Main | January 2005 »

December 28, 2004

今年の論稿・四(完)

 雪斎の対北朝鮮政策に関する考え方は、小泉純一郎総理の第一回訪朝直後、 『中央公論』(2002年12月号)に「北朝鮮を『自滅』や『暴発』に追い込まないために―〈対朝戦略で求められる日本の『現実主義思考』」と題された論稿を発表して以降、何ら変わっていない。この論稿の趣旨は、「フォーリン・プレス・センター」のサイト上で紹介されている。この趣旨だけを読むならば、雪斎の議論は、「アメ」の提供に傾斜したものと解されるかもしれないけれども、実際には、対朝制裁の枠組の準備や国際世論への働き掛けといった「ムチ」の用意の提案も行っている。この論稿は、英語訳が『ジャパン・エコー』誌、韓国語訳が『ジャパン・フォーラム』誌に転載された。特に『ジャパン・フォーラム』誌は、雪斎の議論を「穏健にして冷静な対北政策の提案」と紹介した。ただし、雪斎は、少なくとも対外政策の提案が「穏健にして冷静」を旨とするのは、当然のことであると考えている。「戦争と平和」に絡む国際政治の世界での政策提案に際しては、「やってみなければ、わからない」という発想は、最も厳しく排除されなければならないのである。
 雪斎は、小泉純一郎内閣の「対話と圧力」路線は、概ね順当なものと考えている。小泉第一回訪朝以後、特に保守・右翼層の中では、昭和初期の「暴支膺懲」ならぬ「暴朝膺懲」の気分に浸った議論が席巻しているようである。このような議論は、ただ単に「国民感情」の反映という域に留まるならば弊害も少ないかもしれないけれども、実際の政策を大幅に拘束するようになれば途端に多大な弊害を生むことになる。現在、小泉総理の最も評価される点は、昔日の近衛文麿とは異なり、「暴朝膺懲」の気分に迎合した発言を一切、避けていることなのであろう。
 下の論稿は、雪斎が対朝政策を論じた最新のものである。「今年の論稿」の締めとして書き留めておくことにする。

 ■ 再び対朝経済制裁発動の前提について

北朝鮮による邦人拉致問題をめぐる第三回日朝実務者協議は、十一月九日から十四日まで平壌で開かれ、然程の進展も見られないままに終了した。この結果を受けて、政府・与党内では、対北朝鮮経済制裁の発動が、現実の選択肢として語られ始めている。
 筆者は、対北朝鮮制裁発動の前提は、少なくとも我が国と米韓両国との「協調」が維持されていることにあると論じてきた。ただし、この「協調」が実際に機能するかは、予断を許さない。
 十一月十四日午後、韓国紙『中央日報』(日本語、電子版)が伝えたところによれば、盧武鉉(韓国大統領)は、訪問先のロスアンジェルスで講演し、自衛手段として核やミサイルの開発を進めているという北朝鮮の主張を「一理あると思う」と評した上で、対朝武力行使という選択肢を「交渉戦略における有用性が制約されるだけだ」と一蹴した。また、盧は、対朝経済封鎖という選択肢についても、「決して望ましい解決方法ではなく、不安と脅威を長期化するだけだ」と否定的な見解を示した。これに関連して、十六日午後の同紙によれば、尹光雄(韓国国防部長官)は、年明けに発刊される「国防白書」では、北朝鮮を「主敵」に表記した部分を削除すべきだとの所見を示している。韓国国防部内には、「南北交流が活発化している状況では、北朝鮮全体を主敵に見なすのは適切でない」という声があり、尹の所見も、そのような声と気脈を通じたものであろう。米国では二〇〇二年一月のブッシュによる「悪の枢軸」演説以降、そして日本では同年九月の「小泉訪朝」以降、「悪漢国家」としての北朝鮮像は自明のものとして定着した感があるけれども、韓国は、そのような北朝鮮像を受け容れていないようである。因みに、韓国紙『東亜日報』(日本語、電子版)の二十一日深夜配信の記事によれば、ジョージ・W・ブッシュ(米国大統領)は、チリ・サンティアゴで二十日午後に盧と会談した折、「あくまでも外交的かつ平和的な方法で、北朝鮮核問題を解決していくという点を再度強調する」と述べたけれども、 潘基文(韓国外交通商部長官)は、この発言の趣旨を「米国が北朝鮮に対して敵対政策をとらず、北朝鮮を侵攻する意図がないという点を再確認したものだ」と説明した。「悪の枢軸」演説や「先制攻撃戦略」に象徴されるブッシュ政権の対外政策方針は、「悪漢国家」としての北朝鮮には明らかに大きな心理上の圧力を意味しているにもかかわらず、韓国政府の姿勢は、その圧力を骨抜きにするかのような方向で働いているのである。
 無論、二期目を迎えたブッシュ麾下の米国政府が、どのように「外交的かつ平和的な方法による北朝鮮核問題の解決」という対朝政策方針を実際に切り回すのかは、定かではない。第一期政権内で「思慮深い現実主義」(prudent realism)を体現したコリン・L・パウエル(前米国国務長官)の姿は、もはやない。後任のコンドリーザ・ライスは、パウエルほどには「力の行使」に抑制的な態度を取ることはないであろう。また、邦人拉致問題の解決を含む北朝鮮の人権問題が改善しない場合での対朝援助(人道支援を除く)の禁止、北朝鮮と人権問題を協議する大統領特使のポストの新設、北朝鮮からの亡命者への門戸開放を定めた「北朝鮮人権法」は、既に十月十八日の時点でブッシュの署名により成立している。客観的に見れば、北朝鮮政府が米国政府の「軟化」を期待できる根拠は、誠に乏しいものになっている。その意味では、現在、進行中の「六ヵ国協議」の枠組を生かすことにしか、北朝鮮政府が米国に対する働きかけを行える機会はない。もし、「六ヵ国協議」での対朝説得が不調に終われば、我が国は、この問題を国連安保理に付託すべく、関係各国に働き掛けるべきであろう。筆者は、我が国が対朝経済制裁を発動する時機とは、国連安保理での協議の結果、対朝経済制裁が決議された瞬間であると考えている。北朝鮮に対する「圧力」の枠組としては、このような国際合意を形成していくことが、先決なのである。
 政治という営みにおいては、「力量」、「運」、「必要性」の三つの要件への考慮が大事であると指摘したのは、二コロ・マキアヴェッリであった。そして、マキアヴェッリは、次のような言葉も残している。「加害行為は、一気にやってしまわなくてはならない」。制裁発動は、北朝鮮に害を加える行為に他ならないのであるから、それを実際に手がけるためには、きちんとした時機の見極めが必要になる。我が国は、特別な施策を要請されているわけではないのである。
             『月刊自由民主』(二〇〇五年一月号)掲載

