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January 07, 2005

『中央公論』「時評2005」原稿・#1

■ 『中央公論』は、雪斎の論壇デビュー作が載った雑誌である。デビュー作の載った雑誌を手にしたとき、雪斎の頭の中には、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートヴェンの交響曲第五番・第四楽章の旋律が流れていた。沈鬱な調べが続く第三楽章の後に、金管の音色が鳴り響く第四楽章は、「苦難を乗り越えて歓喜に至れ」という言葉を音楽の上で表現していると思う。「苦難の日々」が続いた後で、自分の論稿が載った雑誌を手にしたとき、雪斎は、眼の前に光輝溢れる風景が開けたように感じた。「第五交響曲・第四楽章」の旋律は、そうした雪斎の感慨に重なり合っていたのである。
 その後、『中央公論』には、度々、原稿を寄せている。その折々には、もはや「第五交響曲・第四楽章」の旋律が、聞こえてくることもない。『中央公論』で書くことは、今では「実家での用事」に精を出すようなものである。そして、雪斎は、今年は一年通しで、「時評2005欄」を担当することになった。「時評」欄は、政治学系では、2000年に北岡伸一、2001年に田中明彦、2002年に山内昌之、2003年に飯尾潤・白石隆、2004年に飯尾潤・渡邊昭夫の各先生方が、それぞれ担当されていた。こういう先生方の後を襲う形になるのは、正直なところ、ちょっとした驚きであった。割合、気楽に依頼を引き受けた後で、「オヨヨ…」と慌てるのは、雪斎の何時もの悪い癖だが、此度も、そうだったようである。それにしても、この話を持ちかけられたとき、M編集長は、全然、深刻な顔をしていなかったのよね…。
 下掲の原稿は、その「時評」欄の第一作である。


