々な問題を国連安保理に付託した上での対朝非難決議の採択であろうし、次には対朝経済制裁決議の採択であろう。我が国にとっては、この経済制裁決議採択の成った暁こそが、国際協調の一環として粛々と制裁発動に踏み切る時機である。『漢書』には、「乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂う。兵が義なる者は王たり」という一節もある。北朝鮮の「暴」を誅したいというのは、我が国の人々の抱く感情かもしれない。けれども、我が国の対応が「義」として承認されるために必要とされるのは、「毅然とした外交」という言葉が暗示する単線的な対応ではなく、国際社会全体を見渡した複雑にして微妙な対応なのである。
         『中央公論』(2005年2月号)掲載

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Comments

「墳兵は敗る」という言葉を多用しているのは、将棋について多くの本を書いている河口俊彦七段です。実際の外交や戦争はさておいて、将棋の世界は確実に頭に来ている方が分は悪い。だいたい、強い人、自分に自信がある人は、そんなに腹を立てることはありませんからね。

Posted by: かんべえ | January 11, 2005 at 03:08 PM

 この「兵が忿る者は敗れる」という記述は、『源平盛衰記』にもあるようです。次のサイトの
p0311というところをご覧下さい。
www.j-texts.com/seisui/gs013.html
やはり漢籍は、日本の教養の一部だったようです。

Posted by: 雪斎 | January 11, 2005 at 05:35 PM

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