| | Comments (1) | TrackBack (0)

December 26, 2004

今年の論稿・三

 雪斎にとって、軍事は最も身近な領域である。雪斎は、「武官の息子」として育ったので、幼少の頃から戦記マンガの類は飽きるほど読んでいた。昭和四十年代後半に放映された戦記アニメーション番組『決断』の主題歌の一節は、今でも覚えている。雪斎が広い意味での政治学の中でも国際政治、安全保障を専攻としているのも、そうした軍事の身近さが大きく関わっている。
 下に書き留めた原稿は、「自衛隊は『義兵』の王道を進め」と題した原稿に若干の修正を施したものである。今年の小泉純一郎内閣の対外政策は、イラクへの自衛隊派遣と北朝鮮情勢への対応を焦点にした感があるけれども、この原稿の中で援用した『漢書』の一節は、自衛隊の役割として何が期待されているかを考える上では誠に示唆深いものである。おそらくは、自衛隊が「義兵」や「応兵」の枠組である限りは、その活動が道を踏み外したものになることはない。軍隊の意味を考える際に大事なのは、それが、どのような性格を持つものであるかということである。にもかかかわらず、戦後の日本では、「義兵」も「応兵」も「忿兵」も「貧兵」も「驕兵」も、総てがひとまとめにして否定された。そこでは、どのような基準の下でならば軍隊が使えるのかという冷静な議論は、閑却されたのである。
 そのことは、軍隊がさほどの思慮も伴わずに使われる危険を醸成してもいる。ジョージ・W・ブッシュ第一期政権下で国務長官を務めたコリン・L・パウエルは、湾岸戦争を指揮した「英雄」であった。パウエルは、イラク戦争時には、終始一貫して国際協調を模索した。一昨日の産経新聞サイト上の記事によれば、パウエルは、『フォーリン・ポリシー』誌上に論文を発表し、「軍事手段の限界」を説いたようである。振り返れば、マシュー・B・リッジウェイもまた、一九五四年の第一次インドシナ戦争に際しては、戦争介入が検討された米国政府部内で介入反対の姿勢を取った。パウエルもリッジウェイも、武官として軍事作戦展開に伴う「困難」を知ればこそ、性急な軍事作戦の発動には異論を唱え続けたのである。
 雪斎は、民主主義体制下における「武官」とは、パウエルやリッジウェイのような存在を「範型」とすると考えている。戦争を起こすのは、往々にして戦争の「現実」を知ることのない政治家、文官、メディア、そして国民自身である。そのような逆説は、何時になったら理解されるようになるのであろうか。