■ 時評2005  麻薬としての「反○○」思考

 ジョージ・W・ブッシュ(米国大統領)とジョン・F・ケリー(民主党上院議員)が覇を競った此度の米国大統領選挙は、ブッシュの再選という結果に終わった。ブッシュは、選挙人獲得数でも一般投票数でも過半数を制したという意味では、フロリダ州での集計に伴う紛糾を経た四年前とは異なり、その大統領としての地位の正統性を揺るぎないものと感じているであろう。加えて、連邦議会上下両院選挙でも、共和党は優位を確保した。特にトーマス・A・ダッシェル(民主党上院院内総務)の落選は、民主党の「冬の時代」を象徴する光景であった。
 ケリーの敗北や民主党の零落には、既に様々な説明が行われている。就中、筆者に説得力を感じさせるのは、「ケリー陣営は、『次期大統領がJ・F・ケリーでなければならない理由』を説明できなかった」というものであった。確かに、此度の選挙の焦点とされたのは、ブッシュによる対イラク政策の評価であった。大量破壊兵器の存在証明の失敗、イラクの戦後統治に伴う困難は、たとえばマイケル・ムーア(映画監督)の作品『華氏911』の評判が象徴するように、「果たしてブッシュでいいのか」という疑問を幾多の米国市民に呼び起こしたことであろう。けれども、『華氏911』それ自体もまた、「反ブッシュ」感情を刺激するものであったとしても、「ケリーでなければならない理由」を説くものではなかった。その点、大統領選挙最中、民主党支持層から出て来た「ブッシュ以外なら誰でもよい」(“Anybody But Bush”)の標語は、結局のところは、ブッシュとケ リーが大統領候補として持つ存在感の落差を逆の意味で物語っていたのではなかろうか。
 ところで、「反ブッシュ」感情の動向に幾分かでも左右された選挙の顛末を前にして、筆者が思い浮かべたのは、「反○○」という枠組で物事を把握し、行動することの持つ「陥穽」といったものである。「反○○」という枠組は、幾多の人々に対して、何らかの正当な政治的、思潮的な立場に依って物事を語っているかのような錯覚を与えやすい。そのことは、この「○○」に入る言葉の意味するものが、米国や中国という国家であれ、自由民主党や民主党といった政党であれ、共産主義や帝国主義といった思潮であれ、さらには小泉純一郎や小沢一郎といった個人であれ、同じことである。そうであればこそ、マイケル・ムーアは、「反ブッシュ」感情に寄り掛かるだけで、自らの映画を世に送り出すことができたのである。昨今の我が国でも、たとえば「反米」の立場を掲げれば、とにもかくにも一編の論稿や一冊の書が出来上がる。「反○○」という思考や姿勢は、何か事を為すに際しては相当に安易な枠組を与える「麻薬」なのではなかろうか。
 しかし、「反○○」という立場や姿勢に初めから寄り掛かった議論は、結局のところは余り積極的な意義を持たない。そもそも、「○○」に入るものは、個人であれ党派であれ国家であれ、誠に多様なものであるけれども、そのような多様な「人間」を前にして採られた「反○○」思考は、どことなく教条的な色調を帯びることがある。「反○○」思考の教条的な性格は、様々な物事を正確に理解しようとするならば、却って大きな支障になることがある。因みに、我が国の政治の世界では、一九五五年以降、自民党優位の時期が永らく続いた故にか、政府・与党に対する「反」の姿勢を示すのが、野党の原初的な役割と解する向きがある。たとえば 目下、一般に「党首討論」と称される衆参両院の国家基本政策委員会合同審査会での討議では、総理大臣と民主党を初めとする野党党首は「対等な討論」をする建前であるにもかかわらず、実際に繰り返されてきたのは、野党党首の「質疑」と総理大臣の「答弁」という光景であった。この事実は、現在ですら、野党が政府・与党に「反」の姿勢を示すのを第一とする惰性から抜けていないことを示している。世は「二大政党制」に向けて着実に進んでいるという指摘があればなおさら、この惰性の持つ弊害は強調されなければなるまい。振り返れば、岡田克也(民主党代表)は、二〇〇四年七月末に米国民主党全国大会を訪問し、「ブッシュ・コイズミ」同盟への対抗心を露わにしながら、米国民主党に対する共感を内外に示した。そして、今、岡田麾下の民主党が参照すべきは、「反○○」思考に足を取られた米国民主党の軌跡なのではなかろうか。
            『中央公論』(2005年1月号)掲載

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Comments

 先日は、不躾な書き込みで失礼しました。お詫びいたします。

 「麻薬としての『反○○』思考」の分析は、非常に説得的で共感いたしました。なので敢えて異論を考えてみました。ただ、雪斎様の論旨とずれてしまっているかもしれません。

 冷戦下では保守的な人たちは、同時に反共でもあったと思います。ゆきすぎた「反共主義者」を除くと、反共にも意義があったと思います。保守というのは、左右を問わず極端な変化に抵抗するという感覚が強いと思います。保守的な立場には「反○○」という思考が、(ゆきすぎは何事おいても危険ですが)ある程度、不可欠だと考えます。

 学問の発展にも批判的精神が不可欠です。ただ、単に通説批判をしているだけではダメで、地道に事実と過去の研究にあたらないと、建設的な仕事はできないとしみじみ思います。しばしば、「革命的な」理論が正統派から生まれるのは非常に面白いです。

 まとめると、ほどほどに不満をもつことは世の中の進歩につながることもあるので、程度さえわきまえていれば、良い刺激になると思います。イラクの現状を見ていると、反ブッシュに共感はしませんが、理解はできなくもないです。じゃあ、どうするのか。ここまでくると、治安を回復する妙案はないけれども、即時撤退というのは論外だと思います。私自身は、イラク統治に多いに不満はありますが、米国があれだけ明確にこぶしをあげた以上、現状で放り投げるのは無理だと考えます。統治の手法を維持するにせよ、変えるにせよ、現実には意思と実行の持続が不可欠なことを反ブッシュに囚われた人たちは忘れていたように思います。