 ■ 義兵、応兵、忿兵、貧兵、驕兵
          
 史書『漢書』「魏相丙吉傳」(巻七十四、第四十四)に収められているのは、古代中国・前漢の「中興の祖」と称えられる第七代宣帝に仕えた魏相と丙吉という二人の丞相の事績であるけれども、書中には次のような記述がある。
 「相、上書して曰く。『臣、之を聞く。乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂う。兵が義なる者は王たり。敵が己を加し已むを得ずして起つ者、之を応兵と謂う。兵が応ずる者は勝つ。小故を恨んで争い、憤怒して忍ばざる者、之を忿兵と謂う。兵が忿る者は敗れる。人の土地、貨宝を利する者、之を貪兵と謂う。兵が貪る者は破れる。国家の大なるを恃み、民人の衆きを矜り、敵に威を見さんと欲する者、之を驕兵と謂う。兵が驕する者は滅ぶ。此五者、但人事のみに非ず、乃ち天道なり』」。
 この『漢書』「魏相丙吉傳」の記述を前にして筆者が確認するのは、第二次世界大戦後、我が国の軍隊たる自衛隊が進めた歩みの正しさといったものである。振り返れば、明治期以降の我が国の足跡の意味は、植民地獲得という「貧兵」の論理が支配した国際社会の中で、どのように自らの立場を守るかに他ならなかった。日清、日露の二つの戦役での勝利は、我が国に対しては、「貪兵」の論理に基づく「一等国」の地位を与えはしたけれども、その地位は、「驕兵」の彩りをも添えるものとなった。そして、一九三七年七月、日中戦争勃発直後、我が国政府は「事態不拡大の方針」を決定していたにもかかわらず、近衛文麿は、「暴支膺懲」の気分に浸った世論や軍部に迎合した発言を繰り返し、翌年一月には「爾後、国民政府を対手とせず」を趣旨とする声明を出した結果、事態収拾の芽を摘んだ。近衛の失敗は、紛れもなく「忿兵」の帰結であった。
 第二次世界大戦後、「忿兵」、「貧兵」、「驕兵」の論理から離れた我が国が築いた自衛隊の性格は、紛れもなく「応兵」の枠組としてのものであった。そして、「冷戦の終結」以降、我が国は自衛隊に「義兵」の枠組としての性格を付与した。カンボジアから現下のイラクに至るまで展開された国際平和協力や復興支援に絡む活動は、「乱を救う」ためのものであったと説明できるであろうし、「九・一一」事件以降には世界共通の課題になったテロリズム対処は、「暴を誅する」意味合いを持つものであったといえる。因みに、国際連合憲章の上では、加盟国に許容されている武力行使の基準は、自衛権の行使の場合と軍事制裁発動の場合であるけれども、これは、「応兵」と「義兵」を指すものである。そして、『漢書』「魏相丙吉傳」においては、この「応兵」と「義兵」だけが「勝」と「王」に連なるものとして奨められていたのである。近代西欧の歴史によって醸成された「万国公法」の一つの成型たる国連憲章の規定と二千年余り前の史書の記述には、誠に瞠目すべき共通項がある。このことは、「万古不易」の言葉を想起させる。
 翻って、我が国の周辺情勢は、依然として「忿兵」、「貧兵」、「驕兵」の論理を奉ずる国々が残っていることを示している。「強盛大国」を標榜する北朝鮮は、その国情の内実はともかくとして、「驕兵」としての姿勢を露わにしている。また、中国は、東シナ海海洋権益の扱いに絡んで「貪兵」の論理を鮮明に示すようになっているし、我が国領海内に自らの原子力潜水艦が侵入した際の「驕兵」の姿勢は、明らかに裏付けを持たない北朝鮮のものに比べれば、遼かに露骨なものであろう。しかし、『漢書』「魏相丙吉傳」の記述に従えば、北朝鮮の「驕兵」の姿勢は早晩、自らの「滅」を招くであろうし、中国の「貪兵」と「驕兵」の論理もまた、それが自らの「破」や「滅」に結び付くという意味においては、先々の破綻を免れないであろう。特に「政冷経熱」を指摘される現下の日中関係を前にして筆者が訝るのは、胡錦濤(中国国家主席)や温家宝(中国首相)を初めとする中国共産党政府指導層が、どのように「兵貪者破、兵驕者滅」の文言を遺した自らの先人の警告を受け留めているのかということである。
 このような情勢の中で我が国が自戒すべきは、我が国が再び「忿兵」の気分に浸かって対外政策を展開しないということに尽きるであろう。北朝鮮や中国の姿勢は、我が国の幾多の人々の感情を逆撫でにしているけれども、我が国の実際の政策展開が、そのような感情に裏付けられるようなことがあってはならない。民主主義体制の下では、世論と称されるものに埋め込まれた人々の感情が、実際の政策展開を左右することが少なくないのであれば、そのような「忿兵」の陥穽に足を取られることの危険は、強調される必要があろう。

          『世界日報』 (二〇〇四年十二月十一日付)掲載原稿に補筆                     

| | Comments (2) | TrackBack (0)

December 25, 2004

今年の論稿・二

 政治学徒の関心を集める一つの要件は、「秩序」である。「無秩序な社会」における「秩序」の意味を考究する国際政治学の世界では、そのことは特に顕著であるといえる。それでは、個々の人々にとって、その「秩序」は、どのような意義を持つのであろうか。
 古代中国の聖天子・堯帝の世は、「鼓腹撃壌」の言葉で語られるけれども、そのような安定した「秩序」の下でこそ、人々は日々の生活を平穏に営むことができる。「秩序」は、人々が「生きたいように生きる」上での前提なのかもしれない。
 ところで、今年もまた、幼い子供たちが犠牲になる事件が相次いだ。現在の子供たちの世代は、「生きたいように生きる」上では未曾有の恵まれた条件を手にしている世代である。無論、雪斎の世代もまた、「貧困」と「戦争」の影から免れていた点では、「生きたいように生きる」ことのできた世代かもしれない。ただし、「戦争の残影」に縛られ、「冷たい戦争」が進行する中で生まれ育った雪斎の世代は、そのことによって、思考の幅が狭められている嫌いがある。しかも、雪斎の世代にとっては、「海外」は、まだ「特別な空間」であった。雪斎の世代は、結局のところ、「考えたいように考える」ことのできた世代では決してないのである。雪斎の世代が取り組んでいる「普通の国」云々の政策課題は、「先の大戦」の敗北に伴う残務処理みたいなものであり、取り立てて新しく何かをしようとするものではない。現在の子供たちの世代には、「生きたいように生きる」だけではなく「考えたいように考える」条件もまた、用意されなければなるまい。「生きたいように生き、考えたいように考える」ことのできた世代が生み出す文化は、誠に豊饒なものなのではなかろうか。
 下の原稿は、そうした雪斎の想いが込められたものである。厳密には「政治評論」とはいえないけれども、書き留めておくことにする。