 雪斎様の文章と自分の文章を比較して自分が売れない理由をしみじみ実感いたします。今後も勉強させてください。

Posted by: Hache | January 16, 2005 at 03:44 AM

>hache殿
貴殿のことは「かんべえ」殿から教えて頂きました。御来訪、多謝に存じます。
拙者が「反」思考を批判するのは、それが人々をして「何かを語っている」ように錯覚させてしまうからです。それは、「『反』を語っていればいい」という別種の安逸を生じさせかねないものなのです。人々にとっては、自分が置かれている現実は、十割の「是・親」で臨めるものでもなければ、十割の「非・反」で臨めるものでもない。だからこそ、「是・親」と「非・反」の間で、物事を考える楽しさが、生ずるのではないかと思います。そもそもの初めから十割の「是・親」か「非・反」かを決めて物事に相対するのは、もったいないことだと思いませんか。

Posted by: 雪斎 | January 16, 2005 at 04:44 AM

雪斎様、コメントありがとうございます。またまた、かんべえ様にお手数をかけてしまったようです。雪斎様とは昨年4月の近現代史シンポジウムで御面識を頂いてから、敬服いたしております。

 私がうまく書けないことを、雪斎様に書いていただいた気がいたします。一つの原理・原則で世の中が説明できたら、どんなにすばらしいでしょう。残念ながら、少なくとも私のレベルでは、そのような原理・原則は存在しません。「『是・親』と『非・反』の間で、物事を考える楽しさが生じる」というのはとても素敵な表現です。

 私自身は、反ブッシュ感情のような動機を好みません。論理的には雪斎様の論考が尽きていると思いますが、個人的には美学に反します。単なるアンチテーゼのように他者に完全に依存した考えなど、自分の思考ではありません。

 では自分以外はなにも信用しないのかといえば、そうではありません。過去の人々の行動と思考から生じる「常識」を重んじます。その意味で歴史というのは常識の宝庫だと考えております。しかし、歴史で生じたことは、必ずしも繰り返しません。大きなレベルではヒトは同じようなことをこれまで繰り返してきたし、これからもそうなのでしょう。しかし、いま現在起きていることをすべて常識で説明できるかといえば、それはできないと思います。そこに考え、行動する面白さがあると思います。それがなかったら、今以上に享楽的な人生を送っているでしょう。

 学者としての私は批判はほとんどしません。批判する場合には批判する価値のあるものだけを選びます。大変おこがましいですが、批判に値しないものは無視します。私の論文など今でも誰も読んでいないでしょうし、私が死ねば誰も思い出さないでしょう。しかし、少しでも価値のあるものを残そうと私なりに必死です。

 雪斎様と同じ意見になってしまうのでなんとか違う考えができないものかと思うのですが、なかなか難しいです。お目汚し、大変失礼いたしました。

 
 

Posted by: Hache | January 16, 2005 at 08:09 AM

>hache殿
 論壇では、良くある話ですけれども、甲が乙の議論を批判したとします。
 もし、甲の批判の中身が余りにも低水準であった場合には、甲の批判は、乙の議論を何ら「止揚」することのないものになります。
 要するに、テーゼからジン・テーゼを生み出さないようでは、アンチ・テーゼも「アンチ・テーゼ」の意味を持たないわけです。ところが、実際には、ジン・テーゼを生み出すことのない批判が、至るところに転がっているような気がします。そうした批判は、たとえば「甲が乙に噛み付いた」という事実だけを残すものに堕します。
 拙者は、「反」という姿勢も、本来は相当に細心の注意を払って示されるべきものだと思っています。「アンチ・テーゼ」を呼び起こすに相応しい「テーゼ」、そして「ジン・テーゼ」を生み出すに相応しい「アンチ・テーゼ」を世に示すことが、広く知識人の役割なのでしょう、

Posted by: 雪斎 | January 17, 2005 at 07:43 AM

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