 ■ 「東京」から四十年後、「アテネ」から四十年後…                     

 本稿を執筆している八月二十五日時点では、世の関心を独占しているのは、アテネ・オリンピックにおける柔道、競泳、体操を初めとする日本競技陣の活躍である。金、銀、銅の三種のメダル獲得総数は、既に史上最多の三十四個に達し、金メダル獲得数に限れば史上最多の十五を記録した東京オリンピックに肩を並べる勢いである。日本競技陣は、金メダル獲得数では、米国、中国に次ぐ成績を収めている。率直にいえば、私は、我が国が「スポーツ大国」であると意識したことはなかったけれども、此度の成績は、我が国が「スポーツ大国」であることを如実に物語っている。自らの子供の「意外な才能」を知って戸惑いながらも喜ぶ親のように、私は、日本という国の「意外な相貌」に驚いている。
 ところで、そもそも、オリンピックは、「時代の物語」と重ね合わせて語られるところがある。振り返れば、一九六四年の東京オリンピックは、日本の「復興」を世界に知らしめた催事であった。東京オリンピック以後、日本は、「経済大国」への道を驀進した。そして、それから四十年後のアテネでの日本競技陣の活躍は、後世、どのようなものとして語られることになるのであろうか。私は、此度の日本競技陣の姿は、「世界に何の気負いもなく向き合うようになった日本」を象徴しているようなところがあると考えている。幾多のメダリストは、幼少の頃から競技を始め、国際舞台で技を磨いてきた。昔日の世代は、徒手空拳で競技を始めるという事情が多分にあったし、海外経験は「特別な出来事」であった。村田英雄が歌った『王将』には、「明日は東京に/出て行くからは/なにがなんでも/勝たねばならぬ」という一節があるけれども、『王将』の中の「東京」を「海外」に置き換えれば、昔日の世代がオリンピックのような場に臨んだ際の気分というものが、浮かび上がってこよう。翻って、現在の世代は、様々な国際経験を可能とする「豊かさ」の上に、昔日の世代の「経験」を継承しつつ、競技を進めてきた。この世代にとっては、海外での経験は、もはや「日常の風景」でしかないし、その感覚もまた、東京オリンピック後に「もう走れません…」の言葉を遺して世を去った円谷幸吉のようなものとは、だいぶ、懸け離れているだろう。東京オリンピック以後の四十年の歳月は、確かに「アテネの群像」を登場させる環境を用意したのであろう。
 東京オリンピックの四十年後に登場した「アテネの群像」を前にして、四十年後の日本の風景に想いを馳せながら、私は、岡崎久彦氏の著書『百年の遺産』にある次のような記述を思い起こしてみる。
  「文化の最盛期というのは、古今東西の歴史で、戦乱の百年後に訪れています。漢の武帝、唐の玄宗の時代、日本の元禄等、皆そうです。…関ケ原の戦い(一六〇〇年)の五十年後といえば、由井正雪の乱(一六五一年)です。関係者は皆、関ケ原戦後生まれですが、まだ戦争の長い影をひきずっています。戦乱の影響のかけらもない、井原西鶴、近松門左衛門、尾形光琳、松尾芭蕉、関孝和など元禄をになう世代が生まれるのは、一六四〇、五〇年代です」。
 もし、岡崎氏の見立てが正しいとすれば、我が国の文化の最盛期は、今より四十年後の二〇四五年前後に訪れることになる。それは、誠に楽しい見立てではないであろうか。無論、この岡崎氏の見立てにも、前提はあろう。それは、日本の経済や社会の活力が現在の水準から劇的に落ちることなく、「世界に何の気負いもなく向き合うようになった人々」の活躍を支えていくことができるということである。私は、現在、進められている様々な施策もまた、具体的には「二〇四五年の日本」を考慮した上でのものであって欲しいと考えている。政治的な権勢や経済上の隆盛といったものは、本来は転変を免れ得ないものであるけれども、文化やスポーツの領域での所産や業績は、「永遠の生命」を持つものである。
 元禄期の井原西鶴、近松門左衛門、尾形光琳、松尾芭蕉のように、「二〇四五年の日本」の文化を担う人材は、現時点で生まれたばかりであるか、あるいは今後、数年の間に生まれてくることになる世代である。現在、社会の動きを差配することのできる立場の人々の責任とは、そのような世代に対して、できるだけ自然な条件を用意しておくことでしかないのであろう。
                  『月刊自由民主』(二〇〇四年十月号)掲載

| | Comments (2) | TrackBack (0)

December 23, 2004

今年の論稿・一

 今年の回顧をしなければならない時期になった。雪斎は、今年も色々な文章を書いたけれども、最も出来の良かったものとして取りあえず下の一編を書き留めておくことにする。この原稿は、毎日新聞の0氏から依頼された。雪斎は、政治学徒としてジョージ・F・ケナン流の「現実主義」に傾倒するけれども、「現実主義」を「現状追随主義」と誤認する雰囲気の根強い日本では、ケナン流の「現実主義者」であることは難しいことのようである。もしかしたら、コリン・パウエルがジョージ・ブッシュ政権から去ったという事実は、米国でも「現実主義者」は居心地が良くないということを暗示しているのかもしれない。


 ■ シリーズ[(現在)への問い]第1部 平和のつくり方/5 米国の戦争は「理念」に基づく必然か。
 二〇〇四年二月二十日午前、米国プリンストン大学構内、リチャードソン講堂(アレクサンダー・ホール内)では、一つの会合が催されていた。それは、ジョージ・F・ケナン(プリンストン高等研究所名誉教授)が四日前の二月十六日に齢百を迎えたことを祝うためのものであった。ケナンは、冷戦初期、対ソ「封じ込め」政策の立案に主導的な役割を果たした人物として知られているけれども、国務省退官後は、歴史研究と外交評論の両面で精力的な活動を続けた。コリン・L・パウエル(米国国務長官)は、会合でのスピーチの中で、「大きな出来事に立ち会うことで名声を獲得した人々もいれば、まだ結果の出ていない出来事に加わることで有名になった人々もいるし、そのような諸々の出来事を解釈する才能で尊敬された人々もいる。ジョージ・ケナンは、その三つの総てであった」と述べた。そして、パウエルは、国務長官着任時にケナンから「どことなく思いがけず、ぶっきらぼうではあるが、とにかく素晴らしい助言」を記した書簡を受け取り、その返書の中で定期的に助言の書簡を書くようにケナンに要請したことを告白している。米国外交に実際に携わる人々にとっても、それを研究する人々にとっても、ケナンは、紛れもない「最後の賢人」として高い位置を占めていたのである。
 ところで、パウエルがケナンに寄せた率直な敬意の一方で、ケナンは、イラク戦争開戦前、パウエルが身を置くジョージ・W・ブッシュ麾下の米国政府の対イラク政策を厳しく批判していた。ケナンは、久しく米国外交における「単独行動主義」の性格を批判し続けた人物であるけれども、その批判は、「米国が他国の事情に無闇に容喙することへの懸念」に端を発していた。そもそも、米国は、「丘の上の町」を築くという「理想」から出発した国家であるけれども、南北戦争以降の産業発展を経て二十世紀初頭には、そのような「理想」を他国に対して押し付けるに足る「実力」を手にするに至った。確かに、「自由と民主主義」という言葉に象徴される米国の「理想」は、それ自体としては他国の人々の憧憬の対象となり得るものである。ただし、米国の「理想」が赤裸々な「実力」の裏付けを伴って示されたときには、その示され方によっては他国の人々の反感を呼び、その「理想」それ自体に泥を塗る結果を招くことがある。殖民地時代に新大陸に渡ったスコットランド人を祖とするケナンは、米国の「理想」を誠実に信奉すればこそ、そのような結果を避けるためにも、「実力」の行使に際して抑制的にして思慮深くあることを説いたのである。ケナンによるブッシュ政権批判は、そのような持論からは当然のように導かれるものであったし、米国がイラク占領以降に直面する困難を前にすれば、その批判の持つ意味は誠に重いものがあるといえよう。
 ブッシュの再選が成った此度の大統領選挙の過程でも半ば定形のように示されていたのは、ブッシュの「単独行動主義」とジョン・F・ケリーの「国際協調主義」という図式であった。しかし、たとえばイラク戦争に至る過程を眺めてみれば、そこに浮かび上がるのは、「単独行動主義」の性格を喧伝されるブッシュ政権の中でさえ、国際的な合意を得ながら対イラク政策を進めようとしたパウエルの路線と軍事作戦の展開を急ごうとしたドナルド・H・ラムズフェルド(米国国防長官)の路線には、明らかな違いがあったという事実である。そうであればこそ、ケナンは、パウエルを「難しい立場にあってラムズフェルドよりも遼かに力強く自らの声明を打ち出してきた、高い忠誠心を備えた人物」と評し、その外交手腕を賞賛したのである。また、「国際協調主義」の性格を指摘されたケリーにしても、たとえば北朝鮮情勢への対応に際しては、対朝直接交渉の可能性に言及するといったように、「単独行動主義」の傾きから離れているわけではなかった。パウエルの去就を含め、ブッシュ第二期政権の陣容がどのようなものになるかは定かではないけれども、米国外交における「単独行動主義」と「国際協調主義」の相克の風景は続くことになるのであろう。
 我が国を初めとして今後も米国に向き合わなければならない幾多の国々にとっては、その対米政策の本質は、どのように、ケナンが米国国内から説いたような「慎慮」を相応の説得性を伴って求めていくかということに他ならない。たとえばテロリズム撲滅のような課題に取り組むに際して、米国の「実力」の持つ意義は否定できないけれども、それが米国の「理想」に結び付いて「単独行動主義」の性向を暴走させる事態は、避ける必要がある。「単独行動主義」の源泉となる米国の「理想」を共有し、その「実力」に寄り添いながら、「国際協調主義」を可能にする「慎慮」の意義を倦まずに米国に対して説いていく。そのような息の長い努力が、特に我が国のような同盟国には、大事なものになるであろう。
『毎日新聞』夕刊(二〇〇四年十一月八日)掲載

| | Comments (6) | TrackBack (0)

ブログを開設しました。

 ブログを開設しました。これから折々の政治事象に関して思いついたことを書き連ねていきます。
 雪斎は、戦国時代、駿府今川家の軍師にして、幼少時の徳川家康も薫陶を受けた「太原雪斎」に因みました。
 お時間があるときにでも、覗いて頂ければと思います。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

Main | January 2005 »